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ヤーギン『石油の世紀』を読む(1) [本]

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 この前、1967年の「6日戦争」についてふれたら、石油のことが気になってきた。図書館でダニエル・ヤーギンの『石油の世紀』を借りてみる。NHK出版から翻訳が1991年に出版されているから、もうずいぶん前の本だ。気になっていながら、これまで読む機会がなかった。
 いかにもアメリカの本らしく、だれでも気楽に読めるノンフィクションといったところ。でも、上下巻。本文だけで1300ページ以上ある。いつもながらアメリカ人ライターの気力と体力に圧倒される。最初、カバーの図柄を2001年の9・11かと見誤ったが、もちろんそんなことはなく、これは1905年にバクー油田が炎上している写真だ。なんだかニューヨークが煙でもうもうとしているのかと思ってしまった。
 原題はThe Prize: The Epic Quest for Oil, Money and Power。意訳すれば「報償──石油、カネ、権力をめぐる物語」とでもなろうか。要は石油ビジネスの話だ。全体は5部に分かれ、19世紀半ばから1980年代までの石油をめぐる人間のドラマを追っている。その後の動きを知るには、同じ著者の近刊『探求──エネルギーの探求』を読むべきだろう。
 以下は斜め読みによる、ごく簡単な読書メモ。
 きょうは第1部「創業者たち」を読んでみる。
 アメリカで石油ビジネスがはじまるのは19世紀半ば。ペンシルバニア州北西の丘陵地帯オイル・クリークで石油が噴出しているのは知られていた。その石油を大規模に採取して、成分を純化したものをランプの光源として売り出せないかと考えたのが、ニューヨークの弁護士、ジョージ・ビセルだった。それまでランプには鯨油や松ヤニ、石炭から抽出したオイルなどが用いられていたが、ビセルはランプの油としては、石油のほうがずっと実用性があると考えた。
 問題はその掘削技術だった。地上ににじみでてくる石油をたらいですくっていたのでは話にならない。そこでビセルは岩塩を掘るのに使っていたボーリング技術に目をつけ、これをオイル・クリークでためしてみることにする。結果は大成功。黒い液体が噴出した。原油から抽出した灯油を使ったランプの光は、これまでのものよりずっと明るかった。
 はじめは生産量のほうが需要よりずっと多く、原油の値段がどんどん下がった。人びとは安い灯油を求めるようになり、南北戦争のさなかにあっても石油採掘競争は激化していく。無理な増産は石油の枯渇につながり、にわか景気にわいた町を荒廃させていった。石油価格の上下変動も激しかった。こうした混乱をどうコントロールしていくかが問題だった。
 そこに登場するのがジョン・D・ロックフェラーだ。石油ブームのなか、ロックフェラーは石油精製事業に乗り出し、1870年にスタンダード石油を設立する。石油精製所を統合し、パイプラインを含め輸送を確保するのが仕事の目標となった。こうして生産効率は高まり、マーケットが拡大していく。
 このころ人びとが石油を求めたのは、おもに明かりのためである。灯油ランプによって、暗い夜に昼とみまがうような明かりがともり、アメリカ人の生活が変わった。
 石油から生まれたのは灯油だけではない。重油からとれるさまざまな成分が、溶剤や潤滑油、薬品として用いられていた。
 スタンダード石油は、当初、石油生産事業からは距離を置いていた。ペンシルベニアの油田がまもなく枯渇するのは目に見えていた。1880年代半ば、オハイオ州からインディアナ州にかけて油田が発見される。スタンダード石油が石油生産事業に乗りだすのはそのときからである。ロックフェラーは総合石油企業を作りあげ、石油の価格をコントロールし、80%以上のシェアで市場を支配することになる。
 スタンダード製のアメリカ灯油は、半分以上がヨーロッパに輸出された。向かうところ敵なしと思えた。ところが、そうではなかった。競争者があらわれたのである。
 カスピ海の西岸バクーに石油をだす泉があることは古くから知られていた。ここで石油精製事業にあたったのが、スウェーデンのノーベル兄弟(ダイナマイトで有名なアルフレッド・ノーベルの兄たち)である。しかし、ネックは石油の輸送であり、カスピ海を北上するルートはあまりにも輸送コストがかかりすぎた。そこでロスチャイルド家が乗り出す。ロスチャイルドはバクーから黒海沿岸のバツームに向かう鉄道の建設に資金を提供、鉄道は1883年に完成し、黒海ルートができあがった。
 ヨーロッパでは、灯油をめぐってスタンダードとノーベル、ロスチャイルドの激しい価格競争がはじまった。ところが、ここでノーベル家のルドヴィッヒが急死する。
 ノーベル家はロシアの市場を握っていた。これにたいし、ロスチャイルドはありあまる石油の販売先としてアジアに目を向ける。そこに登場するのがマーカス・サミエル。かれはロスチャイルドと組んで、タンカーを設計し、インドと極東への進出をこころみた。そのタンカーには貝殻(シェル)のマークがつけられていた。
 オランダ領東インド諸島のスマトラ島でも石油がでることは、以前から知られていた。しかし、その開発は遅れ、油井の掘削が成功するのは1885年になってからである。それを担ったのがロイヤル・ダッチ社。1892年にはパイプラインが完成し、その年、灯油がはじめてスエズ運河経由でヨーロッパに送られた。その生産量は次第に増えていく。
 灯油にはすすやほこりがつきものという大きな欠陥があった。19世紀末、トマス・エジソンは電気による照明を思いつく。電気技術は照明以外にも多様な可能性を秘めていた。エジソンは蓄音機や蓄電池、映画などを発明する。
