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時よとまれ [柳田国男の昭和]

《第251回》
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 数えで85歳をすぎた柳田国男は、書簡やメモなどはともかくとして、原稿を執筆することはなくなり、もっぱら読む人、語る人になった。民俗学研究所が閉鎖され、そこに置かれていた大量の書籍や資料を成城大学に寄贈してからは、新しく建てた隠居所で静かに暮らす日々がつづいている。
 近くであんまをしてもらったり、週に一二度、長い散歩をしたりする習慣は変わらない。風邪をこじらして肺炎にかかり入院することもあるが、だいたいは元気だった。誰をも驚かせた強靱な記憶力がとみに衰えたことはいなめない。それでも近くの成城大学や渋谷の国学院大学に出かけて講義もしていたし、学士院や稲作研究会の会合にもよく出席していた。頼まれれば講演もするし、雑誌の座談会にも顔を出した。
 成城の柳田邸を訪れる人は、かつてほど多くなくなったが、それでも人がくると歓待し、話はつきなかった。
 おまけにテレビにも出演している。1961年(昭和36)3月7日にははじめてTBSの「婦人ニュース」で民俗学について話し、翌年3月22日にはNHKの「ここに鐘は鳴る」で、多くのなつかしい顔ぶれを前に、元気な姿を見せた。
 晩年を飾る代表作『故郷七十年』と『海上の道』も出版され、江湖の喝采を博したのはいうまでもない。
 加えて、初の全集となる『定本柳田国男集』も筑摩書房から出はじめている。1962年1月には、その第1回目となる『雪国の春』などを収めた「第2巻」が配本され、その後、「第8巻」「第9巻」「第22巻」「第14巻」と毎月順調に刊行が進んでいた。
 その「定本」の内容見本に国男を敬愛する中野重治は、「こういう形で読めるありがたさ」と題して、かれ一流の言い回しで、推薦のことばを寄せている。

〈それは、私には文学文学という文学よりももっと人をとらえる何かだった。そこから何を学んだかということはいいにくいが、私としていえば、民族の姿とか国語の姿とかいったことが主なものだったろうと思う。……つまり、日本人の生き方の姿とか問題として柳田さんの学問はうまれてきたのだったかも知れない。このへんのことは私にはよくわからない。しかしまたそのへんに、柳田さんのものに向かったときにわれわれの中に生じる無限の近しさの源があったと思う〉

 柳田民俗学の根幹が「日本人の生き方の姿とか問題」にあるととらえた中野重治の指摘はさすがである。これが日本人だといわれても、じつはよくわからない。ニッポン国民といわれると、えらそうな連中のつくった「国」なるものに閉じこめられたような気がする。しかし、柳田民俗学は、はじめて国によって定められた「民」ではなく、自前の「日本人」像をつくりだしたのではないか。おそらく中野のいいたいことはそのあたりにある。
 そのころの国男をスケッチした文章をみつけた。
 最晩年の1962年(昭和37)5月、作家の佐多稲子が、女友達と連れだって柳田邸を訪れている。

〈成城の今のお住まいは二十数年昔のお宅ではなかった。同道した布土富美子さんはわらべ人形の作者で、その仕事の上で柳田先生とお近づきがあるようだ。私たちは、紫のてっせんの花などの見えるみどり深いお庭を前に、先生ご夫妻と静かなひとときを過ごさせていただいた。
「このごろは私は、同じことを何度もいうらしいのですよ」と先生ご自身がおっしゃいながら、私たち女連れのうかがったことを、二度三度、めずらしがっていられた。お庭へ出てから、ご自分の方で書斎も見せてくだすったりしたが、奥様がもの柔らかにいつもご一緒に歩かれて、そのことが美しく印象に残る。私の方では、突然にうかがった自分をはしたなくも感じてしまうことだったが、私たちがおいとまするとき先生ご夫妻は、自然な形で、門の外までおいでくださった〉

