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鑑真の足跡──九州の旅から(4) [旅]

 鑑真記念館でもらったパンフによると、鑑真(688-763)は、じつに6度目のチャレンジによる渡海で、753年12月、ようやく日本上陸に成功したとのことです。すでに66歳となっていました。56歳のときに渡航をこころみてから、10年が経過しています。その並々ならぬ決意には、頭の下がる思いです。
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[鑑真和上像=岩波新書の写真から]

 鑑真が日本への渡航を思い立つのは、遣唐使船で唐にやってきた日本の学僧から「仏法は日本に伝わったものの、授戒の師がいないために、僧とは何かがわからぬまま、僧を自称する者があらわれ、混乱が広がっている」と聞いたからです。鑑真は、授戒の作法を教える戒師として、日本に招請されることになります。
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 記念館のパンフに、鑑真の渡日航路図が描かれていました。それによると揚州を出発したのは753年10月19日。蘇州を出たのが11月16日。そして沖縄(阿児奈波と記されています)に着いたのが11月21日、沖縄出航が12月6日で、屋久島到着が12月7日です。
 屋久島では風待ちため10日ほど滞在し、12月18日に出発し、2日後の20日に坊津の秋目にたどりついたとされています。
 パンフでは、太宰府に着いたのは12月26日となっています。秋目を出て、引きつづき有明海を渡ったという想定です。肥前鹿瀬をへて到着した太宰府では、日本上陸後初の授戒をほどこし、翌754年2月4日になって、ようやく平城京にはいっています。
 この日程にはいくつか疑問があります。沖縄から屋久島に1日で到着するのは無理でしょう。それから秋目から太宰府も、有明海を航海してもし肥前鹿瀬(現佐賀市)から陸路で太宰府に向かったとしたら、6日で着くのはむずかしいのではないか。さらに平城京にはいるまで、ひと月以上待たされるのはなぜか。そういった疑問が湧いてきます。
 しかし、そうした疑問はともかくとして、ちょっとびっくりしたのは、鑑真が最初、沖縄に到達したことですね。たしかに揚子江のほとり蘇州あたりから出航すれば、波を乗り越えて船が沖縄に到着するのは自然です。これはまさに柳田国男の想定した「海上の道」ではありませんか。そこから北東に島々をたどっていけば、何とか無事、九州にたどりつけるでしょう。鑑真が「海上の道」のルートをたどって日本にやってきたことを知ったのは、ひとつの発見でした。
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 ところで、鑑真来日の目的である授戒とは、いったいどういうものなのでしょう。東野治之(とうのはるゆき)氏の『鑑真』(岩波新書)に、その内容が記されていました。受戒によって、僧ははじめて正式の僧として認められます。正式の免状を与えられるという点では、医師免許をもらうのと同じですね。鑑真がくるまで、日本には正式に僧の資格を認定する制度もなかったし、資格を授ける僧もいなかったことになります。
 僧であることを認められる第一要件。それは僧たるもの戒律を守るということですね。僧は戒壇の前で、釈迦像に戒律を守ることを誓います。それが授戒の儀式です。鑑真は正式にこの儀式を伝えるため、日本にやってきたといってよいでしょう。
 犯罪歴や身体的欠陥のある者は僧になれないというのが、最初の選抜です。戒律は少なくとも250あって、これをマスターするだけで5年かかったといわれます。しかし、メインは4つの波羅夷罪(はらいざい)、つまり淫、盗、殺、妄を犯さないということです。
 戒律はじつに細かく定められているのですが、おもしろいのは、たとえば厠(かわや、トイレ)の作法があったことですね。それによると、トイレにはいる前には3回指を弾いて合図すること(厠神を驚かさないためとされます)、それから排泄時にはあまりいきんではいけません。

〈謂(い)うこころは、大便を出入するに、徐々に放下せよ。大咽(だいえん)して其の面(つら)を赤からしむ勿(なか)れ。百毛の孔(あな)開き、人多く力を失う。身虚しく労損ずるは、都(すべ)て此(これ)に由(よ)るなり〉

 弟子が書いたといわれる、この解説には笑ってしまいますね。
 このあたりで授戒のくだりはよろしいでしょうか。とくに「淫」と「妄」は、要注意ですね。『鑑真』の著者も「鑑真がもたらした戒律は、残念ながら日本には定着しませんでした」と書いています。日本の仏教は、古代のおいては国家の飾り、中世以降は戒律なき世俗仏教、そして近世以降は葬式仏教になってしまったわけです。だからこそ、日本で仏教が生き残ったともいえるのですが……。
 鑑真について長々と書いてしまいましたが、鑑真記念館にいたのはごく短い時間でした。遅めの昼食(東京では食べたことのない絶品の1000円定食)をとったあと、薩摩半島の西端、野間岬をめざして一路、車を走らせました。しかし、最後まで行き着くことはできず、岬の先端らしきものが見えたところで満足し、中途半端に引き返したのはいつもの癖です。
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 一説に天皇家の祖ニニギノミコトが上陸した地点といわれる笠沙岬には立ち寄らず、神ノ島も見ることができませんでした。
 梅原猛は天皇家は韓国からやってきたのではないかと推論していますが、それではなぜわざわざ韓国から博多ではなく笠沙に回ってこなければいけないのでしょうか。北九州にはすでに有力な部族が蟠踞していたのでしょうか。
 笠沙に到着した稲の技術をもつ一族が、コメの育つ場所を求めて、霧島をさ迷い、ついに日向の高千穂を発見したという仮説はじゅうぶんに成り立ちます。そして日向を治めてから、こんどはヤマト征服に向かうというわけです。
 古代のサーガは、さまざまな想像力をかきたてて、興味はつきません。ぼくなどは、ひょっとしたら天皇家は韓国ではなく、中国から渡航してきたのではないかと思うくらいです。江戸初期の儒者、林羅山が、天皇家は呉の太伯の末裔ではないかといっていたのを思いだしました。
 午後3時前、野間岬を適当に切り上げたわれわれは、薩摩半島を横断し、谷山インターから高速に入り、途中、桜島サービスエリアで休憩、夕方5時半に本日の宿泊地、霧島神宮前の旅館に到着しました。
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 食事まで少し時間があります。その足で霧島神宮にお参りしました。夕方で、ほとんど人がいない神社は、静寂を取り戻し、夜のとばりに包まれようとしていました。

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