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辺見庸『1★9★3★7』を読む(2) [本]

 しばらく故郷に帰っていました。両親の面倒をみるつもりが、両親に面倒をみてもらい、いつまでたっても不甲斐ない息子は不甲斐ないままです。
 久しぶりに、先祖の墓をおとずれました。広島の原爆で亡くなった、伯父(父の兄)の墓にも線香を手向けました。
 伯父は母と結婚する予定でしたから、もし戦死しなければ、皮肉にも、ぼくは生まれなかったことになります。伯父の墓は、戦没者墓地の一角にあります。周辺の墓碑をみると、ずいぶん多くの人が日支事変(日中戦争)で戦死していたことに気づきます。
 父もまた徴集されましたが、秋田で終戦を迎えました。ですから、中国での戦争は経験していません。ぼくも兵隊として中国に行っていた人から話を聞いたことはありません。
 伯父の墓のまわりに、これだけ中国での戦死者の墓が並んでいるのをみると、すぐ近所にも中国帰りの人が大勢いたはずです。でも、かれらは黙して語りませんでした。
 1937年、日本人は中国との戦争で、いったい何をしていたのでしょう。
 いなかでは、本を読む時間がありませんでした。
 いま自宅に戻ってきて、ふたたびこの本を読みはじめています。
 といっても、最近は頭も弱ってきているので、きわめて散漫な読書です。
 歴史はあれよあれよというまに動き、人はいまも昔もその流れに巻きこまれています。
 盧溝橋事件が発生したのは1937年7月7日のことです。
 それをきっかけとして、日中間で全面戦争が勃発し、日本軍は12月に国民党の首都、南京を占領するにいたります。
 そのころ、日本の世相はむしろ戦争でわきたっていました。マスコミも戦争をあおりたてています。日本の各地では、さまざまなイベントやスポーツ大会が開かれ、百貨店や劇場もにぎやかでした。
 ですから、この時代はけっして「暗い谷間」の時代ではありません。日本全体が「暗い谷間」にはいるのは、日々の食糧が不足し、米軍の空襲がはじまる太平洋戦争末期になってからだといってよいでしょう。
 著者は「反骨の文化人」として知られる金子光晴までが、1937年に戦争を賛美する詩を書いていたことを知って、ショックを受けたといいます。
 永井荷風の日記『断腸亭日乗』にも、いたってのんきな日々がつづられています。
 時間を読むのはとてもむずかしいことなのです。
 金子光晴や永井荷風までが、あのとき時間に流されてしまっているのですから。
 堀田善衛の『時間』は、戦後に発表された小説ですが、1937年11月から翌年10月までの時間がつづられています。その場所は日本軍占領下の南京。主人公は奇跡的に生き残ったひとりの中国知識人です。
 日本軍は12月10日に南京への総攻撃を開始。13日に南京は陥落しました。
『時間』は国民党政権の首都、南京占領に向けていきりたつ日本軍を、中国人の立場から見つめたフィクションです。そこには日本側が目をつぶろうとしていた戦争のもうひとつの実相(もうひとつの時間)がとらえられていました。
 同じ時間でも、東京と南京では、まるで別の時間が流れていたかのようです。しかし、それが深いところで、つながっていたことは言うまでもありません。
 中国では「殺・掠・姦」が日本軍の代名詞でした。そのイメージを決定づけたのが、南京のできごとでした。
 規律ただしい日本人が、むやみやたらに人を殺したり、金品を掠奪したり、女性を強姦したりするはずがない、と人は思うかもしれません。
 もちろん、軍隊でも建前上、そんな行為は禁じられています。しかし、中国大陸に侵攻した日本軍は、そうした行為を黙認され、多くの兵がそうした行為を平気で、というより勇猛果敢におこなっていたのです。
 著者は、その事実を、さまざまな小説や記録、文書をとおして、あばいていきます。
 たとえば、小説家の富士正晴は、実体験をもとに、中国では帝国軍が「神兵」でも何でもなく、「強盗で人殺しで火つけで強姦ばかりして」いたことを証言しています。
 1937年に中国戦線に送られた武田泰淳は、南京大虐殺にはかかわりませんでしたが、中国各地で、ほかにも大小の虐殺事件があったことを認め、みずからかかわったできごとを「審判」や「汝の母を!」などの小説に書き残しています。
「審判」は徐州会戦(1938年)のころ、ある町はずれで、分隊長の気まぐれな命令により、大勢の日本軍の兵士が、ふたりの農民を背後から一斉射撃で殺す話です。それは小説にはちがいありませんが、いまでは実際に、泰淳自身が発砲した日本兵のひとりだったことがあきらかにされています。
 小説のなかで、主人公は「罰のない罪なら人間は平気で犯すものです」という告白をしています。しかし、そのとき、泰淳が罪を感じなかったはずはないのです。その罪をいだいたまま、泰淳は戦後を生きることになります。
「汝の母を!」は、さらにむごい小説です。密偵の容疑で逮捕された母と息子が、性交すれば助けてやるといわれて、日本軍兵士が見守るなか、性交を実演させられ、あげくの果て、放火犯として焼き殺されるという話です。
 ふたりを囲んでいた兵士のうち、「強姦好き」の上等兵が、母子を「ツオ・リ・マア」とののしります。
 ツオ・リ・マアとは、直訳すれば「汝の母を犯してやる」、たぶん「ちくしょう」「ばかやろう」といった意味合いの俗語です。
 無知な上等兵は、その罵詈(ばり)をあやまって用いていたのです。
 ほんとうは「ちくしょう」「ばかやろう」と言われなければならないのは大元帥陛下の皇軍の側でした。
 しかし、泰淳は小説のなかで、安易に日本軍を糾弾する道を選びません。
 それよりも、殺される母の内心の声を創造し、母の独白を記録します。
「すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」
 これは日本軍の悪を無化するために発されたことばではありません。
 泰淳は、そのことばによって、侮辱された母を、いわばキリストと一体化した聖母マリアのような存在へと昇華させようとしたのではないでしょうか。
 泰淳はみずからの罪を含む罪がどこかで赦され、みずからを含む人が救済されることを願わないではいられません。
 しかし、どのようなものであれ、いったんなされた悪が、赦されるわけはありません。それは徹底してあぶりだされねばなりませんでした。
 皇軍の非道ぶりは、はたして例外だったのでしょうか。日本の軍隊においては、天皇の命を受けた上官の絶対命令にしたがって、敵を抹殺することが求められていました。
 敵は、中心から周縁にまで、いくらでも広がっていく可能性をもっています。
 事実、南京で、皇軍は国民党軍にかぎらず、憎き「敵」、すなわち敗残兵や周囲の難民、おびただしい捕虜を、命令にしたがって、ところかまわず殺戮したのでした。あちこちで強姦事件も発生したでしょう。
 その暴虐を加速したのは、単に戦争では片づけられない、近代の日本人にしみついていた心的動因でした。つまり、朝鮮人や中国人、アジア人にたいする侮蔑意識です。
 近代の日本人は、西洋人にたいする劣等意識を、アジア人にたいする侮蔑意識で代償しようとしていたかのようにみえます。悲しいことに、その傾向は現在にいたるまで引き継がれています。
『1★9★3★7』は、単にすぎさった歴史をえがいた本ではありません。本書を読むと、1937年からいままで本質的にはちっとも変わっていない日本人の姿が、闇の奥から浮かびあがってくるような気がします。
 さらに先まで読んでみることにします。

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