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山片蟠桃と『夢の代』 [雑記]

[2013年11月16日、高砂コミュニティセンターでの講演]
本日は、お忙しいなか、わざわざ足をお運びいただき、ありがとうございます。わたしは研究者ではなく、ただの引退したサラリーマンですから、たいしたお話はできそうもありません。それに生まれつき人前で話すのが苦手ですので、途中で口ごもってしまうかもしれませんが、その点もご勘弁願えればと思っております。
 きょうは「山片蟠桃と『夢の代』」というテーマでお話しします。わたしが山片蟠桃に興味をもったのは、この人がここ高砂に生まれて、江戸時代に経済人として活躍し、『夢の代』という本を著したということを知ったからです。わたし自身も高砂に生まれましたので、これはおもしろそうな人だなと思いました。それで、在職中、会社に出かける前に、少し時間をとって、調べはじめたわけです。もうずいぶん前のことですけれども、それをまとめたものをコピーして、小冊子にしまして、友達に配ったりしておりました。
 最初の枚数は400字詰めの原稿用紙にして1500枚程度ありましたでしょうか。さらにそれを半分程度にまとめた小冊子もつくりました。今回、たまたまご縁がありまして、ある出版社がそれを本にしてくださるというので、さらに原稿を圧縮して、このたび、ここにおもちした『蟠桃の夢』という単行本を出版することができました。
 ですから、きょうお話しする中身は、ほぼこの『蟠桃の夢』に書かれていることに尽きるのですが、できましたら『夢の代』がどんな本なのかについても、ざっとお話しできればと思っております。
 山片蟠桃はえらい人ですけれども、どちらかというと地味で、それほど知られた人ではありません。ですから、最初に蟠桃がどういう人物であったかをお話ししておいたほうがいいでしょう。
 山片蟠桃というのは本名ではありません。いわば筆名、ペンネームですが、それも本人がそう名乗ったわけではなく、いつしかそう呼ばれるようになったというにすぎません。
 昔の人は名前がいろいろありました。幼いときの名前と家を継いだときの名前、隠居したときの名前はちがいます。本名のほかに号や字もあります。ですから、なかなかややこしいのですが、幼いころの蟠桃は惣五郎と呼ばれておりました。
 寛延元年、1748年に蟠桃は播磨国印南郡神爪(かづめ)村に生まれました。いまの高砂市神爪です。江戸時代、百姓は表向き苗字を名乗れませんでしたから、名前はただの惣五郎ですが、それでも代々の隠し苗字はあったわけで、あえていえば長谷川惣五郎です。いまも神爪は長谷川さんの名前が多いですね。
 神爪には蟠桃の銅像も立っており、蟠桃が育った場所、お兄さんが店をいとなんでいた場所には碑が立っています。それに覚正寺には蟠桃の墓や、蟠桃が晩年、村に寄贈した朱塗りの木杯なども残っておりますので、神爪を訪れたさいには、ぜひご覧になられたらいいと思います。
 そして、その惣五郎は13歳のとき、大坂に丁稚奉公にでます。大坂には叔父さんがいて、升屋という米仲買の番頭をしていました。ですから、丁稚といっても万年丁稚というわけではなく、よほどの失敗をしないかぎり、叔父さんの後を継いで、いずれ手代、番頭になることを約束されていたわけです。
 ところで、山片蟠桃は升屋の番頭になると申しましたが、ここでお気づきになったと思うのですが、じつは山片蟠桃の「蟠桃」という難しい名前は、「番頭さん」の当て字なんです。蟠桃は『夢の代』を書く前に、その元になる『宰我の償(さいがのつぐない)』という草稿を書きました。それを先生である中井竹山に読んでもらうときに、照れ隠しに蟠桃という難しい字を使ったわけです。蟠桃、すなわち升屋の番頭が、この原稿を書きましたというわけですね。
 それが後世、『夢の代』の著者である山片蟠桃という立派な名前で伝えられることになったわけです。山片という苗字は、主人にあたる升屋に伝わる苗字です。蟠桃は、晩年、升屋に尽くした功績が認められまして、升屋の親戚並みに扱われ、主家から山片という苗字をもらうわけです。ですから、この時点で、長谷川という苗字から山片という苗字に変わり、山片芳秀(よしひで)と名乗るわけです。ですから、晩年の正式の名乗りは、山片芳秀であって、山片蟠桃ではありません。それでも、いまとなってはこの山片蟠桃という名前が一人歩きしております。
 さて、いま山片蟠桃という著者名についてご説明したわけですが、この名前からだけでも、蟠桃の人となりが、ある程度伝わってくるのではないでしょうか。蟠桃という人は、升屋の番頭さんでした。そして、升屋の商売を隆盛に導いた人でもありました。
 商売というのは、いまも昔もなかなかむずかしいものです。よほどの才覚と努力がなければ、店を大きくしていくことはできません。升屋という店は大坂で、中堅の米仲買をしていました。
