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アムステルダムの時代(1)──ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(23) [商品世界論ノート]

 都市の時代から、国家の時代へ。ヨーロッパにおいて、近世から近代に向かう流れをそのように要約すれば、アムステルダムの時代は、その中間に位置している、とブローデルは書いています。さらにいえば、豊かな地中海に代わって、大西洋が重要性をもつようになるのが、この時代の特徴でした。
 オランダ連邦(ネーデルラント)には低く狭い国土しかなく、耕作地もわずかで、国土は頻繁に洪水に襲われていました。それでも、農地には小貴族と農業労働者、そして土地保有農民がいました。「利用できる空間がわずかしかなかったから、牧畜と農業とは生産性を狙わざるをえなかった」とブローデルは書いています。
 生産性の向上は、一種の農業革命をもたらします。オランダは穀物の半分を輸入に頼らなくてはならなかったため、農業は収入の期待できる栽培物──亜麻、麻、菜種、ホップ、たばこ、大青・アカネなどの染料植物──の生産に向かいました。こうして農業の商業化が進むと、農村が豊かになっていきます。農村の賃金は都市の賃金とさほど変わらなかったといいます。
 17世紀オランダの人口密度は、ヨーロッパのなかでは高かったようです。人口の半数が都市で暮らしていました。オランダ連邦は7つの州に地方分権化され、州の諸都市では個人の自由が広く認められていました。諸都市は連携し、網状の組織を形成しています。その都市の頂点に位置するのが、アムステルダムでした。
 12世紀と13世紀の大洪水によって、砂州が崩れ、ゾイデル海が出現したことにより、バルト海の船乗りは海を通って、それまで小さな村だったアムステルダムに寄港するようになります。
 そして、アムステルダムには次第に多くの船が集まるようになります。それはリューベック、ヴェネツィア、イングランド、スコットランド、トスカーナ、ラグーザ、ボルドーなどからの船です。
 こうして、アムステルダムは次第に「全世界の総合倉庫」のようになっていきます。しかし、アムステルダムは単独で栄えたわけではありません。その周辺のレイデン(ライデン)、ハールレム、デルフト、ロッテルダム、ハーグなどの諸都市に支えられて発展したのだ、とブローデルは述べています。
 1500年から1650年にかけ、オランダの人口は100万人から200万人へと倍増しました。そのなかには多くの移民が含まれており、かれらは都市のプロレタリアート層を形成していきます。カトリックとプロテスタントという宗派の対立はありましたが、オランダでは次第に宗教の寛容が根を下ろしていきます。
 オランダは避難港だった、とブローデルは書いています。だれでも、みずからの宗教を奉じながら生きていくことができました。それに、ここには何らかの仕事があって、飢え死にすることはありませんでした。貧乏人たちにも、干拓地の改良事業が残されていたのです。
 毛織物や絹織物、皮革加工、精糖などの産業、近郊の海軍造船所の仕事を担っているのは、多くの親方職人と労働者でした。さらに1685年にフランスでナント勅令が廃止されると、オランダにはフランスのプロテスタントの一群が到来して、オランダの発展に寄与します。
 イベリア半島からはユダヤ人避難民がやってきました。かれらは大量の資本を所有していました。ユダヤ人は1688年にオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)にしたがってイングランドに移るまで、アムステルダムで金融面の大きな役割を担いつづけることになります。
 アンヴェルス(アントウェルペン)出身者の存在も無視できません。アンヴェルスは、1585年8月にスペイン軍によって占領され、多くの市民が北のアムステルダムに逃れてきました。
 ブローデルは「1650年ごろ、アムステルダム人口の3分の1は外国出身者か、その子孫だったのではなかろうか」と述べています。
