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深刻なコメディ、笑えるサスペンス──『グランド・ブダペスト・ホテル』を見る [映画]

 7月5日の土曜日、つれあいにつきあってもらって、車で横浜にでかけました。神奈川近代文学館で開かれた装幀家、菊地信義さんの講演会を聞くためです。テーマは「装幀の余白から」だったかな。楽しい話でした。最初、緊張していた菊地さんも、話しているうちに緊張がほぐれ、最後は落語のようになり、おおいに笑わせてもらいました。
 とくに印象的だったのは、紙には表と裏があり、それと同じように文芸作品にも表と裏があるという話でした。作品は表だけ読んでいたのではだめで、裏を読んではじめて全部を味わうことができる。そして、わからないということがわかったときに、作者と出会っている自分がいることを了解できるという部分が印象に残りました。
 電子本が登場して、紙の本がだんだんと駆逐され、そのうち紙の本は「昔の本はこんなかたちをしていた」という説明つきで、考古学博物館の片隅に展示されるようになってしまうのではないかという危機感を、菊地さんはいだいていました。
 会場の人もぼくも、これを冗談のように聞いていましたが、ほんとうは冗談ではすまないかもしれません。そもそも江戸の和本だって、いまこれを読むことのできる人は少ないですし、当時の和綴じ本はたしかに博物館の展示コーナーに陳列されているわけですから。
 話が終わったあと、グーテンベルクが印刷機を発明したのと同じように、電子本には将来の可能性があるのではないか、と質問した人がいました。これにたいし、菊地さんがそんな将来に住みたくないときっぱり答えたのもよかったです。
 携帯だかスマートホンだか、だれもが端末をもたされて、管理されている時代はそら恐ろしいとも語っていました。
 広辞苑で「たんまつ」ということばを引いてごらんなさい。「物のはし。すえ」となっていて、さらに次の項目に目をやると、びっくりしますよ。「たんまつ」の次は「だんまつま」、断末魔で、その語釈は「死穴」。
「たんまつ」のあとは「だんまつま」が待っている。その組み合わせの妙に会場からは大爆笑がおこり、ぼくも思わず笑ってしまいましたが、考えてみれば、これはおそろしい終末論の予言です。
 いま時代は経済主義から国家主義に向かっているというのも、そのとおりだなと思った次第です。

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 そんな講演の話を書いているうちに、ふと思いだしたのが、先週ららぽーとのTOHOシネマズでみたウェス・アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』という喜劇映画のことです。
 記憶はすでに茫々としているので、あてになりませんが、舞台はヨーロッパの東の端のとある国、その山のなかにある「グランド・ブダペスト」という豪華ホテルです。
 映画の構造は年代としては3層にわかれていますが、中心になるのは、ホテルの伝説のコンシェルジュ、ムッシュ・グスタヴ・Hの大冒険物語だといってよいでしょう。時代は1930年代後半、隣国のファシストがまもなくこの国を占領しようというころです。
 あつかわれている時代はとてもシリアス。でも、この映画でまじめな顔をしているのは無機質な表情で機械のように命令どおりに動くファシストの兵士や看守、警察官だけです。あとは全員どこかおとぼけ、なかでも主人公のとてもスマートなおとぼけぶりが堂にいっています。悪人たちも、どこかへんで(関西のことばでいえば、けったいで)、けっして憎めません。
 話の筋は簡単です。
 グスタヴ・Hは全身全霊で客へのサービスにつとめる名コンシェルジュで、マダムDはそんなかれにほれこんでいます。そのマダムDが自宅で急死し、グスタヴに値打ちのある絵を1枚、遺産として残します。
 ところが、その死はじつはマダムの長男による毒殺だということがわかってきます。遺産を独り占めしたい長男は、こともあろうにグスタヴに濡れ衣を着せ、そのためグスタヴは警察に追われる身となります。囚われの身となったグスタヴが、ホテルのロビーボーイ「ゼロ」とその恋人の手を借りて脱獄し、真相をあばくのです。
 雪の修道院、雪原の対決、そして、とうとうホテルで強欲な長男をやっつけるまでの話が楽しいこと楽しいこと。大笑いしてしまいました。
 昔の映画を見ているようでもあり、美しいノスタルジックな画面にうっとりし、とぼけた役者たちの表情に魅入られるうちに、あっというまに2時間の夢の世界が終わっていました。
 この映画の味は、1935年に公開された山中貞男の『丹下左膳』とどこか似ていると思ったのが自分でも不思議です。ぼくはもちろんBSでこの映画を見たのですが、丹下左膳を演じた大河内傳次郎はいい役者だなあと感嘆しました。そのとぼけた感じが、ムッシュ・グスタヴ・Hを演じたレイフ・ファインズと何となく似ていると思った次第です。
 そういえば、丹下左膳もみなしごの「ちょび安」をかわいがっています。グスタヴ・Hの相方にはおなじく、みなしごの「ゼロ」がいます。
 グスタヴは最初ロビーボーイに雇われた「ゼロ」を、どこかはずれの国から、ふらふらとやってきた少年だと、こばかにしていました。ところが、話を聞くうちに、この少年が大好きになり、どんなことをしてもこの少年を守ろうと思うようになります。少年「ゼロ」は、戦争で家族をすべて失い、故国を追われた天涯孤独の身だったことがわかったからです。
 国家や財産にではなく、孤独に寄り添うというのがグスタヴ・Hのやさしさの源なのかもしれません。グスタヴ・Hの最後は悲劇です。でも、かれは少年とその恋人を守るため、堂々と機械のように動くファシストどもと渡りあいます。
 人生につらさはつきものです。でも、ちょっぴりとぼけた生き方で、それをやりすごすことはできます。とくに国家主義の時代に生きつづけるには、すこしとぼけた生き方が必要になってくるかもしれませんね。でも、いちばんだいじなのは、孤=個としての人への共感。でも、もういいんだ、とぼけていても、言いたいことは言っておかないと、あとが悔やまれる。ニヤニヤ、ハラハラしながら映画を見終わったあと、ぼんやりそんなことを思ったのでした。

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