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再生産表式──ハーヴェイ『〈資本論〉入門(第2巻、第3巻)』を読む(9) [本]

 マルクスは社会全体での資本の流れをとらえるために、二大部門からなる経済を想定する。
 部門Ⅰは生産財を、部門Ⅱは消費財を生産する。部門Ⅰの労働者と資本家は、部門Ⅱから消費財を購入する。部門Ⅱの資本家は、生産財を部門Ⅰから購入する。
 マルクスはその表式を、下の算術的事例であらわしている。
 ここでcは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値をあらわす。剰余価値率(m/v)と価値構成(c/v)は、両部門で等しいとみなされている。

 部門Ⅰ 4000c+1000v+1000m=6000 生産手段
 部門Ⅱ 2000c+ 500v+ 500m=3000 消費手段

 生産手段の総需要は、ⅠとⅡのcを合わせて、6000(4000c+2000c)。同じく消費財の総需要は、3000(1000v+1000m+500v+500m)となる。
 需要と供給は一致する。
 これはあくまでも作業モデルであって、現実に経済がこのような構成で成り立っているわけではない。
 この表式は単純再生産をモデル化したものである。
 経済全体はこの表式をくり返すことになる。
 この表式からは、労働者の消費が商品の価値の実現に寄与していることが読み取れる。さらには、資本の再生産の持続性が定式化されていることにも注目すべきだろう。これは労働者がますます窮乏化し、資本主義が破綻に向かうというモデルとは明らかに異なっている。
 マルクスはなぜ、このような再生産表式をつくったのだろうか。
 この表式では、資本が貨幣から生産へ、商品へ、また貨幣へと絶え間なく姿を変えながら、社会的に循環している様子が示されている。
 生産の場面では、資本家は労働力商品の買い手として、労働者は労働力商品の売り手として登場する。しかし、商品の価値が実現される流通の場面では、「労働者階級は諸商品の買い手として現われ、資本家は労働者への商品の売り手として現われる」。
 この表式で扱われているのは、社会的総資本の再生産である。しかも、ここでは商品の流れよりも、貨幣の流れを通しての分析に重点が置かれている。貨幣のもつ攪乱的要素は捨象されている。
 マルクスがここで参考にしたのはフランソワ・ケネーが『経済表』でえがいた経済循環モデルである。経済表では経済の循環が、体内の血液の流れにたとえられていた。体内に異常が生じれば、障害を起こし、最悪の場合は人に死をもたらすこともあるのと同様に、経済も貨幣の流れが以上をきたすと、混乱におちいると、とらえられている。
 血液の流れと資本の流れをたとえるのは妥当ではないかもしれない。それでも資本の流れが長期にわたって攪乱されつづければ、資本は死ぬというテーゼは、少なくとも個別資本に関してはあてはまりそうである。
 いずれにせよ、マルクスはケネーの『経済表』を参考にしながら、社会的総資本の循環モデルをつくろうとした。それは個別資本の再生産モデルとは、おのずから異なっている。
 マルクスはこう述べている。

〈年生産物は、社会的生産物のうち資本を補填する部分、すなわち社会的再生産を含んでおり、また消費元本に入って労働者と資本家によって消費される部分を含んでいる。すなわち生産的消費と個人消費の両方を含んでいる。したがって、資本家階級と労働者階級との再生産(つまり維持)を含んでおり、したがってまた総生産過程の資本主義的性格の再生産をも含んでいる。〉

 ここでは総生産過程が、外的要因による変動をこうむることなく(実際にはさまざまな困難があるのだが)、順調に再生産されると仮定されている。
 この再生産過程は貨幣を媒介することで成り立っている。その出発点としては、部門Ⅰでも部門Ⅱでも、前貸し資本がなくてはならない。
 そして、資本が1回転するうちに、労働者は賃金を、資本家は収入を完全に消費すると想定されている。
 部門Ⅰの労働者は部門Ⅱの消費財を、部門Ⅱの労働者はみずからのつくりだす部門Ⅱの消費財を消費することによって、資本家が生産を継続するのに必要な貨幣の一部を資本家に提供する。つまり、この表式においては、「労働者階級は買い手として現われ、資本家階級は売り手として現われる」。
 部門Ⅱでつくりだされる消費財は、一部は労働者階級の消費に、一部は資本家階級の消費に回される。資本家階級の消費財には、必需品ばかりでなく奢侈品も含まれる。
 ところが、この再生産過程が変動をきたすとどうなるだろう。
 一般に恐慌時においては、奢侈品の消費も必需品の消費も減少する。しかし好況期には、労働者階級は完全雇用状態にあり、賃金は上昇し、ちょっとした奢侈品も購入することができる。だが、資本主義システムにおいては、好況は恐慌の前触れだ、とマルクスは断言する。
 恐慌にはさまざまなパターンがありうる。恐慌の実態をつかむには、実際の恐慌を分析してみるほかないだろう。
 それはともかく、マルクスがこの再生産表式で明らかにしているのは、部門Ⅰと部門Ⅱのあいだで、貨幣がどう流れていくかということである。
 その流れについては、あらためて述べる必要もないだろう。要するに、部門Ⅰと部門Ⅱは、貨幣の流れによって循環していることがわかればよい。
 その貨幣循環の流れのなかには、不変資本と可変資本、さらには剰余価値の循環が含まれている。
 産出物は同一部門に投入される場合もある。たとえば、石炭が鉄鋼に用いられ、鉄鋼が機械の生産に用いられ、機械が石炭の生産に用いられるというように。
 これは部門Ⅰにおける不変資本の流れである。同様に部門Ⅱにおいても、ぶどうや米、小麦などが生産財になっていくという不変資本の流れもあるだろう。
 これらは同一部門内の不変資本の流れである。
 そして、いうまでもなく、不変資本は別の部門にも流れていく。部門Ⅰでつくられた原料や機械は、消費財をつくる部門Ⅱでも使用されるのである。
 資本家の立場からみると、不変資本はいかなる価値も生産するわけではない。その価値は、最終生産物に移転されるだけである。とはいえ、社会全体でみると、部門Ⅰは部門Ⅱのための不変資本を生産しているということができる。
 いっぽう可変資本は「資本家の手中では資本として機能し、賃労働者の手中では収入として機能する」。そして、労働者は自己の賃金を使って、さまざまな商品を購入する。
 マルクスのいうように、労働者は自己の財産として労働力を所有するが、資本をもっているわけではない。それは、労働者がみずからつくりだした商品の所有者でないことをみても明らかだ。
 市場において資本家と労働者は買い手としても売り手としてもあらわれる。しかし、その関係には非対称性が存在する。資本家は豊かで、労働者は貧しいというだけではない。資本家が一種の権力であるのにたいし、労働者は資本によって支配されている。
 労働者は可変資本を賃金として受け取るものの、その可変資本をふたたび資本として取得するのは資本家である。さらにいえば、資本家はみずから投資した以上の剰余価値を収入として受け取り、これにたいし労働者はみずからつくりだした価値のごく一部しか収入として受け取ることができない。
 だが、資本家はなぜその剰余価値を有効需要へと転じなければならないのだろうか。
 ハーヴェイはこう書いている。

