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内山節『新・幸福論』を読みながら [本]

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 ことしも、いろいろな年賀状をいただきました。謹賀新年、ことしもよろしくというあいさつが多いのですが、大学時代の友人は「外出がおっくうになり、年を感じます」と近況のコメント。当方もご同様とうなずきます。
 79歳になったという先輩は「日本を再び戦争のできる国にしようと画策する安倍ファシスト政権を見逃すわけにはいかない」と元気いっぱい。もうひとりの先輩の年賀状には「日本社会が急速に右傾化に向かっていることに底知れない危惧を感じる新年となりました」とありました。
 危惧を感じるのは、ぼくも同じです。
 年上のいとこからの年賀状には「安倍内閣の経済政策は妥当性を欠いておりリスクを高めるだけと考え、昨年、長らくつづけてきた株式投資をやめました」と書かれていました。国が無理やり経済をあおろうとすると、予想もつかない反動がやってくるということでしょうね。株価2万円だ、3万円だと大騒ぎする週刊誌を尻目に、ぼくも同じ不安をおぼえます。
 で、ぼく自身は何て書いたかというと「家族ともども幸せにすごしております」とごくありきたり。まったくモウロク爺さんそのものです。
 つまんない年賀状を送っちゃったなと思いながら、2日前、駅前東武の旭屋をぶらぶらしていたら、『新・幸福論』というこの本が目に飛びこんできたという次第です。ふだんタイトルや出版社名に「幸福」なんて書いてある本は買わないのに、内山節のこの本を手にしたのは、年賀状に「幸せ」とありきたりの文字を並べてしまったことが、どこか引っかかっていたからかもしれません。
 きのうはつれあいの友人がうちにやってきて、「最近カエルが減っているのは、得体のしれない新物質が水を汚染しているからだ」という恐ろしい話を披露してくれました。こちらは昼間からワイングラスを傾けているうちに、すっかりヨッバライ、そのあと酔眼朦朧のまま、この本を飛ばし読みしました。内容の把握ははなはだ心もとなし。
 著者の考え方には共感をおぼえます。たとえば福島の原発事故で、「原発はすぐ隣にあったのだということを私たちは思い知らされた」というのも、そのひとつです。いま私たちは「企業の発展なしには豊かさも自由な暮らしも実現しないというイメージ」が崩壊しようとしている時代に向きあっているというのも、そのとおりだと思います。
 低賃金の非正規雇用が増え、「戦後的豊かさのイメージ」はすでに過去のものとなりつつある、共同体から離されバラバラにされて、企業や国とかたちだけで結びつくようになった現代人は、ひどく孤独になり、「自分だけが取り残されている」と思う人も多くなったというのも、たしかにそうだとうなずきます。
 著者は現代人の孤独、ないし不全感を次のように説明します。

