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旅のしたく [柳田国男の昭和]

《第252回》
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 ほんの少しだけでも時間を巻き戻すことにしよう。
 最晩年の国男が何を考えていたのかを知るには、このころの座談会や談話、口述筆記をたどるほかない。
 かつての人を緊張させずにはおかなかった鋭さはなくなり、国男は時にうつろに遠くを見やり、何度も同じ話をくり返す好々爺に変じていた。だが、亡くなる直前まで、頭脳の明晰さを失ったわけではなかった。
 年をとると記憶力がなくなるというのはうそで、むしろ昔の記憶で頭がいっぱいになってしまうのだと述べた評論家がいるけれども、国男の老年もむしろ、そのようなものではなかっただろうか。
 1959年(昭和34)12月に成城の柳田邸を訪れた朝日新聞の記者は、「こと『民俗学』となるとトシには見えぬ元気」という記事で、国男の様子をこんなふうに伝えている。

〈約束の時間を1時間すぎても柳田国男氏はあらわれなかった。ちょっと近所へ、と出かけたまま約束をすっかり忘れてしまったのだ。
「やあ、すまん、すまん。出先でつい話しこんで忘れてしもた。ま、忘れるのは年寄りの特徴だからかんべんしてくれたまえ。なにせ、忘れっぽくなって、おまけに足がよろよろで、どうにもならん。今もタンカで運んでもらおうと思ったくらいだ」
 やっと自宅へもどった柳田さんは、そういって応接間のイスにどっかとすわり、「さあ、なんでもきいて下さい」といった。顔色はいいし、声は大きいし、いうほどの年寄りとは思えないが、年だけはたしかに84歳である〉

 冗談も出るくらい上機嫌で、元気な様子がうかがえる。
 このとき国男は「日本は進んでいるとか進んでいないとか、そんなことばかり気をとられていないで、どういう点が日本の特徴か、ということを深く考えるのが大事なんだ」と話したという。きょろきょろまわりを見渡してばかりいないで、自信をもって進むべきだといいたかったのだろう。
 思い出を語ることが、とうぜん多くなっていた。しかし、あえて執念のような思いがあるとすれば、それは日本人とは何かということであり、それを島、とりわけ南島との関係、さらに稲作と信仰とのかかわりで考えてみたいということだったろう。
 たとえば、雑誌「心」に「島の話」という座談会が掲載されている。記録によると、この座談会は、皇太子(現天皇)が結婚し、ミッチーブームが巻き起こった1959年(昭和34)の9月2日に、六本木の国際文化会館で開かれている。出席したのは、国男のほか、三笠宮崇仁、和島誠一、鎌田久子、嘉治隆一といった顔ぶれ。このとき国男は、司会の嘉治以上に話を切り盛りし、積極的に議題の進行役をつとめている。
 この座談会のテーマは、神戸新聞社が後援して、夏におこなわれた瀬戸内海の家島(えじま)群島総合学術調査の成果を率直に語りあうというもので、三笠宮はその調査団長をつとめていた。出席者のうち、和島は実業家・郷誠之助の長男で考古学者、嘉治は元朝日新聞出版局長で雑誌「心」の同人委員、『故郷七十年』のインタビュアーでもあった。鎌田が名を連ねたのは、沖縄・宮古島の調査をはじめていたからだといってよい。
 国男はほとんど聞き役と進行役に回っているが、いまは家島調査の内容にふれなくてもよいだろう。しめくくりの発言を紹介するにとどめる。

〈どうもきょうお話をうかがっておって、われわれにいちばん大きな問題になりますのは、つまり縄文土器あたりの早期の時代の日本の住民が、われわれの先祖とどういう関係にあるのかということですね。ことに北のほうにまいりますと、東北には確かに蝦夷の痕跡がある。それで日本人が米を作りながら、ずっと北に進んでいったが、向こうからはとうとう津軽海峡を渡ってこっちに入ってきた。ですから山が一つあれば、山にアイヌが跳梁しようと、海岸には日本民族がおるといった時代がかなりあったのではないかと思いますが、そんなふうなことをいうと、とかく概括的にどうこうと言われるものですから、まだはっきり結論は出しません。私らはどっちかといいますと島のほうからやっていこうというやり方なんですが、その上に沖縄へ行きましてからは、ごく幼稚な島のほうからというふうになりました。沖縄人は宮古から来る人たちに、自分らは仲間だと言われると非常に不愉快に感ずるくらいかけ離れて見ているのでございますがね〉

 国男には、日本人が「米を作りながら、ずっと北に進んでいった」という歴史認識がしみついていた。そして、その日本人の起源を、辺境の宮古島あたりから考え抜いてみたいという念願が強かったことが見てとれる。
 その数カ月前、比嘉春潮(ひが・しゅんちょう)が沖縄タイムス社から『沖縄の歴史』を発刊するにあたっても、国男は次のような序文を寄せていた。

