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もいちど『しなやかな日本列島のつくり方』(藻谷浩介対話集) [本]

 この本には、ときどきドキッとする発言がでてきます。
 たとえば、限界集落をめぐる話。藻谷浩介はこんなふうにいいます。

〈今では日本全体が限界集落のようなものなのですがね。このまま行けば75年で14歳以下が消え、100年で64歳以下が消えるペースで、人口が減っているのですから、限界集落問題を他人事だと思う人は、自分自身が「限界国家」に住んでいることに気付いていない〉

 たしかにそうだなあと思います。われわれは山村で年寄りしか住んでいない集落を限界集落と呼んでいるけれど、都会にだって年寄りしかいない地区や郊外住宅がどんどん増えているような気がします。
 いっぽうで、若い人は都会に出て、「商品世界システム」に巻きこまれて、毎日をあわただしくすごし、使い捨てられていくうちに、子どもを産み育てる余裕すらなくしてしまう。それが日本の行き着く先だとすれば、とても悲しいことです。
 でも、この本の基本的論調はけっして悲嘆に満ちたものではありません。けっきょく自分の道は自分で見つけなければならないのですが、若者にはどっこい、まだまだ可能性があることを示そうとしたものだともいえます。
 たとえば山村。そんなところで暮らせるわけがないと思うでしょ。ところが、山村の暮らしは、都会よりもある意味、ずっと豊かなんだと、『限界集落の真実』の著者でもある対談相手の山下祐介はいっています。そこでの暮らし方を見つけさえすれば、きっとそうなんだろうなあ。
 日本では山村といっても、いまは交通の便が発達しているので、とつぜん刺身が食いたいなと思っても1時間ほど車で走れば魚が手に入ります。また実際、山村に古本を保管する倉庫をつくって、そこで全国からインターネットによる注文を受けて、古書の商売をしながら暮らしている人もいるそうです。
 もちろん、ほんとうにいなか暮らしをするには夢だけではすまないでしょうから、きちんとした準備と技能の習得が必要でしょう。それでも、これは新しい可能性のひとつだとはいえます。
 観光について語られていることもそうですね。ここで対談相手になっている山田桂一郎は「観光カリスマ」と呼ばれ、スイスのツェルマットで観光会社を経営している人だといいます。
 ぼくはツェルマットに行ったことがないので、どんなところかよくわかりませんが、イタリア北部のドロミテ(ドロミーティ)には何度かいったので、アルプスの「観光」の雰囲気はわかります。日本とはだいぶちがいます。
 山田自身はツェルマットについて、こう語っています。

〈美しいアルプスの姿もそうですが、何より住民たち誰もが自分たちの住む場所を愛し、生き生きと暮らしている姿に、お金とモノだけではない本質的な豊かさを感じたんです。観光で成り立っている地域でありながら観光客に媚びて自分たちのライフスタイルを崩すようなことはせず、かといってリゾート地にありがちな「観光客からお金を搾り取ってやろう」という空気もまるで感じられない〉

 ドロミテもまったく同じでした。イタリアにいる娘の義理の両親は、年2回ほど、1週間ずつドロミテの自炊のできる宿ですごすのを恒例としていて、われわれ夫婦もそれに便乗させてもらったのですが、夏のアルプスをあちこち散策する楽しみは、何ものにも代えがたいものでした。
 これにたいし、日本人の旅行はあわただしいですね。あちこち名所を見て、2泊3日で温泉を楽しむというのがせいぜいでしょう。毎年、同じ場所を1週間訪れるといったバカンスの取り方は、ぜったいといっていいほどしません。1回行ったことのある場所は、まず二度と訪れず、次々と新しい場所を目指します。
 長い休みがとれないこともありますが、旅館は1泊と相場がきまっています。これじゃあ、その土地を楽しむ余裕もありません。そして、こうしたあわただしい観光スタイルに対応して、宿も見かけだけの「おもてなし」に終始し、きたなく、ちくはぐな一発勝負の観光地ができあがるわけです。
 しかし、日本の観光はいまレベルが低いだけに、新しい可能性があるともいえます。日本では国の観光収入を増やすために、いかに宣伝するかということばかり目が行きますが、だいじなのは、それよりも地元の生活に根ざした(自然環境の保全を含めた)全体の町づくりですね。
 目先の流行を追うのではなく、何日も滞在したい、何度でも行ってみたいと思う憧れの場所をつくること。そういう場所をつくるのは、世代を超えた一大プロジェクトであることを、この対談は教えてくれます。
 次は農業についてです。日本の農業が補助金づけになっているという話はよく聞きます。補助金がなければ日本の農業はもうやっていけないのでしょうか。また農業では土地所有者が絶対的な権利をもっていて、若者が農業をやりたいと思っても、簡単にはやらせてもらえないとも聞きます。
 海外から輸入される肉や食料がますます多くなってきて、長い将来を考えると、日本の農業に明るい希望は描けないようにみえます。けっきょくは、さらに補助金をばらまいて、農家になんとか農業をつづけてもらうしか手がないのでしょうか。
 しかし、『日本農業への正しい絶望法』の著者である神門善久(ごうど・よしひさ)は、農業にはもともと大きな可能性があるといいます。

〈大切なのは、現実から逃避しないことです。まずは今、力を失いつつある日本の農業の現状を受け止め、その問題点がどこにあるかを、国民がしっかりと見つめることからはじめなければなりません。その上で、日本の強みである技能集約型農業を絶滅の危機から救い出すこと。それが日本の農業を救う唯一の道だと信じています〉

 アベノミクス(そしておそらく農水省)の考え方は、日本の農業を大規模化し、農業に企業経営の手法を導入しようというものです。つまり、カネになる効率的な農業システムをつくるため、国が補助金をつぎこむというのが、アベノミクスのやり方だといえるでしょう。いってみればプランテーションと同じ考え方です。
 しかし、どうもだいじなことが忘れられているような気がします。当面のもうけしか考えていないこと。そこには場所の思想がありません。つまり生活の場としての農業という発想がまるでないのです。若者が生活の場として農業を選ぶということがなければ、けっきょくいくら補助金を出しても、日本の農業はますます衰退に向かうでしょう。
 ただし、若者が農業をやるのはそう簡単なことではない、と神門善久は話しています。まず肉体的な強さに加え、プロとしての技能の習得が必要です。さらに、「動植物の声が聞けること」、「科学的な思考ができること」、そして「挨拶ができること(人とのコミュニケーションがとれること)」。これができる人でないと、農業はできないと断言しています。頭でっかちではだめなようです。
 この対話集では「商品世界システム」そのものが否定されているわけではありません。しかし、そのシステムの中心に吸収されるのではなく、あくまでも自分の「場所」を守って、将来に伝えていける仕事を残していくオルタナティブな生き方に大きな価値を見いだしているように思えます。

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