 オランダはヨーロッパのエジプト、すなわちライン川とムーズ川のたまものといったのじゃディドロです。しかし、ブローデルはオランダが海のたまものだったことを強調します。
 オランダはまず漁業の国でした。ニシンやタラなどの魚、そして捕鯨。クジラの捕獲は、主に石鹸や照明用の油をとるのが目的でした。オランダの最大のビジネスはニシン漁です。ニシンは船上で塩漬けされ、樽につめられ、オランダだけではなくイングランドにも届けられました。
 オランダの強みは、他のヨーロッパ諸国全体に匹敵する船舶を所有していたことだ、とブローデルは指摘しています。わずかな乗組員により低コストで操船できる大型平底船(フリュート船)も開発されていました。この船は人件費が安くついたうえに、たくさんの商品を積むことができたので、長距離航海にはもってこいでした。
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[大型の平底船。本書より]
 オランダの造船所が、低コストで丈夫な船をつくることができたのは、バルト海経由で船の材料がはいってくるという立地条件のよさに加えて、造船技術が近代的だったからだ、とブローデルは指摘します。
 多くの船をもつオランダには、ヨーロッパ各地から食うに困った労働者が集まってきて、乗組員に応募したといいます。
 しかし、オランダ連邦ははたして国家だったのでしょうか。連邦はそれぞれが主権を主張する7つの州から成り立っており、しかもその州は独立性の強い小さな都市共和国にわかれていました。中央に国家評議会と三部会はあったものの、重要な決定をおこなうのは国というより州でした。
 そのためオランダの政治は緊張と危機の連続で、政権交代が相次ぎます。しかし、オランダが偉大なのは、政治的には揺れ動きながらも、17世紀から18世紀にかけ、世界の中心としての地位を保ちつづけたことでした。
 ネーデルラントでは、権勢の中心がオラニエ公であろうとホラント州であろうと、いずれにせよ寡頭政治が保たれてきた、とブローデルは書いています。オランダの政治を動かしていたのは、有産市民階級より一段上の執政官階級でした。2000人ほどの執政官がいたとされます。かれらは高慢ではなく、慎み深く、寛容で、あけっぴろげでした。
 とはいえ、17世紀も半ばをすぎると、アムステルダムでもだんだん格差が広がり、上流階級はフランスの影響を強く受けるようになります。絵画の世界でもレンブラントの死(1669年)を境に、オランダ絵画は衰えていきます。逆にレンブラントの時代が、オランダの全盛期だったのかもしれません。
 オランダでは資本や相続財産には課税されず、税は間接税、すなわち物品税が中心だったといいます。とりわけワインやビール、穀物、小麦粉、バター、石炭、塩、たばこ、煉瓦、大理石などへの税はかなり重く、税の体系は金持ちより貧乏人に不利にできていました。そして、度重なる戦争が、公債の大量発行を招いていました。
 オランダの黄金期は1680年代前後だ、とブローデルも認めています。1618年から48年までの三十年戦争で、オランダは国内に戦争がはいりこまないよう努力していました。1645年にオランダ連邦艦隊はバルト海に乗り出して、デンマークとスウェーデンの戦争を収めます。1668年にはイングランド、スウェーデンと三国同盟を結び、ルイ14世の脅威から逃れています。こうしてオランダがしばらくのあいだ、大国の地位を保つことができた背景には、巧妙な外交政策があったのです。
 オランダが常に防衛しようとしてきたのは、全体としての商業利益でした。もうけこそが、この国の羅針盤でした。通商は自由であって、商人への規制はなされませんでした。国の利益よりも、しばしば商業の利益が優先されています。
 塩や魚を積んだネーデルラントの船は、バルト海において、15世紀ごろからハンザ同盟諸都市と競争していました。16世紀半ばになると、アムステルダムはアンヴェルスを抑えて、ヨーロッパ随一の小麦集散港となり、やがて「ヨーロッパの穀倉」と呼ばれるようになっていきます。1560年にはバルト海での重量輸送の7割をネーデルラントが担うようになります。アムステルダムには穀物と船舶材料が流れこんでいました。