 米仲買といっても、いまのお米屋さんとはだいぶ勝手がちがいます。江戸時代の税金は、おカネでなく、コメで支払われました。いわゆる年貢ですね。お百姓さんが田んぼでおコメをつくって、その収穫の3割くらいを年貢として領主に収めていたわけです。
 米仲買は年貢のコメを、領主から預かって、その代金を領主に支払うのが仕事です。升屋の場合も、仙台藩をはじめとして、多くの藩からコメを預かって、それらの藩におカネを調達していました。ですから、米仲買といっても、実質の仕事はいまでいう銀行に近いといってもいいかもしれません。
 蟠桃が升屋で丁稚奉公をはじめたころ、升屋の経営状態はかなり厳しくなっていたようです。とくに仙台藩(伊達藩)に貸し付けたおカネの返済がとどこおっていたのが、経営の悪化を招いた原因でした。一時とどこおっていても、いつかおカネが利子つきで戻ってくれば、問題はありません。しかし、大名はしばしば借金の踏み倒しをやりました。仙台藩の場合は、貸した金額も大きいので、そんなことをされたら升屋は倒産に追いこまれてしまいます。
 そこに追い打ちをかけるように、もうひとつの問題がもちあがります。升屋の主人は平右衛門という人です。昔は代々名前をつぎますから、正確にいうと2代目の平右衛門です。この人が、蟠桃が22歳になったときに病気で亡くなってしまいます。升屋には婿養子さんがいました。しかし、平右衛門の実子もいて、6歳になっていました。
 当面は婿養子さんが3代目の平右衛門を名乗って、升屋の跡をつぎました。ところが、この人は経営者としては無能で、たよりなく、このままいけば升屋は倒産まちがいなしというところまで追いこまれていきます。そこで蟠桃が立ち上がって、升屋の財産を4割譲るかたちで、この主人に出ていってもらうわけです。
 そして、新しい主人に8歳になった2代目平右衛門の実子を迎えます。この8歳の子どもが4代目の平右衛門となるわけですが、子どもに店の経営はできませんから、経営を実質的にになうのは蟠桃です。こうして25歳のときに、蟠桃は名実ともに升屋の番頭さんに昇格します。
 升屋の番頭になったものの、店の経営はたいへんでした。店の規模は昔の半分になり、借金が積み重なって、仙台藩に貸したおカネは戻ってきません。そこで、蟠桃は粘りに粘ります。仙台藩をはじめ、昔から取引のあった豊後の岡藩(竹田藩)や下総の古賀藩などとも、貸付金の返済をめぐって、何度も交渉を重ねます。節約にも努めました。こうした血のにじむような努力のかいがあって、升屋の経営はようやく上向いていくわけです。
 30歳をすぎたころには、蟠桃は各藩の財政事情にも詳しくなって、また米相場の動きもよくわかるようになって、蟠桃は大坂でも一流の経営者になっていました。取引先も以前の仙台、岡(竹田)、古賀に加えて、尾張、水戸、越前、館林、川越といった藩に広がって、いわば経営が多角的になって、升屋の経営基盤が安定していきます。
 こうして、升屋の経営はだんだん上向いてくるのですが、何といっても升屋の最大の取引先は仙台藩です。そこで、簡単に升屋と仙台藩の関係についてふれておきましょう。
 江戸時代、各藩の財政がどんなふうに成り立っていたかというと、藩はもちろん、いまと同じように税金で運用されていたわけです。この税金を使って、殿様や藩士の生活を支え、道路や河川の工事をしたり、お城の修築をしたりしていたわけですね。
 ところで、江戸時代には参勤交代というのがありまして、各藩の藩主は原則として1年ごとに江戸に来て、将軍家に仕えなければなりませんでした。ですから、各藩とも江戸屋敷があり、殿様の場合は、そこに奥さんも何人かいて、大勢の藩士もこの屋敷につめていたわけです。江戸で生まれる殿様の子どもも出てきます。こういう子どもは、江戸育ちということになって、なかなか地元に帰らないわけですね。各藩とも江戸の費用はばかにならず、税収の半分近くが江戸の経費になっていました。仙台藩の場合は上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷と5つくらい屋敷があったわけですから、経費もたいへんです。
 しかし、前にもいいましたように、当時の税金は年貢で納めるかたちです。つまりお百姓さんが、収穫した米の一部を物納のかたちで藩におさめたわけです。その集めた米を、こんどは各藩が売りに出して、それをおカネにかえて、それで藩士の給料をはらったり、ものを買ったり、工事代金にあてたりしていたわけですね。
 ですから、武士はヨーロッパのように貴族ではなくて、公務員みたいなもので、生活も質素なものでした。一国一城令というのもだされていますから、ひとつの国に城はひとつしかありません。このあたりもヨーロッパとはちがいますね。殿様もさほどぜいたくはできません。