 照明に灯油でなく電気が使われるとしたら、石油は売れなくなってしまう。ところが、ここに自動車が登場するのだ。1910年には、すでにアメリカで90万台以上の車が走るようになっていた。そして、車を動かすにはガソリンが必要だった。
 ペンシルベニアでの石油生産は衰退に向かいつつあった。しかし、カリフォルニア、テキサスで引きつづき石油が発見される。テキサス石油の最大の生産業者がジェームズ・ガフィー。その石油を販売したのはスタンダード石油ではなく、マーカス・サミエルの「シェル」だった。品質の悪いテキサスの原油は、灯油としてではなく、熱源や動力源、交通機関用として売られた。
 だが、ガフィーとシェルとの契約はしばらくして破棄される。それに代わってテキサスの石油を手中に収めたのが、ウィリアム・メロンで、ガフィー石油会社と製油所を統合し、ガルフ石油を創設した。
 メキシコ湾岸で石油が爆発的に増産されたことから、スタンダード石油のアメリカ国内での圧倒的なシェアは失われていく。いくつもの州で反独占訴訟がおこされ、スタンダード石油はそれをかろうじてかわすものの、組織の変更は免れず、持ち株会社がつくられた。
 1897年にロックフェラーは引退するが、長生きする。そのあとも、メディアによるスタンダード石油攻撃はつづいた。セオドア・ルーズヴェルト大統領は、スタンダード石油をシャーマン反トラスト法違反の疑いで訴え、その結果、1909年にスタンダード石油は解体されることになった。そこからエクソンやモービル、シェブロン、ソハイオ、アモコといった会社が生まれる。分割された会社の株価は上がり、いちばん多くの株を所有していたロックフェラーは、皮肉にも前にもまして大金持ちになった。
 マーカス・サムエルとロシア油田との契約は1900年に切れることになっていた。ロスチャイルド家との関係もいつまでつづくかわからなかった。そのためかれは死に物狂いで石油を求め、東ボルネオで石油の利権を手に入れる。そのころサムエルは石油は燃料として使うのが、もっとも合理的だと確信するようになっていた。かれのつくった新会社はシェル石油と呼ばれるようになる。
 1900年、ヘンリ・デターディングが、ロイヤル・ダッチのマネージャーに就任する。1901年末、サムエルとデターディングは、シェルとロイヤル・ダッチを合併することで合意、さらにこれにロスチャイルドが加わって、1903年にアジアティック石油が誕生する。紆余曲折はあったものの、1907年、ついにロイヤル・ダッチ・シェル・グループが誕生する。そのボスはデターディングだった。新会社はアメリカ進出をめざした。
 このころ革命熱の高まったロシアでは、バクーで石油労働者によるストが頻発する。1905年にはバクーの油井が破壊され、炎上する(これがカバーの図柄)。1907年にもバクーではストが広がる、そのとき労働運動を指揮したのがスターリンだった。このころロシアでは黒海沿岸でも石油がではじめていたが、ロスチャイルド家は不安定なロシア情勢に嫌気がさし、ロシアの石油事業全体をロイヤル・ダッチ・シェルに売り渡した。
 ペルシャのキタブギ将軍がパリにあらわれたのは1900年末のこと。ペルシャ政府の収入を増やすため、ペルシャの石油利権を売りこみにきたのだ。そのときイギリス人の資本家、ウィリアム・ダーシーと出会う。ダーシーは1901年にペルシャのシャーと60年契約を結び、広大な南部地域の石油利権を手にした。
 西洋への敵意に満ちた地での試掘は困難をきわめた。資金も底をついてくる。そこでダーシーはイギリス海軍省に融資を求めるが、ことわられる。ダーシーの借金は積み重なり、もはや石油利権を手放さねばならないかと思われた。利権がフランスのロスチャイルド家に移る恐れもあった。
 そのときイギリス政府自体が動き、ビルマ石油とダーシーをつなぐことで、ようやくイギリスの石油利権を守る。
 ペルシャでの試掘はつづく。1906年、テヘランで革命が起こり、王政が立憲君主制へと移行する。ペルシャ情勢が不安定化するなか、イギリスはロシアと協商を結び、北部をロシアの勢力圏、南部をイギリスの勢力圏とすることで合意する。だが、新たな掘削地点は、中立地帯の中部にある、拝火教寺院の拠点マスジッド・イ・スレイマンだった。1908年、その場所からすさまじい量の石油が噴出する。
 1909年、アングロ・ペルシャが設立される。ダーシーの名前はその会社から消えていた。まもなくアバダンの製油所と、200キロ以上にわたるパイプラインがつくられる。だが、販売ルートがない。そこで、ロイヤル・ダッチ・シェルが乗りだす。
 イギリスのジョン・フィッシャー提督は、次の戦争では石油が決定的要素になると考えていた。1911年、ウィンストン・チャーチルが海軍大臣に就任。フィッシャーはチャーチルに、イギリス海軍は石油を選択すべきだと進言する。戦艦がスピードを出すには石油に頼るほかなかった。取り扱いの面でも、石炭より石油のほうがずっと楽だった。
 しかし、石油はいったいどこにあるのか。海軍省はアングロ・ペルシャに目をつける。アングロ・ペルシャが、チャーチルにいわせれば、コスモポリタン(ユダヤ人)とオランダの会社であるロイヤル・ダッチ・シェルに呑み込まれるのは阻止しなければならない。1914年、チャーチルはイギリス政府がアングロ・ペルシャに出資し、筆頭株主となる法案を通し、事実上、アングロ・ペルシャを国有化する。
 だが、ロイヤル・ダッチ・シェルがイギリス政府に非協力的だったわけではない。第1次世界大戦で、ロイヤル・ダッチ・シェルはイギリスを支援する。いずれにせよ、石油はこのころ、すでにまぎれもない戦略物資になっていた。
(きょうはこのあたりで。次回もダイジェストつづきます。)

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