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神風は吹いたのか──服部英雄『蒙古襲来』をめぐって [本]

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 蒙古襲来。昔は元寇と習ったような気がする。
 鎌倉時代末期に、蒙古(モンゴル)軍が2度日本に攻めてきた。
 しかし、神風が吹いて、モンゴル軍は壊滅。それ以降、日本は外国からの侵略を寄せつけない神国と呼ばれるようになった。
 ぼくには、その程度の認識しかない。
 蒙古襲来とはいったい何だったのか。
 神風はほんとうに吹いたのか。
 本書は蒙古襲来に関する本格的な研究書である。
 日本史の分野はいまかなり研究が進んで、それまでの常識が大きくくつがえろうとしている。蒙古襲来についても、同じことがいえそうだ。
 専門家ではないので、本書の内容を分析し、論評することはできない。
 拾い読みした印象だけ、つづっておきたい。

 日本侵攻を命じたのは、モンゴル帝国皇帝のクビライ・ハーン(1215−1294)。クビライよりフビライという言い方のほうがおなじみかもしれない。
 1260年に即位し、1271年、中国に元王朝をたてた皇帝である。
 当時はまだ南に宋が残っていた(いわゆる南宋)。その国を征服し、中国全土を支配するのが、元の当面の目標だった。
 そして、南宋は1276年に滅亡する。
 元による最初の日本侵攻は1274年である。日本では文永の役(文永11年)と呼ばれる。クビライは、南宋に軍需物資となる硫黄(火薬の材料)や米を送っている日本に懲罰を加えようとした。太宰府をおさえ、九州北部を制圧するのが目的だ。高麗の兵も動員された。
 そのころ日宋貿易がさかんだったことを思い起こさなければならない。博多だけではなく、現在の福岡県、佐賀県、長崎県、鹿児島県、山口県一帯に、唐坊と呼ばれるチャイナタウンが広がっていた。
 日本が輸入していたのはおもに宋銭である。当時、日本では、鋳造された通貨はなく、おもに宋銭が使われていた。
 蒙古軍は対馬、壱岐を制圧したあと、文永11年(1274)10月19日(旧暦、現在の暦では11月25日)深夜に、抜都魯(バアトル)軽疾舟を使って博多湾に上陸した。
 蒙古軍といっても、高麗の兵も多く、全兵員数は6000足らず。
 艦船は100艘程度だった。
 上陸は翌日昼までつづく。
 そのあと蒙古軍は分かれて、今津(現福岡市西区)、箱崎(同東区)、鳥飼(同城南区)に進んだ。鳥飼に向かった部隊は350人ほど。
 日本側は120人が乗った兵船2艘で、20日夜、博多湾の志賀島沖に停泊する蒙古の艦船に夜襲をかけたが、戦果は乏しかった。
 緒戦は赤坂、鳥飼の合戦である。
 赤坂山には太宰府警固所があり、蒙古軍はここを攻撃目標とした。
 警固所を守っていたのは太宰少弐経資(しょうにつねすけ)、鳥飼に布陣していたのは弟の少弐景資(かげすけ)である。
 そして、とりわけ肥後御家人の菊池武房、竹崎季長(すえなが)らが奮戦して、蒙古軍をはねつける。
 赤坂山の跡地には、現在、福岡城がたっている。
 箱崎方面の防衛にあたっていたのは、豊後守護の大友頼泰である。
 ここでは蒙古軍は当初のもくろみどおり、筥崎(はこざき、箱崎)宮を焼くことに成功する。
 今津方面にも、蒙古軍部隊は展開していたはずだ。
 しかし、太宰府警固所を攻めあぐねた蒙古軍は、その後、麁原(すそはら、祖原)山(現早良区)に拠点となる陣地を築き、太宰府攻略の機会をうかがった。
 戦闘は7日間つづく。
 10月24日には大きな戦闘があった。
 だが、その間、冬型の気圧配置が強まり、九州北部は悪天候に見舞われていた。いわゆる爆弾低気圧が発達して、戦場を暴風雨が襲った。
 そのため蒙古軍は撤退を決める。北風が弱まったのを見計らって、10月末に乗船し、帰国の途についた。
 冬の日本海が荒れて、渡航困難になるのを恐れたためだ。
 蒙古軍が朝鮮の合浦(がっぽ、ハッパ、現在の馬山)に帰還するのは11月27日のことである。
 これが、第1回の蒙古襲来の実態だった。
 神風は吹いていない。爆弾低気圧による嵐はあったけれど、これは台風ではない。蒙古軍は、神風により1日にして壊滅したわけではなかった。まして、八幡の神兵が蒙古軍を打ち破ったなどというのは、たわごとにすぎない。