 コメをおカネに換えるとなると、コメの値段をどこかで決めなければなりません。その役割を担ったのが、大坂の堂島にあった米市場でした。全国の米の値段はここで決まって、現金化されます。大坂には全国の余剰年貢米500万石のうち2、3割にあたる100万石から150万石の米が送られてきました。それが大坂で値段がついて、現金化されるわけですから、当時の大坂は一大金融センターでもありました。そして、大坂で決まった相場が基準になって、江戸の米価も決まってくるわけです。
 それでは、なぜ大坂に100万石も150万石もお米が送られてきたのでしょう。それは大坂が大都市で、米の大消費地だったからです。当時、大坂の人口は60万人、京都の人口は40万人です。すると大坂と京都で100万人ですから、米の消費量は年間で1人1石(1000合)として、大坂、京都で100万石消費される計算になります。
 大坂に入ってくるお米が150万石だとすると、50万石余りますね。これがどうなったかというと、そのうち15万石から20万石はお酒の醸造用に回されました。いわゆる灘の生一本になるわけです。それからさらに残りは、すでに綿や菜種など商品作物をつくっている近郊の農村や、加工品をつくっている近くの町に回されたわけです。
 こんなふうに米は都市で消費されて、おカネに換えられていくわけですが、日本には、大坂、京都より大きな都市がありました。それは、いうまでもなく江戸です。じつは、仙台藩の米はほとんど大坂に送られていませんでした。輸送先は主に江戸です。
 北上川の河口に石巻という町があります。今度の大震災で大きな被害を受けた町です。しかし、石巻ができたのは、江戸時代になってからだといってもいいくらいです。高砂と同じですね。高砂の場合は加古川によって、おもに播州米を集荷して、これを大坂に送りました。石巻の場合は、北上川によって、仙台領の米を集め、それを江戸に送ったわけです。潮の流れがむずかしくて、直接江戸にははいれませんでした。ですから銚子まで大型船で米を輸送し、それを小分けし、高瀬舟で利根川をさかのぼり、江戸日本橋まで運んだわけです。その量は、だいたい15万石から20万石程度だといわれます。
 仙台藩は表髙60万石の藩ですが、実髙は100万石あったようです。つまり100万石の米がとれていたわけです。その領内でできた米の15%から20%が江戸に送られていました。これは相当の割合で、年貢にすれば6割から7割が、江戸で売られていたということになります。しかし、実際には年貢米以外の米も含まれています。
 当時の江戸の人口は100万人です。ですから、江戸では2割近い人が仙台米を食べていた計算になります。こうして仙台藩はおもに江戸で米を売って、おカネにし、それを税収にしていたのですが、これを仕切っていたのが京都の蔵元、大文字屋でした。ところがお米の収入だけでは、藩の財政が成り立たなくなってきました。
 そこで、仙台藩は蔵元以外に、ほかの金融業者からも資金を借りて、これを税収不足分にあてます。そのおもな借り手が升屋だったといってよいでしょう。毎年、年貢ははいるので、いちおう担保はあるようなものですが、それでも財政はいつも火の車、自転車操業でした。仙台藩の借金はどんどん積み重なっていきます。
 そして、京都の仙台藩蔵元、大文字屋がついに倒産します。そのあとを引き継いで仙台藩の蔵元に昇格したのが山片蟠桃の升屋です。蔵元というのは、藩専属の銀行のようなものと考えていいのではないでしょうか。
 藩と蔵元との関係は微妙です。蔵元は藩の年貢米の扱いをすべてまかされているのですから、うまくすれば、かなりもうかるチャンスがあります。しかし、いっぽうで藩の必要とする経費をいわれるままに捻出していれば、借金ばかりがかさんで、いずれ倒産ということになりかねません。大文字屋が倒産したのは、そのためでした。
 そこで蟠桃はさまざまな秘策を練ります。ひとつは江戸で売る米の量を増やすことでした。江戸での販売量が増えれば、それだけ藩にはいってくる収入も多くなります。それにおうじて、米を扱う升屋ももうかるはずです。そこで蟠桃は買米という制度の活用を考えました。
 買米というのは、実は昔からある制度です。年貢とは別に、あまった米を農家から買い取るわけです。農家もある程度は現金が必要ですから、少し安くても、手持ちの米を売ってくれるでしょう。すると、江戸で売る米の量が増えて、それだけ藩の収入も多くなるはずです。農家から安く買って、江戸で高く売ろうというわけですね。
 ところが、これがしばしば強制になって、百姓の反発を買っていました。あまりに安く買いたたこうとしたのでしょう。買米に反対する一揆まで起きています。