 佐多稲子は戦前、雑誌「新女苑」の編集を手伝っていて、国男の談話をとったことがあり、国男とはそれ以来のつきあいだった。
 わらべ人形が出てくるのは、1年ほど前、国男が雑誌「芸能」に「童神論」を連載したことと関係があったかもしれない。
 夫人が国男を常に気づかいながらも、周囲には静かで穏やかな時が流れていたことがわかる。「このごろは私は、同じことを何度もいうらしいのですよ」と冗談めかすように話す国男は、あたかも童心に戻ろうとしているかのようだった。いや自身が童神になろうとしていたのかもしれなかった。
 中野重治が柳田邸を訪れたのも、自宅でつくった草餅をもっていったというから、同じころか、あるいはさらに1年前だったかもしれない。国男はこのときも「いつものさっさといった調子」であらわれ、「よく来た、さアあがれ……」と上機嫌で中野を迎えたという。
 国男は草餅のお礼をいうのを忘れなかった。さらに、ごく気のおけぬ連中だけで、雑誌社なんかいれないで、研究会でも座談会でもやろうと意気軒昂なところもみせた。
 そのあとである。
 長くなるが、中野の文章をそのまま引いておく。

〈そのうちそういう話が柳田さんから出て、私はことごとく賛成した。私は民俗学の方には関係ないが、柳田さんの話し方からすると、私なぞもそこへ加えてもらえるのらしい。
「時に君は高椋(たかぼこ)でしたね。大間知(おおまち)君は越中でしたね……」
 そうして話がすすむ。
「時に君は高椋でしたね……」
 そのへんで私は気づかされてきた。私は息を呑んだ。4、5分もすると話がもどってくる。それが繰りかえされる。私は身の置場がなくなってきた。脳中枢というのか、矍鑠(かくしゃく)として見えるこの人のなかで、大脳生理とか神経生理とかいうところで、大木のコルク質にぽくぽくの部分が出来たような変化が生じてるのらしい。30年前に話したことでも二度と繰りかえさない。橋浦泰雄がむかしむかし歩いた道、それを、橋浦自身まちがえてると柳田さんが訂正する。そんな話を聞き聞きしてきたが、その人がこうなっている。私はただ悲しくなってきた。
 やがて私は辞した。奥さんが門のところまで送ってくだすった。そうして、その門のところで、「このごろすっかりあんな具合になりまして、失礼ばかりいたしますが……」というような言葉が私の耳にはいった。
 私は打ちひしがれて電車に乗り、打ちひしがれたままで家へ帰って行き、模様を話してからも腰のぬけたような気持ちでいた〉

 中野の一文は「私はただ、あの草餅を柳田さんが食べてくだされたろうことを幸福とする」と結ばれている。
 ここに出てくる大間知篤三、橋浦泰雄は国男の弟子である。
 中野は何度も同じ話をくり返すようになった国男の頭脳の衰えに愕然としている。だが、むしろ驚くべきは、人の名前が出身地と結びつけられて、しっかり記憶されていたことかもしれない。国男にはおそらく中野重治といえば、かれの生まれた福井県坂井郡高椋村(現坂井市)の光景がまざまざと浮かんだのだろう。
 一見、脈絡がないかのようで、国男の頭のなかでは、何もかもがくり返し連想されている。ことばにはならない記憶が走馬燈のように浮かんでは消えていく。
 柳田国男が老衰で亡くなったのは、1962年(昭和37)8月8日のことである。享年88歳。
『柳田国男伝』には、国男の秘書を務めていた鎌田久子が、言語学者の金田一春彦に語った臨終の様子が掲載されている。

〈柳田先生はおなくなりになる前日まで実にしっかりしていらっしゃった。少し前から床にはついておられたが、はばかりへも自分でお立ちになり、食事の時はちゃんと正座され、ついに一度も人手をわずらわされなかった。それが前日はばかりから床へお帰りになると、くずれるようにおたおれになった。「くずれるように」というのは、誇張ではない。燃えたものが灰になっても、灰のままその形を保って立っていることがある。あれがくずれる時のように床の上にバサッとたおれてしまわれ、再び起き上がれなかったというのである。先生は気力だけでそれまでの何日かを持ちこたえておられたのであろうか。
 それから1日半、先生はベッドの中でうつらうつらしておられたが、8月8日の午後1時安らかに息を引き取られた。その死顔はデッドマスクを取らずにはおられないように美しかったという。享年88歳、まことにあらまほしく羨ましい。一世に重きをなした大学者にふさわしいりっぱな御臨終であった〉

「あらまほしく羨ましい」死に方といえば、まさにそのとおりである。
 しかし、われわれとしては、ここで「時よとまれ」といった気分にさせられる。
 最晩年の国男が考え、祈っていたことどもをもう一度ふり返ってみたいからである。

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