〈一番われわれの感謝していることは、いかなる場合においても、比嘉君が故郷の知識を確立するということに対して、時間を惜しまなかったことであります。……どうか、この事業が一遍でなくして、あとあと若い読者をつなぎつけて、新しい要求をする、こういう問題も盛んに聞きたい、本島だけではなくして周囲の島から遠く離れた先島のことまでも知りたいといったような、そういう自然に若い人の頭におこるべきような疑問が、つぎつぎと張り合いをもたせ激励して、比嘉君がいつまでも達者で元気よく、この仕事をつづけられることを、私は希望するものであります〉

 ひとつ謎が解けたかと思うと、その先にもっと根源的な謎が広がる。すると、解けたと思ったのは、じつは間違った答えだったことが、徐々にわかってくる。
 このころの国男の発言は、残された課題を、後進の「分業と合作」に託すといったたぐいのものが多くなっている。だが、その先には、かならずといっていいくらい南島への視座が含まれていた。
 たとえば、安藤広太郎の稲作史研究に寄せた序文でも、国男はこう述べている。

〈稲作伝播の経路は今に究められるかもしれない。……私にはまだ断定し得ないが、嘗(なめ)は南方諸島の稲取りのように、もっとも厳重なる斎忌をもって次の年の稲の種子を選定する儀礼と解してよかろうと思う。何らの機会、または方式をもって、誰かがこの解を確定するのが、この次の順序かと思う〉

 1960年(昭和35)4月からは、戦前の1937年に「日本民俗学講座」で講義した「童神論」の長期連載もはじまった。新たな執筆ではないが、連載を前にして、国男はその解説を口述した。童神信仰とは、若宮とか若王子というかたちで、幼い子どもを祭る風習を指している。それは若くして死んで神となった者のたたりを封じるためだとしながらも、そこに国男は別の心理が隠されていることに言及する。

〈いま私が考えているのは「生まれ変わり」という日本人の考え方である。この考え方は、地方によっていろいろに違い、時代によっていろいろに変わっているが、これは日本に古くあった考え方なのである。私の経験でも、私の祖母の兄に6、7歳で死んだ人がいて、私の親がその人と顔が似ているのみでなく、挙動が似ており、その人の生まれ変わりであると言われたことを聞いている。……若くして死ぬということが、もう一度生まれ変わるための準備であったという信仰は、記念すべき迷信といってもよいと思う〉

 童神は御霊(ごりょう)信仰にかかわる。しかし、国男はそこに「生まれ変わり」への願いを見た。まさか、自分が生まれ変わることを願ったわけではあるまい。とはいえ、誕生したばかりだというのに、すでに頽廃いちじるしい「民俗学」が生まれ変わることを国男はどこかで念願していたのではないだろうか。
 1年にわたる「童神論」の連載がはじまったころ、国男はもうすでにじゅうぶん書きつくし、語りつくしたという気持ちになっていた。
 60年5月20日には、自民党の単独強行採決により衆議院で新日米安保条約が可決された。6月にはこれに反対するデモ隊が国会をとりまくが、安保条約は自然成立する。それを待って、7月に岸信介内閣は総辞職し、池田勇人内閣が発足した。
 その5月に国男は長年つとめた国学院大学大学院の教授を辞職している。このあと我孫子市の布佐を訪れたのは、ここに両親の墓があったからである。両親の墓に何を念じたのだろうか。
 5月末から6月にかけては、1週間にわたり東北を旅行した。仙台には、東北大学教授となっていた女婿の堀一郎と娘の三千がいた。そこからさらに盛岡の小岩井農場を訪ねたのは、亡くなった次女千枝の夫で、ここを経営していた赤星平馬にあいさつする(あるいは孫の隆子と会う)ためだった。
 そして、東京に戻ると、9月には10年におよんだ東京書籍の教科書監修を辞退している。
 こうして、1957年に民俗学研究所を閉鎖し、蔵書を成城大学に寄贈し、住まいを隠居所に移して以来、国男は用意周到に、はるかな丘の上へ旅立つ準備をととのえたのである。みごとな身の処し方だといわねばならない。

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狂四郎

お早う御座います、懐かしい写真ありがとうございます、僕が肖像権の侵害だと言ってる中学時代のガニマタの写真ですが。
祖父は晩年ボケて来てから、僕と年子の兄を呼んで「柳田の話をしてやろう」と切り出し「結城合戦って知ってるか?」で始まる話を繰り返し、繰り返し聞かせて呉れました、その頃は500円札をつまんでは「5円やろう」と言ってお小遣いを呉れたものです、つまむと言う仕草は祖父の手が華奢でそう見えるのと、欧州時代のコインですとか紙幣ですとか呉れる時は必ず「乞食が触ったかも知れんから必ず手を洗いなさい」と言ってましたから清潔好きだったのでしょう。
by 狂四郎 (2012-10-22 06:13) 

だいだらぼっち

狂四郎様。肖像権の侵害、平にご容赦のほど。また懐かしい話をいろいろ教えてください。ぼくの家は商売をしていましたが、祖母もぼくがお札をさわると、必ず手を洗うようにといっていました。
by だいだらぼっち (2012-10-25 09:37) 

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