〈「私」は私自身でしかないはずなのに、社会的存在としての私は「人々」や「群れ」のなかの一人にすぎない〉

 いま、人は時と場所によって、さまざまな役割を与えられています。国民、市民、住民、会社員、消費者、主婦、学生、教師、公務員、医師、患者、父親、母親、天皇……。そして、自分に割り当てられた、時にいくつも重なるさまざまな役割を一生懸命演じているわけです。でも、その役割がうまく果たせなかったり、その役割をはずされたり、その役割に違和感をおぼえたり、その役割が得られなかったりして、ふとわれに返るときに、孤独と虚無を感じるわけですね。
 熱狂の時代は、でも孤独を忘れさせてくれます。戦前の戦争も、戦後の経済発展もそうだったかもしれません。しかし、そうした時代はいま終わりをつげようとしていると著者はいいます。
 その原因は、日本を含む「先進国の経済的富の独占」ができなくなったからだというのが著者の分析です。競争の決め手が価格ということになって、日本でも「安い労働力を求めての工場の海外移転」と「国内賃金の引き下げと非正規雇用の増大」があたりまえになりました。国家のレベルでも、財政危機と増税、社会保障水準の低下に加え、台頭する近隣諸国との摩擦が生じようとしています。
 著者はおそらくすでにバブルがはじまっているとみています。バブルの特徴はバブルが崩壊して、はじめて「あれがバブルだったのだ」と気づくことだというのは、おもしろい指摘です。おカネがおカネを生むシステムには、どこかインチキめいたものがあります。
「抽象物でありながら具体性をもつ不思議な商品、それが貨幣である」と著者は書いています。貨幣はそれ自体、美しいものでも食べられるものでもないのに、人はいくらでもおカネをほしがります。それは貨幣が「社会や人間を支配するという権力性」をもつからですね。
 日本ではモノがあふれかえっていて、これ以上、需要が増える余地はそれほどありません。新製品を開発すればいいと思うかもしれませんが、あたらしい商品がつくられれば、その分、昔ながらの商品が市場から消えていくだけなのです。スマホが普及すれば、昔のケータイは古くさくなり、都心部でマンション需要が増えれば、郊外の住宅が空洞化していくというわけですね。
 需要の増加がないところに、はたして「成長戦略」が成り立つのでしょうか。金融政策によって、おカネをじゃんじゃんばらまき、それによって貨幣価値を下げ、円安株高をつくりだすことは可能でしょう。しかし、需要がないところに供給は生まれず、あるのは競争ならぬ狂騒だけです。こうした見かけ倒しの政策がいずれ破綻するのは目に見えていると著者はいいます。「熱狂という幕が閉じたとき、虚無という舞台だけが残っていた」というのが、これまでの歴史でした。
 近現代が終わろうとしていると著者は断言します。すると、われわれはどこに向かおうとしているのでしょうか。コミューンという、どちらかというと左翼的に受け取られかねない用語を著者が使っているわけではありません。しかし、ぼくは政治的な用語とは一線を画した(単なる反権力装置ではない)、あたらしいコミューンの時代がはじまろうとしている、と著者がとらえているのではないかと思えてなりませんでした。
 有機農業や産直の動き、地域のとらえなおし、自然とのたしかな関係、コミュニティづくり、シェアハウス、「自然や人間が結び合いながら、ともに生きようとする小さな社会」に、著者は次の時代への可能性をみているようです。「国民国家、市民社会、資本主義のイメージ」が「虚無」だということに、多くの人が気づきはじめており、すでに「新たな模索」がはじまっている、と著者は書いています。それはどういうあり方でしょうか。

〈それは関係とともに生きるという存在のあり方だ。自然との関係のなかに生きる。他者との関係のなかに生きる。それは関係的存在としての人間のとらえ直しである〉

 ぼくにはむずかしいことはわかりません。哲学も苦手です。しかし、たしかに、もう後生大事に国家や資本主義を守り抜く時代ではないと思います。だからといって、社会主義だとは思えません。社会主義は最悪の国家主義ですから、ぼくも大反対です。
 では、国家や資本主義、社会主義に「幸福」がないとしたら、「幸福」はいったいどこにあるというのでしょう。
「関係的存在としての人間のとらえ直し」と著者は書いています。これは自然や人との関係のなかに「幸福」をみつけるということかもしれません。
 それは政治共同体としてのコミューンをつくるということでなくてもいいと思います。世界共同体としてのコミューンを想像するということでもいいのです。人と人、人と自然とのつながりの糸をたどることによって、国家や資本が人びとを利用したり、こきつかったり、だましたり、分け隔てたり、真実を隠したりしている、利権の構造を徐々にでも変えていくことができるなら、それがまだ目に見ぬコミューンをつくるということになっていくのでしょう。
 しちめんどうな言い方をしましたが、要は権謀やおカネや暴力よりも、人と人との関係、人と自然との関係をだいじにする社会を世界じゅうに広げていこうということでしょうか。それは当初、点と線かもしれませんが、ネット状にどこまでも広がっていくコミューンになる可能性も秘めています。青臭い論議かもしれません。でも、本書を読みながら、そんな感慨をいだきました。



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