SSブログ

道、すなわちルールの思想──徂徠『政談』を読む(7) [商品世界論ノート]

 最後の「巻四」、つまり第4部は追記のようなものですが、徂徠はじつにこまごましたところまで、自分の意見を述べています。何ごとにも、きちんと規則をつくるというのは、いかにも徂徠らしいですね。例によって、あまり深く考えず、ざっと読み流してみましょう。
 まず城中で警備を務める「番衆」のことがでてきます。番衆にはそれぞれ持ち場が与えられ、持ち場以外のことに関与してはならないとされていました。徂徠はこれはおかしいといいます。番衆は警備全般にあたるべきで、担当する場だけで行儀よくしていればいいというものではないだろうというわけです。
 次に徂徠は、法令をきちんと整備すべきだといいます。徳川の世が百年以上つづく間に、法令が次々と出され、そのどれを基準にしたらいいかがわからなくなっていました。「守る必要のない法規は省き、守るべき法規だけを選び出すようにしたい」というのはそのとおりです。それから最近は「文言がまわりくどくて、理解しにくい」法令が多くなっていると苦言を呈しているのも、共感できます。
 他姓の者を養子や婿養子にしてはならないというのは、江戸時代の慣習とことなる独自の主張です。知行というものは主君から賜ったものだから、それを他人に譲ってはならないという理屈です。しかし、養子をもらわなければ、跡継ぎがいなくなって、大名家でもお家断絶になりかねない場合が生じるかもしれません。そうなると家臣は路頭に迷ってしまいます。
 徂徠の立場は、嫡子がなく、適当な養子がない場合はお家断絶です。しかし、その対策として、家中の武士で100石以上の者は、一律50石の知行地を与えて郷士とするという案を立てています。もちろん、新しい領主につかえることも可能ですが、主家を失うというのは、会社の倒産以上にたいへんなことでした。
 また外様の大名のなかには、家臣といっても仙台藩の片倉氏や長州藩の吉川氏のように大身の武家もありました。徂徠はこうした家臣には諸侯並みに将軍の拝謁を許すべきだとしており、実際、片倉氏や吉川氏は大名並みの扱いを受けていました。徂徠は、こうした諸侯並みの家臣にたいしては、万一主家がつぶれたようなときには、以前の知行地を与えて存続させるようにするべきだと述べています。
 大名家は30万石を限度にして、それ以上の藩は分割すべきだというのは、徂徠らしい主張です。これだと尾張、紀州、水戸の御三家は別としても、加賀、薩摩、仙台、筑前(福岡)、肥後(熊本)、芸州(広島)、越前(福井)、長州、彦根、津、鳥取、岡山、肥前(佐賀)などの藩は全部分割ということになってしまいます。これが実現できれば、幕府はますます絶対政権への地歩を確立できたでしょうが、これはさすがにそううまくは行きませんでした。
 婚姻制度についても述べています。妻は夫にしたがうのが道であり、贅沢三昧はもってのほかと、最初から釘を刺します。当時も、実際はすでに形勢が逆転していたことが伝わってくるようです。
 近ごろの大名の奥方ときたら「女の第一の仕事とされる裁縫もできず、三味線を弾くのを平常の娯楽とし、たいていは夜じゅう寝ないでいて、昼の10時、12時ごろまで寝ている」と憤っています。わしが住んでいた上総では、古い礼法が残っていて、百姓の女がみんなよく働いていた。いまの大名の妻は百姓より劣っている、と徂徠は憤懣することしきりです。
 最近テレビでは連日のように中国共産党幹部の愛人問題がおもしろおかしく取りあげられていますが、日本でも江戸時代は(いや明治になっても)、将軍家から大名、商人にいたるまで、お妾さんはどこにでもいました。武家の場合は、上品に「御部屋さま」、あるいは側室と呼ばれましたが、徂徠はたとえ嫡子を生んだとしても、側室を本妻と同じように扱うのはよくないといいます。
 家康には「七人衆」と呼ばれる7人のお妾さんがいたそうです。毎年、家康が鷹狩りのため上総の東金に行くときは、かならずこの七人衆が御成街道(船橋-東金間)をついていきました。その生活ぶりは簡素なものだったと徂徠は絶賛しています。