 とはいえ、買米をしなければ、江戸で売る米を増やすことはできません。買米をやめるわけにはいきません。以前から升屋は買米本金を藩に融通して、仙台藩があまった米を買いつけるのを手伝っていました。仙台藩の蔵元になってからも、升屋はこの買米本金を調達せざるを得ませんでした。しかし、それがあまりに強制的な取り立てにならないように、細心の注意を払ったと思われます。
 何はともあれ、こうして、升屋は享和元年、1801年から正式に仙台藩蔵元となり、これ以降、幕末まで紆余曲折をへながら仙台藩とかかわりつづけることになります。
 升屋が仙台藩の蔵元を努めるにあたっての議定書が残されておりますが、それは次のような内容です。仙台藩は升屋にたいし、藩の年貢、金穀(商品作物)をゆだね、領内の諸産物を売りさばく権限を与える。そして藩はその見返りとして、升屋から代金を受け取り、それを財政運営にまわす。
 升屋はいってみれば仙台藩専属の銀行というか、いまでいうと実質的には財務省の役割を果たすようになります。
 こうして、享和元年(1801)に正式に蔵元となった升屋は、加島屋や鴻池、住友を含む「組合の金主」(いわば提携先の銀行)とともに、江戸や国元などの費用として、仙台藩に毎月「月割金」を支払うことになります。つまり、毎月、予算からの支出をおこなうわけですね。さらに引きつづき買米用の「買米本金」を用立てる仕事も請け負っています。
 1803年、享和3年に、升屋は仙台藩に5万両を貸し付けています。いまでいうと40億円くらいでしょうか。このころ、米の価格が持ちなおしたこともあって、仙台藩の財政は一時的な立ち直りをみせました。
 1804年、文化元年には、仙台藩とのあいだに、升屋を永久に蔵元とするという証文が取り交わされます。その内容は、升屋は仙台藩に年3万7242両を月割で調達し、月1分(1%)の利子をもらい、これにたいし、仙台藩は江戸の蔵屋敷で毎年3万8000石を升屋に売却して、借金返済にあてるというものです。
 これはどれくらいの金額かというと、1両を現在の8万円と計算してみれば、だいたいの感じがわかりますね。升屋が毎年仙台藩に調達する金額は約30億円です。月割にすると2億5000万円です。これにたいし、仙台藩は3万8000石を江戸で升屋に売却するという契約です。当時は1石が1両というのが相場ですから、相場どおり米が売れれば、それだけで升屋は年間で約750両もうかる計算になり、しかも毎年の利子として約400両、あわせて1150両の利益がでることになります。これは現在の金額でいうと、約9000万円ですね。これは定期収入ですが、もちろんほかにも貸付金の利子もはいったはずです。
 ほかに蟠桃はさし米の工夫も考案しています。さし米というのは米の品質検査方法です。先端をそいだ竹の筒を俵にさし込んで、筒にはいった米を吟味するわけです。
 ふつうは吟味が終わると、「さし」を俵にふたたび入れて、米を戻すのですが、蟠桃が願い入れたのは、このさし米を戻さずに升屋に下付していただきたいということでした。石巻、銚子、江戸で俵ごとに、このさし米をいたしますと、実はそれがつもりつもって、大きな金額になります。少なくとも年間600両くらいになったと申しますから、いまの金額にすると5000万円程度の収入になったわけです。
 蟠桃の考案した升屋札(ますやふだ)が発行されたのは1809年、文化6年とされています。それまで仙台藩は何度も藩札を発行したり、鋳銭をおこなったりして、ことごとく貨幣価値の暴落を招き、失敗をくり返していました。その原因を蟠桃は、いざというときに引き換える正貨の準備を怠ったことにみていました。升屋札を発行するにあたって、蟠桃は領外への正貨流出を防ぐための細かな対策を打っています。
 升屋札というのは、米札(べいさつ)で、これでお米を買うのですが、もらった人はこれで日常品を買うこともできます。いまでいう銀行券と同じです。苦肉の策でした。仙台藩のいうとおりに、買米本金を出しつづけていれば、藩の借金はたまるいっぽうで、升屋は倒産に追いこまれてしまいます。そこで、もう買米本金はださないかわりに、この升屋札を発行したわけですね。資金の裏付けがあれば、こうした札でも、おカネの代わりになります。
 升屋札はしばらくのあいだ、信用のある紙幣として仙台領内で流通しました。これが25年もつづいたのは大成功だったかもしれません。このとき、升屋は紙幣を発行する銀行の役割を果たして、仙台藩の経済に大きく寄与したことになります。
 こうして、蟠桃の才覚が升屋を大きくしていったのですが、升屋の経営はじつはなかなか苦しかったのです。仙台藩とは、いつもきびしいやりとりがつづきました。ですから、蟠桃が大成功を収めた経済人かというと、かならずしもそうではありません。この人は最後まで苦労に苦労を重ねて、何とか升屋の経営を切り盛りしていたというべきかもしれません。
 それでも、蟠桃が晩年を迎えるときには、現在の貨幣価値でいうと、升屋の金融資産は40年のうちに、8000万円から130億円へと膨らんでいたのです。それを実現したのは、やはり蟠桃の才覚だったといえるでしょう。

