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『レッドアローとスターハウス』(原武史著)雑感 [本]

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歴史には政治史から風俗史にいたるまで、いろいろな層がある。
歴史そのものを生きる人もいないではない。
しかし、たいていは書かれた歴史と、人の生き方のあいだには、いくつもの層が重なったり、誰も知らない経験があったりして、最近の歴史でさえ、どこか絵空事のように思えることはないだろうか。
それに、そもそも本の歴史は、だいたいが政治史であり、誰それが大統領や首相になり、こういう仕事や失敗をしたとか、どの国とどの国が戦争をしたというような話ばかり。
あまりに複雑怪奇なので、しまいに頭がこんがらかってくることも多い。
だが、はるか上から降りてくる歴史とはちがう、身近に寄り添う歴史もあっていいのではないか。
ただし、それを見つけるためには待つだけではなく、みずから発見の旅に出なくてはならない。
本書のタイトルに出てくるレッドアローとは、池袋と西武秩父を結ぶ西武鉄道の特急を指している。1969年から運転がはじまり、いまも走っている。
いっぽうのスターハウスは、ひばりが丘団地などで建てられた、上から見るとY字型をした2DKの「星形住宅」。いまはあまり残っていないが、1960年ごろは憧れの住宅で、「スターハウスこそは、団地の時代の幕開けを告げる記念碑的建物であった」とか。
1962年生まれの著者は、子ども時代を西武沿線の団地ですごした。だから、レッドアローとスターハウスは、子ども時代を象徴するキーワードでもある。
西武鉄道は堤康次郎を「天皇」とする王国であり、団地は日本共産党が勢力を伸ばす拠点となっていた。
西武沿線には「天皇」と「共産党」が手を携えあう複合的な思想空間が生まれていた。それは戦後、世間を一世風靡するアメリカニズムとはどこか異質の空間だった。
「本書は、この思想空間で自己形成をした一人の体験者による、ナショナル・ヒストリーに解消されない戦後思想史の試みといえるかもしれない」と著者が書くのは、それだけの理由がありそうだ。
そして、ぼくなどは、天皇と共産党からの離脱こそが、子ども時代以来、著者の負った思想的課題となったのではないか、とさえ勘ぐってしまうのである。

本書は西武鉄道と公団住宅がつくりだした東京郊外を舞台とする、もう一つの戦後史を細部にわたって描こうとしている。
いくつもの、なるほどというような発見がある。
たとえば、戦後、日本では住宅が不足し、1955年に日本住宅公団が発足するが、大都市圏に建てられた集合住宅は、アメリカ的というより、ソ連風だったという。日本の団地の風景が、モスクワ郊外の労働者住宅に似ているというのは、ちょっとびっくりだ。
そして西武沿線はどうだったかというと……

〈庭付き一戸建ての持ち家に住み、自家用車で通勤や買い物に行くというアメリカ型のライフスタイルは、首都圏、とりわけ西武沿線では全くといってよいほど定着しなかったのがわかる。その代わりに西武沿線では、団地に住み、西武バスや西武鉄道に乗って都心に通い、西武百貨店や西武ストアー(後の西友ストアー)で買い物をし、休日は豊島園や西武園、西武球場(現・西武ドーム)、さらには奥武蔵ハイキングに出かけるライフスタイルが定着していくのである〉

この西武王国をつくりあげた男、事業にも女性にも開発意欲旺盛だった堤康次郎の行動には驚くほかない。晩年には、狭山丘陵を切り開き、そこにディズニーランドに劣らない一大レジャーランドをつくるという構想をもっていたという。
著者は西武鉄道の機関紙に掲載された肖像写真や、その大家族主義的経営、社員教育、あるいは鎌倉霊園につくられた墓地から、堤康次郎がつくったのは「西武天皇制」だったと明言している。

