ピケティ『21世紀の資本』を読む(1) [本]
先日、船橋の書店で、評判のこの大作を見つけ、思わず購入してしまいました。それで、先ほどからぱらぱらと読みはじめたのですが、なかなかむずかしい。ぼくなどは、だれがどうしたとか、こんなできごとがあったというような話が好きなので、客観的な統計と数字にもとづく記述が延々とつづくと、もう頭がついていかなくなります。それで、さっそく挫折しそうになるのですが、せっかく買い込んだので、ここで投げだすのも残念。なんとか態勢を立てなおし、少しずつメモをとってみることにしました。ポイントだけかいつまんだ、テキトーなメモにすぎませんが、これで自分なりの理解が促進できればいいと思っています。
本書は「はじめに」という導入部をのぞいて、4部から成り立っています。
第Ⅰ部 所得と資本
第Ⅱ部 資本/所得比率の動学
第Ⅲ部 格差の構造
第Ⅳ部 21世紀の資本規制
当初、本書の日本語版タイトルは、『21世紀の資本論』とされていたはずです。それが『21世紀の資本』とあらためられたのは、『21世紀の資本論』だと、マルクスの『資本論』をリニューアルしたみたいと思われるのがいやだったのかもしれませんね。実際、本書は『資本論』とは内容も雰囲気もまったく異なる、別の作品といってよいでしょう。とはいえ、資本と所得、とりわけ賃金の問題を取り扱っている点では、『資本論』と一脈通じるところがあります。
きょうは「はじめに」の部分だけを自分勝手に読んでみます。
18世紀以来、現在にいたるまで、富の分配がどう推移してきたかを、データと新しい理論的な枠組みにもとづいて分析することが、本書の目的だ、と著者は述べています。その方向性ははっきりしています。もし資本主義がいわれのない格差を生みだしていることがはっきりするならば、それを是正する民主主義的な政策を打ちださねばならない、というわけです。
しかし、これまでの研究は、しっかりとした事実にもとづかない、それぞれ勝手な思いこみのうえに築かれていたことが問題でした。
イギリスとフランスで古典派の政治経済学が登場したのは、18世紀の終わりから19世紀はじめにかけてのことです。経済社会が大きく変わろうとしていました。そんななか、マルサスやリカード、マルクスが登場し、それぞれ有意義な貢献をはたしました。とはいえ、この時代の政治経済学が描く構図は、「かなり悲観的な、ときには終末論的」なものです。その背景には、富が集中するいぽうで、労働者が悲惨な生活を余儀なくされているという現実がありました。
状況が変わるのは20世紀にはいってからです。労働者の賃金が上がりはじめました。戦争と恐慌の時代をくぐりぬけたあと、経済学者のあいだでは、おとぎ話のような楽観論が広がるようになります。それは資本主義が発展していくと、だれもが豊かになり、次第に所得格差は減っていくというものです。
これはほんとうだろうか、と著者は疑問を投げかけます。1970年代以降、富裕国では所得格差が広がっているようにみえたからです。
著者は分配問題を経済分析の核心にすえようとします。しかし、経済学が用いている数学モデルは、問題をあまりにも単純化しすぎているように思えました。そこでできるだけ広範な歴史的データを集めて、それを辛抱強く比較検討してみようと決意したわけです。
そこで、まず集められたのが、所得に関するデータです。おもにWTID(世界トップ所得データベース)という資料が用いられました。もうひとつは富(資産)に関するデータです。富に関するデータはかぎられていましたが、それらはある程度、相続税データを利用することができました。国富の総ストック(土地、不動産、企業資産、個人資産など)についてのデータも参照されました。
そのうえで、著者は資本/所得アプローチなるものを展開します。これについてはあらためて、説明しましょう。
〈これまでの研究と比べて本書が突出しているのは、私ができるかぎり完全で一貫性ある歴史的情報源の集合を集め、長期的な所得と富の分配をめぐる動きを研究しようとしたことだ〉
そう書いています。本書への意気ごみが感じられますね。
これから読まれる本書を先取りするかたちで、著者はここで導かれた結論をいくつか紹介しています。
そのひとつは、富と所得の格差は、経済メカニズムによって決まるわけではないということです。そこには政治的な選択が関係してくるというのです。
もうひとつ、いえること。それは格差を減らし、圧縮する力は、知識と技能の分散から生まれてくるということ。いいかえれば、ぼんやり手をこまぬいていては、格差は広がるばかりだということです。
著者は成長が弱くて、資本収益率が高いときには、格差を拡大する力がはたらくと述べています。