 またネーデルラントの船舶は、1550年ごろには、ポルトガルやスペインとのルートを確立していました。アムステルダムからセビーリャには(新大陸に輸送される)小麦やライ麦、船舶用品、工業製品が送られ、逆にセビーリャからは、塩や油、羊毛、ワイン、そしてとりわけ銀がアムステルダムにはいってくるようになっていました。アムステルダム取引所はこのころ設立されています。
 ネーデルラントの反乱(1572-1609)が起こっても、オランダとスペインの交易関係は変わりませんでした。アムステルダムは塩漬け食品用の塩(それはフランス産でもよかったのですが)を必要としていましたし、スペイン・ポルトガルは決定的に小麦が足りなかったのです。
 戦争と経済は別々に進行していました。ジェノヴァの銀行家は、スペインとの取引から徐々に手を引きます。そこに北の商人がはいりこみました。かれらは金銭を貸すのでなく、商品を前貸しして、アメリカから船団が戻ってきたときにその代金を回収するという方式をつくりだしました。
「セビーリャではスペインの商人たちはしだいに北方人の手先となり、その使い走りや名義人になっていた」と、ブローデルは書いています。
 以上の流れを、ブローデルは次のようにまとめています。

〈要するに、オランダが初期に十分な飛躍を遂げたのは、北の極──バルト海およびフランドル・ドイツ・フランスの産業からなる極──と南の極──アメリカ大陸に向かって広く開かれたセビーリャの極──とのあいだでオランダの船舶・商人が連絡にあたったことに由来しているのである。〉

 つまり、「オランダの盛運は、バルト海とスペインとをもとにして築かれた」ということになります。オランダにはスペインの銀が流入していました。そして、皮肉なことに、スペイン軍がネーデルラント南部を破壊し、1585年にアンヴェルスを占拠することによって、アムステルダムはますますヨーロッパ・プロテスタントが結集する場所となっていったのでした。
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[アムステルダムのダム広場と市庁舎。17世紀]
 オランダの商業圏は、ヨーロッパ中部からポーランド、スカンディナヴィア諸国、ロシアへと徐々に広がり、地中海が穀物不足におちいる1590年代からはジブラルタル海峡を越えて、イタリア半島へ、そして最後にイスタンブルへと拡大します。こうしてオランダはヨーロッパ経済圏の中心となっていったのです。
 オランダの登場により、ヨーロッパ経済の重心は、南から北へと移っていきます。しかし、オランダの繁栄を考察するには、世界全体を視野にいれる必要があります。とりわけ、アメリカ大陸とアジアです。アメリカ大陸では進出の時期が遅すぎたため、オランダは、あまり成功を収めませんでした。
「しかし、極東の舞台には、つまり胡椒・香辛料・麻薬・真珠・絹の王国には、ネーデルラント人は大挙して華々しく入りこんでゆき、その主要な分け前をわがものにすることができた」と、ブローデルは書いています。つまり、オランダが世界のヘゲモニーを握ることができたのは、最終的にアジアを掌握したからなのです。
 アジアに向かう最初は偵察航海でした。1582年にJ・H・ファン・リンスホーテン、次に1592年にコルネリウス・ハウトマンがアジアの旅にでかけます。インドを避けたのは、ポルトガル人の存在を意識したからだといわれます。コルネリウス・ハウトマンがジャワ島最西端のバンタムをめざしたのは、東南アジア諸島の香辛料を念頭においたからでした。
 1602年にはオランダ東インド会社(VOC)が設立されます。これによってすべてが変わります。アジアでの事業は、すべて東インド会社が担うことになったからです。
 それ以前の1600年に、オランダ船リーフデ号が、日本に漂着しています。その航海士をしていたイングランド人、ウィリアム・アダムズは徳川家康と会見し、幕府の外交顧問を務めることになります。
 1601年からオランダ人は広州での取引をくわだて、ポルトガル人の拠点マカオを回避する道を探りました。1603年にはセイロン島に行き着き、1604年にはマラッカを攻撃するものの失敗に終わります。しかし、1605年にはモルッカ諸島で、ポルトガルの要塞を奪いとりました。