 妾は召使いであって、妻とするのはよくない。それなのに近ごろは「本妻にしてやると約束して、言うことを聞かせるような場合が多い」と、徂徠は男の卑劣ぶりをついています。妾というものはなくてはすまないもので、それを隠し者のようにしているのはおかしいとも指摘しています。古代は妻をめとれば8人の召使いがついてくるといわれ、「あらかじめこうした者を妾の役に当てて、婚礼のときから連れていくようにすれば、この風習に慣れて、本妻も妾に嫉妬する心が少なくなる道理である」と、まことに勝手なことも書いています。
 この第4部を読むと、徂徠という人は、まことにルール好きの人であったことがわかります。アイデア倒れのものも多いですが、実にこまかい規則を次々と提案しています。これでは規則でがんじがらめになってしまいそうですが、日本人はもともと規則が好きなのかもしれませんね。道徳より、どちらかというと規則好き。規則が道徳だと思っているふしもあります。逆に規則さえ守っていれば、あとは自由、そんなところが徂徠の考え方にもあるようです。
 さて、徂徠のアイデア、まだつづきます。このさいですから、かれのほかの献策も紹介しておきましょう。
 慶安4年(1651)に、由井正雪と丸橋中弥の反乱未遂事件が起こります。この乱は、密告者がおり、事前に防ぐことができたのですが、密告者はけっして厚遇されませんでした。徂徠は秩序を守る忠義の行動は正当に認めねばならない、といいます。密告を奨励しているわけではありませんが、かれにとって社会の秩序を守ることは何にましての正義だったのです。
 喧嘩両成敗は、喧嘩をした一方の者を生かしておけば、敵討ちがたえないことになるために立てられた原則だとも書いています。しかし、そもそも公の禄を食んでいる者が、私的な闘争をするのは大義に反しており、ほめられたことではないというのが、かれのいいたいところです。
 ばくち打ちは凶徒なので、重く処罰されねばならないのに見逃されがちだという指摘もあります。強盗は、首魁者、追随者も含めて斬罪に処さねばなりません。
 かつてキリシタンであった一族の監視をいまもつづけるのは無意味なことだとも書いています。むしろ幕府の書庫にあるキリシタン文書を儒者によく読ませて、キリシタンとは何かを見きわめさせたほうがいいというのは、なかなか理性的な対応です。
 田地売買を認めるべきだというのは現実に沿った提案で、徂徠は農地の効率的な運営を推奨していました。
 そのほか、儒者たちに幕府御文庫の書籍を貸し出してほしい、また、湯島の聖堂だけではなく、江戸各所に儒者を配置して、人びとが好き勝手に学べるようにすべきだとも提案しています。ただし、学問より講釈の得意な儒者が増えたのは困ったもので、心のあり方や道徳を教えるのは無用なことだと言いきります。それよりも詩、文章、歴史、法律、和学(日本文学や歴史)、数学、書学(書道)とジャンルをわけて、儒者がそれぞれ得意な科目を人に教えたほうがよほど気がきいているというわけです。このあたりは進んでいますね。医者は名門でも、二代目からはたいてい役に立たない者が多いので、まず田舎で修行させたほうがいいと書いているのは、いまもあてはまることでしょうか。
 最後の跋文では、いままで述べたことのまとめとして、次のことが強調されています。

〈肝腎なところは、世の中が旅宿の境遇であることと、万事につけて礼法の制度がないこととの、二つに帰着する。このために、戸籍をつくり、万民を居住地に結びつけることと、町人・百姓と武家との間に礼法上の差別を立てることと、大名の家の生活に礼法の制度を立てることと、お買い上げということがないようにすることと、だいたいこれらで世の中はまともになって豊かになるであろう〉

 そんなふうに書いています。
 アベノミクスなどとはまるで逆の発想です。しかし、ほんとうの豊かさは商品経済を抑制するところから生まれるという考え方は、いまでもじゅうぶん検討に値するといえるのではないでしょうか。

nice!(6)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0