米国では1945年から80年にかけてが、格差のちぢまった時期とされます。これは日本も同じですね。このころは一億総中流とか、中間階級の時代といわれたものです。ところが、1980年代以降、米国では格差がめざましく広がったとされます。日本でも同じでしょうか。
さらに、著者は資本/所得比率という考え方をもちだしています。これは民間財産(資産)を国民所得で割った比率を指します。
20世紀のはじめ、この割合は、だいたい6〜7というところでした。フランスでも、ドイツでも、イギリスでも、国レベルでみて、全体の資産は年間国民所得の6、7倍あったわけですね。その割合が2〜3へと急落するのは、1914年から50年ごろにかけてです。大恐慌やら戦争が、いかに経済にショックを与えたかがわかります。
その比率は2010年にはふたたび4〜6へと戻っています。
そして、資本/所得比率が回復するにつれて、ふたたび格差が広がりはじめるのです。
資本収益率が成長率を大幅に上回ると、富の分配で格差は広がる、と著者は書いています。このあたりの話はややこしいので、詳しくはこの問題を論じた章を検討してみる以外にないでしょう。
いまは著者の理論についてコメントは控えることにします。
本書が扱っている時代は18世紀から現在までで、地域としてはおもに米国、日本、ドイツ、フランス、イギリスです。とりわけデータがそろっているという点で、フランスとイギリスに焦点があてられています。
1971年生まれの著者は、ベルリンの壁が崩壊した1989年には18歳で、まったく共産主義に親近感やノスタルジーを覚えたことはないと記しています。
パリの高等師範学校を卒業後、米国のマサチューセッツ工科大学で教えてからフランスに戻り、パリ経済学院を設立しました。異常なほど数学モデルにこだわる現代経済学には、ほとんど興味をもてなかったといいます。
本書でも「実をいえば経済学者なんて、どんなことについてもほとんど何もしらないというのが事実なのだ」と言い切っています。はつらつとしていて、いいですね。
こんなふうにも述べています。
〈富の配分や社会階級の構造の歴史的動学についての理解を深めたいならば、当然ながら現実的なアプローチをとって、経済学者だけでなく、歴史学者、社会学者、政治学者の手法をも活用すべきだ。根本的な問題から出発してそれに答えようとすべきだ。分野どうしの戦争や縄張り争いは、ほとんど何の意義もない。私から見れば、本書は経済学の本であるのと同じくらい歴史研究でもある〉
なかなか勇猛果敢です。どこまで理解できるかわかりませんが、少しずつ読んでみることにします。
本書は「はじめに」という導入部をのぞいて、4部から成り立っています。
第Ⅰ部 所得と資本
第Ⅱ部 資本/所得比率の動学
第Ⅲ部 格差の構造
第Ⅳ部 21世紀の資本規制
当初、本書の日本語版タイトルは、『21世紀の資本論』とされていたはずです。それが『21世紀の資本』とあらためられたのは、『21世紀の資本論』だと、マルクスの『資本論』をリニューアルしたみたいと思われるのがいやだったのかもしれませんね。実際、本書は『資本論』とは内容も雰囲気もまったく異なる、別の作品といってよいでしょう。とはいえ、資本と所得、とりわけ賃金の問題を取り扱っている点では、『資本論』と一脈通じるところがあります。
きょうは「はじめに」の部分だけを自分勝手に読んでみます。
18世紀以来、現在にいたるまで、富の分配がどう推移してきたかを、データと新しい理論的な枠組みにもとづいて分析することが、本書の目的だ、と著者は述べています。その方向性ははっきりしています。もし資本主義がいわれのない格差を生みだしていることがはっきりするならば、それを是正する民主主義的な政策を打ちださねばならない、というわけです。
しかし、これまでの研究は、しっかりとした事実にもとづかない、それぞれ勝手な思いこみのうえに築かれていたことが問題でした。
イギリスとフランスで古典派の政治経済学が登場したのは、18世紀の終わりから19世紀はじめにかけてのことです。経済社会が大きく変わろうとしていました。そんななか、マルサスやリカード、マルクスが登場し、それぞれ有意義な貢献をはたしました。とはいえ、この時代の政治経済学が描く構図は、「かなり悲観的な、ときには終末論的」なものです。その背景には、富が集中するいぽうで、労働者が悲惨な生活を余儀なくされているという現実がありました。
状況が変わるのは20世紀にはいってからです。労働者の賃金が上がりはじめました。戦争と恐慌の時代をくぐりぬけたあと、経済学者のあいだでは、おとぎ話のような楽観論が広がるようになります。それは資本主義が発展していくと、だれもが豊かになり、次第に所得格差は減っていくというものです。