 山片蟠桃がすぐれた経済人であったことを、おわかりいただけたでしょうか。しかし、かれにはもうひとつ別の顔がありました。それは大学者としての顔です。きょうは、そのこともお話ししておきたいと思います。
 経済人にして大学者という人は、世界を見渡しても、そうたくさんはおりません。蟠桃と同時代に、イギリスではリカードという経済学者がいました。わりあい若くして亡くなりましたが、この人はもともと株式の仲買人をしていました。
 蟠桃は米仲買と金融の仕事をしながら、常に勉強をつづけ、最晩年に『夢の代(しろ)』という大著を完成させます。のちに明治になってから、ある学者は江戸時代に独創的な思想書は3書しかないと断言しました。それは富永仲基の『出定後語』、三浦梅園の『三語』、そして山片蟠桃の『夢の代』だというわけです。
 山片蟠桃というのは、そのくらいえらい人なのですが、いまこの『夢の代』を本屋さんで手に入れるのはなかなかむずかしくて、それをざっと読むこと自体もなかなかできなくなっています。これが、どんな本かを短い時間で説明するのはとても無理です。ひとつひとつ読みながらお話しすると、おそらく1年くらいかかってしまうでしょう。そこで、きょうはその概略だけでも、ご説明して、次の段階への足掛かりにしていただければと思います。
 先ほど申しあげましたように、山片蟠桃はビジネスマンであると同時に大学者でした。どうして、そんなことができたかというと、それは大坂に懐徳堂という学校があったことが大きいのです。
 13歳で大坂に丁稚奉公に行く前に、山片蟠桃はここ高砂で学んでおります。いまお話をさせていただいている、ここコミュニティセンターには、申義堂という学問所がありました。申義堂の建物は、いま十輪寺さんの前に再建されておりますので、みなさんよくご存じのことでしょう。
 蟠桃が子どものころ、まだ申義堂はできていませんでした。しかし、蟠桃はのちの紀行文で、はっきりと高砂で学んだと書いておりますので、高砂の塾に通ったことはまちがいありません。この塾では、たぶん算盤や算数のほか『論語』なども勉強していたと思います。そして、おそらく『論語』は、すべて暗記していたのではないでしょうか。
 蟠桃が大坂にいったとき、主人の升屋平右衛門がいちばんびっくりしたのは、この播州から出たての子どもが、じつに頭がいいということでした。そこで、平右衛門はこの子どもを近くの懐徳堂に学ばせることにしました。そのことが蟠桃の運命を大きく変えていきます。
 懐徳堂は幕府公認の町人のための学問所です。中井竹山が学主をしているときにいちばん栄えました。この学校の特色は、受験しなくてもだれでも入学できて、武士、町人のへだてなく講義を聞くことができ、用事があれば途中で講義を退席してもよかったことです。もちろん入学試験も卒業試験もありませんでしたし、成績表もなかったのです。
 いってみれば、町のなかのだれでも自由に出入りできる大学のようなものです。こんな大学はいまありませんね。いまの大学は、就職するまでの遊び場か、学者のたまり場かといったところですから。蟠桃が忙しいビジネス生活を送りながら、ずっと勉強をつづけることができたのは、この懐徳堂のおかげだということができます。
 そして、蟠桃はこの懐徳堂でずっと学んできたことを、まとめて本にしようと思いました。中井竹山のほかに蟠桃に影響を与えた周辺の人物としては、竹山の弟で中井履軒(りけん)という人がいます。この人は、へんくつものの学者ではありましたが、当代隋一の知識人だといってよいでしょう。
 ほかに麻田剛立(ごうりゅう)の名前を忘れてはいけません。やはり大坂で先事館という学塾を開いていました。教えていたのは天文暦学です。日食の起きる日時もぴったりと予想しました。伊能忠敬も、この麻田剛立の愛弟子から学んでいます。ですから、蟠桃と伊能忠敬は、麻田剛立を通じてつながっているわけですね。
 山片蟠桃は、中井竹山、中井履軒、麻田剛立といった人たちから学んだこと、そしてみずからが現場で知ったことをまとめて、1冊の大著を書こうとします。それが『夢の代』という本でした。
 それにしても『夢の代』というのは、変わったタイトルです。そもそも読み方もぱっと見ただけではわからず、ユメノダイと読んでしまいそうですが、ユメノシロというのは、そもそもどういう意味なのでしょうか。
 それについては、蟠桃自身が、その序文で説明しています。原文で読むのはわずらわしいでしょうから、現代語訳してみましょう。
 こんなふうに言っています。