共産党を代表する論客、上田耕一郎、不破哲三の兄弟が西武沿線の出身だったというのもおもしろい。
50年代半ばに極左冒険主義を否定した共産党は、団地の文化運動や自治会活動を通して、着実に支持を増やしていく。
西武沿線の団地で共産党が広く受け入れられたのは、まさか、そこがモスクワ郊外の風景に似ていたからではあるまい。
団地の住民はほとんどが核家族で、よりよい保育所や交通、病院などを求めていた。孤立した暮らしのなかでは、隣近所のつきあいが助け船になったかもしれない。
電車運賃の値上げ反対や終バスの時間延長も集団の力が必要だった。その中心となったのが、共産党の主導する自治会である。
共産党が支持を広げていったのは、下町の労働者階級ではなく、高学歴でホワイトカラーの新中間階級だったところに注目すべきだろう。
1962年から75年まで、共産党主催のアカハタ祭り(赤旗まつり)が多摩湖畔の狭山公園で開かれたというのもおそらく偶然ではない。そして、ここに出かけるには西武鉄道を利用しなければならなかったのが皮肉である。

著者は西武沿線の団地で共産党が広く支持され、狭山公園でアカハタ祭りが開かれて時代を単になつかしんでいるわけではない。
1963年5月には、狭山公園からさほど遠くない場所で、女子高生が誘拐され、殺害された、いわゆる狭山事件が発生している。
だが、共産党は部落解放同盟と対立して、この事件から手を引く。
(ちなみに、当時の西武鉄道のダイヤを使って、その犯人とされた石川一雄のアリバイを確認し、その無罪をあらためて立証した著者の手法は圧巻といわねばならない。)
また1967年10月には、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとして、羽田で全学連が機動隊と衝突し、京大生の山崎博昭が亡くなったが、まさにこのときも共産党は狭山公園で赤旗まつりを開いていた。
そして、70年代にはいると、団地に創価学会が進出し、共産党と鋭く対立しはじめる。

著者は1968年から72年にかけての時期が〈政治の季節〉だったという主観的な見方をとっていない。

〈「政治の季節」と呼ばれる68年から72年にかけての大学闘争や新左翼による数々の事件は、西武沿線の団地住民に何ら影響を与えていない。大学生がほとんど住んでいない団地に新左翼や全共闘の学生の姿はなく、新宿騒乱事件も東大安田講堂の「落城」も内ゲバも、まるで遠くの世界の出来事のようにしか見えなかったのではないか〉

たしかにそうだろうなあという気がする。この指摘は貴重である。
だが、それよりも、当時小学生になり、滝山団地に住んでいた著者に衝撃を与えたのは、通っていた「第七小学校」が「コミューン」と化したことだった。その詳細は原の別著『滝山コミューン一九七四』に譲らねばならないが(小生は未読)、そのとき全生研(全国生活指導研究協議会)に属する教師のおこなった集団づくり教育の手法は「スターリンの粛清が猛威をふるった時期のソ連と比べても一層全体主義的であり、個人を圧殺するものであった」という。
それをまたPTA役員の多くが後押ししていたというから、子どもたちは、まったくたまったものではなかっただろう。
小学6年生だった著者が、集団づくり教育に疲れ果て、武蔵野に残る野火止用水を見つめていたというくだりは、いろいろと考えさせられるものがある。

集合住宅は次第に量から質の時代へと変わっていく。モータリゼーションの時代もはじまっていた。

〈89年から91年にかけての東西冷戦の終結とソ連の崩壊、それに伴う社会主義の凋落は、日本における社会主義勢力の退潮を招いたばかりか、首都圏の私鉄郊外の住宅地にもじわじわと影響をもたらした。その最も鮮やかな対照は、共産党の支持基盤となっていた西武沿線の団地人口の減少や高齢化、分譲価格の下落と、新自由主義の支持基盤となる東急沿線の住宅地における若年層を含む人口増加、地価上昇ということになろうか〉

著者は別に新自由主義を肯定しているわけではあるまい。時代が動いたのである。
しかし、鉄道と団地のつくった戦後空間が、これまであまり論じられなかった思想領域をつくっていたことはたしかである。
そこに着目した本書に大いに蒙を啓かれた。
われわれもまた書かれていない歴史に足を踏み入れてみるべきではないか。

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