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田能村竹田展 [雑記]

 先週金曜日(7月24日)、つれあいと東京の出光美術館で開かれていた田能村竹田(たのむら・ちくでん)展に行ってきました。
 田能村竹田(1777[安永6]—1835[天保6])は、豊後国(現大分県)竹田村(現竹田市)の出身で、江戸時代後期の文人画家(南画家)です。
 長年、見たいと思っていた竹田に会えたのは、ひとしおの感激で、ふだんは買わない図録まで買ってしまいました。
 家に帰り、図録を広げみました。
 何かもの足りません。
 そこで、あらためて思ったこと。それは、竹田のよさは図録ではわからないということでした。
 竹田の絵は、梅の枝や花、家屋の様子、人や馬をとっても、じつにこまかく描かれています。今回はガラス越しでしか見られなかったものの、それでも、それをじっと見つめていると、まるで自分が絵のなかに吸い込まれていくような気がしてきます。もっと間近で見てみたいと思ったものです。
 今回、展覧会で並べられた54点の絵のひとつひとつが味わいぶかいのですが、全部紹介するわけにもいきません。そこで、たとえば晩年の天保5年(1834)ごろに描かれた「春堤夜月図」のコピーを掲げておくことにしましょう。
 竹田の画風がどんなものか、わかっていただけると思います。
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 絵は春の月夜、堤の岸に立てられた書屋で、もの思いにふける王陽明を描いたものです。あるじのそばでは童子がうたたねをしており、庭では犬が月に向かって一声吠えています。
 その落款には、王陽明の詩が書かれ、その隣に漢文で、訓読すれば「右陽明先生の句、私淑の餘、敬んで其の意を写いて、洗心大塩君の清鑑に贈り奉る」との一文がつづられています。
 あっと驚きました。
 絵そのものはいかにものんびりした光景にみえます。俗世間から離れ、川のほとりで、静かに思索をめぐらす哲学者、王陽明の姿は、竹田にとって理想の生き方を描いたものだったにちがいありません。
 しかし、この絵は、竹田が、友人で陽明学者の大塩平八郎に贈ったものなのです。大塩平八郎といえば、「乱」を思い浮かべます。
 大塩平八郎が幕府に抗議して大坂で蜂起し、敗れるのは、竹田が絵を贈ってから3年後、天保8年(1837)春のことでした。
 絵では儒者もまた眠りかけているようにみえます。しかし、その脇におかれた、たった1本の灯火が、よく見ると、どこか緊張感をかもしだしているようにも感じられます。
 さらによく見ると、これは明代の浙江省をイメージしたようにみえて、実際に山道をたどった先の河口に描かれているのは、まさに大坂ではないかとさえ、思えてくるのが不思議です。
 これはもちろん、ぼくの勝手な見方であって、竹田が描こうとしたのは、あくまでも山水のなかにあって、政治を超越した──見下したといってもいいのですが──文人の姿だったといえるでしょう。
それでも大塩は、居ても立ってもいられず、拙速な蜂起の道を選びました。
 展覧会には山水のほかに、竹田がとらえた日常の事物をとらえた竹田のデッサンも展示されていました。
 たとえば、これはクワイと柿でしょうか。文政3年(1820)に描かれた「果蔬草虫図鑑」の一部です。つまり、果物や野菜、草や虫をとらえた図鑑というわけですね。
 竹田の筆にかかると、野菜や果物も格調が高くなってきます。
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 ところで、ぼくが最初に田能村竹田の名前を知ったのは、大西巨人の『神聖喜劇』を読んだときでした。もう35年近く前のことです。
 小説は、戦争中、主人公の二等兵、東堂太郎が対馬要塞に教育召集され、そこで上官の理不尽な言動に反発しながら、みずからの正義を貫いていく、軍隊批判の痛快な物語でした。
 物語のなかで、主人公は持参した書物の1冊『田能村竹田全集』の文言に、ひとつひとつ励まされます。田能村竹田は、おそらく著者、大西巨人にとっても、自身の独立不羈の精神を支える、ひとつの源流ととらえられていたのにちがいありません。
 竹田の実物を見ることができたのは、幸せでした。それは、この暑い夏をやりすごす、清涼なひとときとなりました。


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