〈夏の日は長くてうんざり。こんなときは昼寝がいちばんと思って、枕に頭を載せたところで、はたと気づいた。おれはもう五十をすぎたというのに、これまでいたずらにめしを食らい、暖衣に身を包み、眠ってばかり。これではいくらなんでも情けない。そうはいっても世間の人に道理を説くなど、とてもできそうもない。そうだ、せめて自分が竹山、履軒先生に習ったことを書きつらねて、子孫の教戒にできれば、これ以上の本望はあるまい。こう思って、硯を前になにやら書きはじめたものの、ついつい眠気が襲ってくる。それを無理やり抑えて机にかじりついて筆を走らせるという始末だ。このなかにはご政道にふれた部分もあるかもしれないが、どうかおとがめにならないでいただきたい。この書はうちうちに見るもので、外に広めようというのではないのだから。眠いのをがまんして書いたので、はじめ『宰我の償』という書名にしたのだが、履軒先生がぱっとしないとおっしゃるので『夢の代』と改めることにした〉

 これを読むと、蟠桃がなぜ『夢の代』を書いたのかがわかってきます。当時は「人生五十年」という時代でした。山片蟠桃は長生きで74歳まで長生きしましたが、晩年の10年は目が見えませんでした。
『夢の代』は蟠桃が還暦のとき、つまり60歳のときに、ほぼ完成します。享和2年(1802年)6月が執筆のスタートです。数えでいうと55歳です。ですから55歳から書きはじめて、60歳でほぼ書き終えたのですね。
 それから、さらに70歳をすぎてから、蟠桃は今度は口述で、『夢の代』の大改訂をおこないます。いま残されているのは、この大改訂版で、それを考えますと、約20年にわたって、『夢の代』は書き継がれたということになります。
 人生の締めくくりとして、何かを残しておきたいという気持ちが強かったのでしょう。懐徳堂の中井竹山、中井履軒の両先生から学んだことを自分なりにまとめてみたと書いています。これは蟠桃の謙遜のようにみえます。もちろん『夢の代』のかなりの部分は竹山、履軒の教えからなっていますが、それだけではありません。むしろ蟠桃がみずから考えたことが中心になっているからで、そこには蟠桃の独創性が光っています。
「世間の人に道理を説くなど、とてもできそうもない」と書いています。これは蟠桃が世間でいう教授や大先生ではなかったからです。世間に自分の意見を発表するつもりもありませんでした。蟠桃はみずから塾を開いて、生徒を教えたりもしませんでした。おそらく著書を公刊するつもりもなかったでしょう。
「子孫の教戒」になればと思い、この書を著したともいっています。つまり、この本は子孫の役に立てばと思って残すのだというわけです。しかし、これは文字どおりとるわけにはいきません。この子孫には、もっと大きな広がりがあります。つまり、自分の子孫だけではなく、自分の死後、大勢の人がこの本を読んでくれればいいという思いが隠されているといってよいでしょう。
「このなかにはご政道にふれた部分もあるかもしれないが、どうかおとがめにならないでいただきたい」とも書いています。江戸時代は言論の自由が制限されている時代でした。蟠桃の時代でも、10年ほど前に林子平が仙台で『海国兵談』という本を出版して、幕府のおとがめを受け、本と版木を没収され、自宅で蟄居という処分を受けています。
 林子平は武士ですが、まして町人風情の蟠桃が政治向きに口をはさむとなると、これは大問題になる恐れがあります。主家である升屋にも迷惑がかかるでしょう。その意味でもこの本は公刊することを目指したものではなく、うちうちのものとする必要があったのです。
 しかし、逆にうちうちのものとすることによって、蟠桃は世間に気兼ねしないで、書きたいことを書けるようになりました。これは『夢の代』の逆説です。世間に公表しないからこそ、蟠桃は自由に考えていることを書けたわけで、それがいま読んでも、この本がおもしろい理由になっています。
 そして、序文の最後に、なぜ『夢の代』というタイトルかという説明があります。「硯を前になにやら書きはじめたものの、ついつい眠気が襲ってくる。それを無理やり抑えて机にかじりついて筆を走らせるという始末だ」と蟠桃は書いていますね。これはたぶんほんとうのことでしょう。
 蟠桃は、いまでいう糖尿病をわずらっていた可能性があります。60歳をすぎて失明したのも、おそらくそのためでしょう。糖尿病の人は、昼間でもしょっちゅう眠くなります。眠ると夢をみますね。ですから、『夢の代』には、眠くなるのをがまんして書いた本というしゃれが隠されているわけです。
『夢の代』の「代」は、かわりに、という意味です。ですから『夢の代』というのは、夢のかわりにというタイトルだと考えていただいていいと思います。
 なぜこんなへんなタイトルにしたのでしょう。蟠桃はこう説明しています。「眠いのをがまんして書いたので、はじめ『宰我の償』という書名にしたのだが、履軒先生がぱっとしないとおっしゃるので『夢の代』と改めることにした」