 二度目の蒙古襲来は、それから7年後の弘安4年(1281)夏である。このとき閏7月1日(現在の暦では8月23日)に神風が吹き、十余万の蒙古軍は、海の藻屑と消えたというのが、ずっと歴史の語り口になってきた。
 ぼくも、そんなふうに思いこんでいた。
 ところが、著者は一次資料を批判的に読むこむことによって、それがつくられた伝説であることをあきらかにする。
 7月1日に猛烈な台風が、九州北部を襲ったことはまちがいない。しかし、台風によって被害を受けたのは、蒙古軍だけではなく日本側も同じであるはずだ。そして、戦闘が7月1日以降もつづいていることは、竹崎季長が絵師に描かせた「蒙古襲来絵詞」をみても、あきらかだという。
 蒙古軍は7月1日の神風で壊滅したわけではなかったのだ。
 伊万里湾に浮かぶ鷹島(現長崎県松浦市)近辺の海底からは、たしかに蒙古船の遺物が数多く見つかっている。しかし、蒙古軍の艦船は、鷹島近辺だけに停泊していたわけではない。推定で1200艘近い大艦隊のうち、沈んだのはせいぜい数十艘ではないか、と著者はみる。
 弘安の役で、蒙古軍はふたつの軍を投入した。
 東路軍と江南軍である。東路軍が先方で、江南軍は後詰めの部隊だ。
 東路軍は5月3日に合浦(馬山)を出発、その日のうちに対馬に到着し、8日までに対馬全島を掌握した。軍船は300艘たらず、兵は1万。
 東路軍は、そのあと15日ごろ、壱岐に到着。壱岐を制圧したあと、5月26日に博多湾の志賀島に攻撃をしかけ、5月末までに島を占領した。
 6月6日、対馬か壱岐に駐留していた東路軍の部隊が、志賀島に到着した。先遣の第1陣と交替するためだ。
 その夜半、日本の武士団が海上から夜襲をかける。
 さらに、8日の朝から昼にかけて、日本軍は志賀島と能古島に海陸から猛攻を加えた。肥後勢の竹崎季長が出陣し、負傷するのはこのときである。この合戦で、日本側は蒙古の船3隻を拿捕した。
 6月9日、蒙古軍は長門を襲った。長門は朝鮮半島とゆかりの深い地である。合浦から直接、軍が投入された可能性もある。
 このときの艦船は、おそらく30艘から50艘ほどで、兵の数は1000人から1500人だったと思われる。周到な計画がたてられていた。
 対馬には、合浦からぞくぞくと蒙古軍の増援部隊が送られていた。
 6月12日、15日、19日の早朝、志賀島の蒙古軍は、博多湾南岸の長浜で石築地を築いて待ち構える日本軍に攻撃をしかけた。日本側はこれをよくしのいだ。
 もっとも恐ろしいのは蒙古の馬だった。「高さ6尺(約1.8メートル)、幅1丈(約3メートル)の石築地を、重量武装の騎兵を乗せた馬は飛び越えられない」
 多々良川、那珂川、樋井川の干潟には、蒙古軍の侵入を防ぐため乱杭柵が打たれていた。
 蒙古軍の攻撃で、日本側は多くの戦死者をだし、大将の少弐宗資(西方奉行、少弐経資の弟)は捕虜になり、元に連行されたか、殺されたかした。
 石築地も一部破られ、干潟からの侵入もあったろうという。
 しかし、蒙古軍はそのまま太宰府に進軍せず、いったん志賀島に引きあげている。
 蒙古軍が優勢ななか、6月29日から7月2日にかけて、日本側は壱岐に一大反撃をこころみる。
 攻撃に加わったのは肥前や薩摩の御家人だった。松浦郡(現佐賀県)の呼子ないし名護屋(現唐津市)から出て、外洋を航行した。
 日本側の攻撃を受けて、蒙古軍は退散したようにみえた。
 ところが、ここに思いもかけなかったできごとが発生する。
 大量の船団をしたがえた江南軍が出現したのである。
 後詰めの江南軍は、先発の東路軍に遅れることひと月半、6月18日に舟山(中国浙江省)を出発、済州島をへて、6月末には五島列島の宇久島ないし小値賀(おぢか)島に到着していた。
 7月はじめには平戸島近辺にやってくる。
 伊万里湾の鷹島に移動したのは7月半ばで、鷹島には土城が築かれた。7月27日には、志賀島の東路軍本営から、連絡用の軍船が鷹島にやってくる。
 武器や火薬を補充するためでもあった。
 この年は閏年である。7月が2度ある。そして閏7月1日に、猛烈な台風が九州北部を襲う。
 しかし、この台風で蒙古軍が壊滅したわけではない。
 閏7月5日には志賀島、同7日には鷹島で合戦がくり広げられている。
 江南軍を指揮していた将軍は逃げだし、蒙古軍は総崩れとなった。
「志賀島にいた東路軍は、母国である高麗めざして撤退、鷹島の江南軍も高麗をめざして立ち去った」
 著者によれば、鷹島で捕虜になった蒙古軍兵士の数は3000人ほどだろうという。かれらはほとんど殺されることなく、奴僕にされたり、捕虜にされたりして、御家人に預けられた。
『高麗史節要』によると、帰還できなかったのは、江南軍でおよそ10万人、高麗軍が主力の東路軍でおよそ7000人だったという。
 嵐や台風はあったが、それは「神風」ではなかった。武士たちは、用意周到に準備を重ね、命がけで戦って、勝利を収めたのである。
「あとがき」に著者は、こう書いている。

〈みえてきたもの。神話・伝説、すなわち「神風」である。当時、神風を信じる人もいたし、信じない人もいた。神風を徹底的に利用する人々もいた。公家たちは政治的に、神官らは宗教的に。神風の利用は鎌倉時代だけではなく、近代にいたるまで続いた。日本の政治にも思想にも歴史にも、影響を与え続けてきた。もしかすれば日本の為政者には、いまでも神風を信じる人たちがいるのではないか〉

 しかし、どうやら鎌倉の武士たちは、神風頼みではなかったようである。

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