これはほんとうだろうか、と著者は疑問を投げかけます。1970年代以降、富裕国では所得格差が広がっているようにみえたからです。
著者は分配問題を経済分析の核心にすえようとします。しかし、経済学が用いている数学モデルは、問題をあまりにも単純化しすぎているように思えました。そこでできるだけ広範な歴史的データを集めて、それを辛抱強く比較検討してみようと決意したわけです。
そこで、まず集められたのが、所得に関するデータです。おもにWTID(世界トップ所得データベース)という資料が用いられました。もうひとつは富(資産)に関するデータです。富に関するデータはかぎられていましたが、それらはある程度、相続税データを利用することができました。国富の総ストック(土地、不動産、企業資産、個人資産など)についてのデータも参照されました。
そのうえで、著者は資本/所得アプローチなるものを展開します。これについてはあらためて、説明しましょう。
〈これまでの研究と比べて本書が突出しているのは、私ができるかぎり完全で一貫性ある歴史的情報源の集合を集め、長期的な所得と富の分配をめぐる動きを研究しようとしたことだ〉
そう書いています。本書への意気ごみが感じられますね。
これから読まれる本書を先取りするかたちで、著者はここで導かれた結論をいくつか紹介しています。
そのひとつは、富と所得の格差は、経済メカニズムによって決まるわけではないということです。そこには政治的な選択が関係してくるというのです。
もうひとつ、いえること。それは格差を減らし、圧縮する力は、知識と技能の分散から生まれてくるということ。いいかえれば、ぼんやり手をこまぬいていては、格差は広がるばかりだということです。
著者は成長が弱くて、資本収益率が高いときには、格差を拡大する力がはたらくと述べています。
米国では1945年から80年にかけてが、格差のちぢまった時期とされます。これは日本も同じですね。このころは一億総中流とか、中間階級の時代といわれたものです。ところが、1980年代以降、米国では格差がめざましく広がったとされます。日本でも同じでしょうか。
さらに、著者は資本/所得比率という考え方をもちだしています。これは民間財産(資産)を国民所得で割った比率を指します。
20世紀のはじめ、この割合は、だいたい6〜7というところでした。フランスでも、ドイツでも、イギリスでも、国レベルでみて、全体の資産は年間国民所得の6、7倍あったわけですね。その割合が2〜3へと急落するのは、1914年から50年ごろにかけてです。大恐慌やら戦争が、いかに経済にショックを与えたかがわかります。
その比率は2010年にはふたたび4〜6へと戻っています。
そして、資本/所得比率が回復するにつれて、ふたたび格差が広がりはじめるのです。
資本収益率が成長率を大幅に上回ると、富の分配で格差は広がる、と著者は書いています。このあたりの話はややこしいので、詳しくはこの問題を論じた章を検討してみる以外にないでしょう。
いまは著者の理論についてコメントは控えることにします。
本書が扱っている時代は18世紀から現在までで、地域としてはおもに米国、日本、ドイツ、フランス、イギリスです。とりわけデータがそろっているという点で、フランスとイギリスに焦点があてられています。
1971年生まれの著者は、ベルリンの壁が崩壊した1989年には18歳で、まったく共産主義に親近感やノスタルジーを覚えたことはないと記しています。
パリの高等師範学校を卒業後、米国のマサチューセッツ工科大学で教えてからフランスに戻り、パリ経済学院を設立しました。異常なほど数学モデルにこだわる現代経済学には、ほとんど興味をもてなかったといいます。
本書でも「実をいえば経済学者なんて、どんなことについてもほとんど何もしらないというのが事実なのだ」と言い切っています。はつらつとしていて、いいですね。
こんなふうにも述べています。
〈富の配分や社会階級の構造の歴史的動学についての理解を深めたいならば、当然ながら現実的なアプローチをとって、経済学者だけでなく、歴史学者、社会学者、政治学者の手法をも活用すべきだ。根本的な問題から出発してそれに答えようとすべきだ。分野どうしの戦争や縄張り争いは、ほとんど何の意義もない。私から見れば、本書は経済学の本であるのと同じくらい歴史研究でもある〉
なかなか勇猛果敢です。どこまで理解できるかわかりませんが、少しずつ読んでみることにします。
2014-12-17 16:55
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