 ですから、『夢の代』の前に『宰我の償』という草稿があったということになります。宰我というのは『論語』のなかに出てくる人の名前で、孔子の不肖の弟子です。口達者なのですが、なまけもので、いつも昼寝ばかりしています。孔子にいつも叱られています。蟠桃はこの宰我にみずからをなぞらえました。
 すると、ここで孔子になぞらえられているのはだれかというと、これは懐徳堂の中井竹山先生です。『宰我の償』というタイトルには、竹山先生の不肖の弟子、升屋の番頭が、これまでの償いとして、この原稿を書きましたという意味合いがこめられているわけです。
 ところが、この『宰我の償』の完成をまたずに、竹山先生が病気で亡くなってしまいます。ほんらいなら、ここで終わりになったはずです。しかし、竹山先生の弟、履軒先生がこの草稿に興味を示しました。もっと書いてみたらどうかと勧めたのかもしれません。そのとき、履軒先生はどうも題がぱっとしないといいました。どうじゃ『夢の代』という題にしたら、と提案したのも履軒先生だったかもしれません。こうして、もともと『宰我の償』として書きはじめた草稿が『夢の代』へと発展していきます。
『夢の代』というタイトルは『宰我の償』を踏まえていますから、その意味はほとんど変わりません。どちらも、眠いのをがまんして、がんばって書いた本という意味ですね。でも、それだけでしょうか。ここには、もうちょっとちがった意味が隠されているようです。
 蟠桃が亡くなってから30年ほどあとのことですが、アメリカから黒船がやってきて、幕府は開国を余儀なくされます。つまり太平のまどろみが破られるわけです。そう考えると、江戸後期の文化文政と呼ばれる時代の日本人は、まだまどろみのなかにいたのではないでしょうか。蟠桃の『夢の代』は、「夢にまどろんでいないで」という本ですが、蟠桃自身が意識していたかどうかはともかくとして、それ自体、象徴的な方向性を示していたということができます。江戸のまどろみの時代が終わろうとしている。蟠桃はそう警告を発していたとも思えてなりません。
 さらにつけ加えますと、『夢の代』は、いうまでもなく『夢の城』でもありました。「代」を「しろ」と読むのは、むしろ無理があって、「しろ」というと、ふつうは「城」を連想するのではないでしょうか。蟠桃が想像力をかきたてられていたのは、この「城」に向かってでした。城は武士の拠点であって、町人が「城」をつくることなど許されるはずがありません。それでも、蟠桃は「夢の城」をつくろうとしました。
『夢の代』という本は、蟠桃にとって巨大な構築物でした。それは朱子学の体系に沿って、天地人の構造から成り立っていますが、朱子学の虚妄を払う斬新で画期的な書物でした。最晩年、亡くなる直前に『夢の代』は完成します。蟠桃にとっては、まさに自分の城が完成したという思いがあったのではないでしょうか。

 さて、これまで『夢の代』の序文について、ご説明してきましたが、この調子で話していては、いつまでたっても終わりそうもありません。『夢の代』の中身についても、これからお話ししなければならないのですが、のんびり話していると、あと10回くらい講演会を開かなければいけなくなってしまいます。しかし、いちおう時間内に締めくくりをつけておかねばなりませんので、最後に『夢の代』の全体像について概観的にお話しし、その考え方の特徴をピックアップしておこうと思います。
『夢の代』は全部で12章から成り立っています。先ほど大きく分けると天地人の構造だといいましたが、順番にご紹介すると、第1章が「天文」、つづいて「地理」「神代」「歴代」「制度」「経済」「経綸」「雑書」「異端」「無鬼上」「無鬼下」、そして最後の第12章が「雑論」となっております。天文から地理、歴史、政治、経済、道徳、仏教、迷信、健康までが網羅されていることになります。ご覧になればおわかりのように、これは一種の百科全書であり、ビジネスマンのための最新教科書でもあったといえるでしょう。
 まず「天文」の章では、地球が丸いこと、太陽系では太陽を中心に地球が回っていること、太陽系の外に大宇宙が広がっていること、大宇宙には人間以外の生物が存在するにちがいないこと、1年は365日とし、4年に1回閏年を設ける暦が望ましいこと、そのために現在の陰暦を、立春を起点とする太陽暦に変更しなければならないこと、潮の満ち干や気温、雷など気象のことなども述べられています。
「地理」の章では、日本の地理、京の都の配置、自分が訪れた地方の様子、漂流者から聞いた小笠原や八丈島、ベトナムの様子、地球の五大陸についての記述、ロシアやアメリカの地誌、西洋諸国が植民地を広げていることなどが述べられています。
「神代」の章では、『古事記』や『日本書紀』に記された神々の事跡がいかにでたらめかということが論じられています。
「歴代」では、日本の歴史が古代から移りかわって、どのようにして武士の世になっていったかが論じられています。古代の日中韓の交流、源氏物語や土佐物語、太平記のこと、さまざまの忠臣や名将の物語、赤穂の敵討ち、すなわち忠臣蔵のこと、朝鮮通信使のこと、沖縄との関係などが、思いつくままに論じられています。