 スペインはマニラに基地を置き、モルッカ諸島を押さえていました。オランダはスペインやポルトガルに対抗すると同時に活発なアジア商人と戦い、通商の十字路にあたる東南アジア諸島の制圧をめざしていくことになります。
 東インド会社の初期の総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、アジアでの植民地建設を提案しますが、当初は却下されます。しかし、1619年にバタヴィア(現ジャカルタ)が建設されると、ここが東南アジアにおける権力の中心となり、オランダはバタヴィアを拠点として、商取引の膨大なネットを築いていきます。
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[17世紀のバタヴィア。ウィキペディアより]
 日本とはすでに1616年ごろから通商関係がはじまっていました。そして、1639年からはポルトガルを排除して、オランダが対日貿易を独占することになります。
 1641年にはポルトガルの拠点マラッカを攻略。1667年にはスマトラ島のアチェ王国、1669年にはマカッサル(スラウェシ島南部)、1682年にはバンタムを支配下におきます。
 問題はインドでした。オランダが当時インド最大の貿易港スラト(北西部グジャラート州)を押さえるのは1621年。ベンガル州への進出は1650年以降となります。セイロンに拠点をつくったのは、肉桂(ニッキ、シナモン)を確保するためでした。
 1650年代から60年代にかけ、オランダの植民地は最大限に広がりました。その植民地はポルトガルの拠点を奪うことによってつくられました。しかし、早くもイギリスとの競争が激化していました。
「もしオランダ人がポルトガル植民地を打倒しなかったとしたら、イギリス人がここぞとばかりその役目を果たしたことであろう」と、ブローデルは記しています。
 遠隔地アジアとの交易は、ヨーロッパに巨額の富をもたらしました。その交易で「開けごま」の役割をはたしたのが貴金属です。ヨーロッパ人はアメリカ大陸から手に入れた銀をアジアに投入します。しかし、それだけでは足らず、オランダ人は現地調達に頼り、中国の金や日本の銀や銅、それにアカプルコからマニラに運ばれる銀をも活用しました。
 オランダはアジアで域内通商もおこなっています。つまり、ある国である商品を買って、別の国にその商品を売って、をくり返す交易です。オランダがペルシアの絹を扱わなかったのは、ベンガルや中国の絹を手にいれることができたからです。そして、利用できるところでは、商業手形交換システムをフルに活用していました。
 しかし、アジアでオランダが成功したのは、何といっても、メース、ナツメグ、丁字(グローブ)、桂皮(シナモン)など、香辛料を独占できたからです。オランダはさらに、スラト、コロマンデル海岸、ベンガル地方でインドの織物を大量に買い入れ、これをスマトラで、胡椒や金、樟脳と交換しました。シャム(現タイ)では、布地や香辛料、胡椒、珊瑚を売って、スズを手に入れました。チモールでは白檀を買い入れています。鹿皮や象さえ取引していました。新たに開発したベンガル地方からは、絹や米、硝石を得ています。イラワジ川下流にあったペグー王国には、胡椒や香辛料、白檀、布地を売って、漆や金、銀、貴石を手に入れています。
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[ベンガルの東インド会社商館。本書より]
 こんなふうにオランダの扱った商品リストを列挙していたら切りがありません。アムステルダムには喜望峰でできた小麦や、セイロンの宝貝、アフリカの黒人奴隷も到着していました。オランダはすでに世界通商国家になっていたといってよいでしょう。
 ブローデルは「黄金時代のオランダはすでに全世界的な規模で生きていたのであり、いわば世界を相手に鞘取り売買を行ったり、恒久的に世界を開発したりすることに意を注いでいた」と記しています。
 長くなりました。アムステルダムの項、もう1回つづきます。

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