「制度」では、封建制と郡県制のどちらがよいか、税制のあり方、養子制度、科挙について、神社や寺院のあり方、衣服、冠婚葬祭、海外貿易、刑罰、貨幣制度のあり方、官位、度量衡についてなどが雑多に論じられています。
「経済」は蟠桃のお得意の分野です。商人より農民を尊ぶべきこと、とはいえ幕府は商人の活動に干渉してはならないと述べています。幕府のいちばんだいじな社会政策は貧民対策だとして、備蓄米の必要性が唱えられています。松平定信がこの考え方を採用したことにより、実際、江戸では幕末まで打ち壊しなどの騒動はなくなりました。
「経綸」は儒教の聖典である四書五経について論じた部分です。そして「雑書」では史記や老子などの古典が論じられ、座右の書として『貞観(じょうかん)政要』や『名臣言行録』などが挙げられています。「異端」は仏教批判です。蟠桃は儒学の人ですから、仏教が大嫌いなわけですね。
上下からなる「無鬼」の章は蟠桃がいちばん力を入れた部分で、鬼神や怪異のたぐいは存在しないことを、微に入り細にわたって説き尽くしています。そして最後の「雑論」では、ここまでで書き残したこと、医術のこと、火事のこと、健康法などが書かれています。蟠桃は杉田玄白や大槻玄沢といった蘭方医が好みなのですが、杉田玄白は健康法として、こんなことを言っています「昔のことはくよくよせず、先のことは思いわずらうな」。蟠桃も、毎日、楽しくすごすことが長生きの秘訣だと思っていました。
 これで一気に『夢の代』の中身を説明しました。さらにご興味のある方は、ぜひ実際の本をお読みください。でも、だいたいの中身は、ほぼおわかりいただけたのではないでしょうか。
 そこで、これまで紹介してきたなかから、蟠桃の考え方のようなものを取りだして、本日のまとめにしておきたいと思います。
 私が思いますのに、蟠桃の考え方には4つの特徴があります。それは次のようなものです。

(1)理念からではなく現実から出発する。
(2)虚妄を排し、実証を重んじる。
(3)知によって世の中を切り開く。
(4)社会の秩序、五倫五常を守る。

 以前は山片蟠桃の思想に関して、よくこういうことが言われました。蟠桃は無神論を唱える点では進歩的だが、儒教道徳を唱える点では保守的だ、と。でも、こういう言い方はちょっと的はずれではないでしょうか。
 私の本を読んでくださった読者の方で、こういうふうに感想を書いてくださった方がいます。「蟠桃のように生きたい、と強く思った。まさにこれは理想の『社会人大学院生』じゃないか」。
 これはありがたい感想ですし、山片蟠桃というのは、まさに世の中の成り立ちに興味を持ちつづけた人ではないでしょうか。仕事もしながら勉強もするというのは、現代でもだいじな生き方です。だから、そもそも進歩的か保守的かいう枠で、蟠桃を分類するのは無意味ではないでしょうか。
 山片蟠桃という人は、時代的にも思想的にも、荻生徂徠と福沢諭吉の中間にあった人です。
 徳川吉宗の助言者を務めた荻生徂徠は、儒教の理念から出発して、できるだけ社会から商業の要素を排除しようとして、さまざまな規則を導入することを提言しました。これにたいし、山片蟠桃は大坂に米市場があり、国じゅうで商業が発達しているという現実から出発し、それをよりよいものにしようと努めました。しかし、知によって世の中を切り開くという点では、徂徠と蟠桃は、よく似た面があります。
 福沢諭吉はご存じのように1万円札の肖像になっている人ですが、門閥制度は親の敵でござる、と儒教をかさにきた権威を批判しました。しかし、諭吉自身は儒教に学んだ人で、不仁不義不忠不幸といった非道徳をきらいました。蟠桃自身は身分制度を重んじていました。君主は君主たらねばならないし、主人は主人たらねばならないと思っていました。だからといって、どんな君主にもどんな主人にもだまって仕えるべきだなどとは、いささかも考えませんでした。むしろ君主や主君に苦言を呈することこそが、儒教道徳なのだというのが、蟠桃の考えです。
 こう考えると、福沢諭吉の儒教批判も、山片蟠桃の儒教尊重も、じつはその中身はよく似ていることがわかります。山片蟠桃の思想は、現実的、理性的、実践的、道徳的、平和的であって、つまるところ、きわめて現代的だといえるのではないでしょうか。
『夢の代』については、まだまだ語るべきことが多々あります。しかし、きょうはこれくらいでやめておきましょう。また機会があれば、つづきをお話ししましょう。高砂の生んだ偉人、山片蟠桃から学ぶべきことは、まだまだありそうです。本日は長い時間、ご静聴ありがとうございました。

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