〈たとえば自らの資本を消費財の生産に投じる場合、部門Ⅱの資本家は、部門Ⅰで生産している資本家のための有効需要の重要な一部をつくり出しており、そうすることによって、部門Ⅰの資本家が生産した商品の中にすでに凝固されている剰余価値を実現する。両部門の中で組織されている生産的消費は、生産手段への有効需要を提供する上で、個人的消費よりもはるかに重要である。〉

 資本家の消費は、個人的消費にだけではなく、生産的消費に回されることによって、有効需要をかたちづくり、それによって経済は回っていくのである。
 さらにマルクスは単純再生産において、固定資本がどのような役割を果たすのかについても論じている。
 指摘されているのは、固定資本と流動資本の不均衡である。固定資本は与えられた回転期間のなかでは、ばらばらにしか更新されない。更新時期がくるまでは、貨幣形態のまま保持される。それは蓄蔵貨幣をとるために不均衡をもたらし、過剰生産をもたらすだろう、とマルクスはいう。
 ここで強調されているのは、再生産過程には、一時的な攪乱、すなわち恐慌がつきものだということである。
 だが、固定資本のための貨幣蓄蔵による部門不均衡と生産過剰を避ける道として、資本は外国市場に逃げ場を見いだすことができる。ハーヴェイはこれを「空間的回避」と名づけている。つまり資本は「地理的拡張、帝国主義、世界市場のグローバリゼーション」によって、危機を回避しようとするのである。
 だが、「外国市場の拡大と世界市場の形成とは、恐慌に対する一時的な緩和剤となりうるが、最終的には、それらは単に資本の諸矛盾をより広い地理的規模に移しかえるだけなのである」とハーヴェイは断言する。
 再生産にはさまざまな困難がともなう。単純再生産においても、そうである。そして、そのことを念頭に置きながら、マルクスは次の段階へと進む。
 最後に取りあげられるのは拡大再生産表式である。
 一般に資本家は、剰余価値をすべて消尽するのではなく、資本の蓄積をめざそうとして、剰余価値の一部を投資に回す。
 それが資本家全体にいえるとすれば、社会的総資本についても拡大再生産がなされるとみなければならない。
 拡大再生産には、さまざまな困難がある。とりわけ固定資本の形成にからむ貨幣蓄蔵は、生産過剰と商品の滞貨をもたらし、システム全体を行き詰まらせてしまう原因となるだろう。
 信用制度が貨幣資本の回転をスムーズにし、貨幣資本による不均衡を解決する手段となりうることは事実である。しかし、信用の膨張は同時に不正常な景気をもたらし、経済の不安定化と恐慌につながる恐れもある。
 とはいえ、拡大再生産が成り立つためには、じゅうぶんな貨幣が存在しなくてはならず、蓄積の拡大にともなって貨幣供給も増大していかなければならない。そのために「階級の共同資本」として機能する信用制度が大きな役割をはたすのである。
 ハーヴェイ自身は、こういう言い方をしている。

〈この信用制度が、恐慌の源泉であるどころか、貨幣流通に対する諸制限を取り除くための主たるメカニズムになりうるだけでなく、より一般的には恐慌を回避し恐慌を解決するための主たるメカニズムにもなりうるのであり、たとえ、「この機構全体の人為的性格」が「その正常な進行を攪乱する機会」を増大させるとしても、そうだということである。〉

 要するに信用制度は諸刃の剣として経済システムにはたらくことになる。それは恐慌をもたらす力ではあるが、同時に恐慌から脱出する力ともなるのである。
 生産が拡大するには、貨幣と追加生産手段が必要になる。しかし、もうひとつ必要なものがある。それは追加労働力である。
 そのようなさまざまな困難性を示しながら(『資本論』の議論はもっと複雑きわまるのだが)、マルクスは拡大再生産の表式を考案する。
 そのモデルとなる表式を以下に示しておこう。
 単純再生産と同じく、部門Ⅰは生産財、部門Ⅱは消費財を生産している。両部門は1年ごとに拡大する。
 前にも述べたように、cは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値をあらわしている。

 1年目 Ⅰ 4000c+1000v+1000m=6000
     Ⅱ 1500c+ 750v+ 750m=3000
 2年目 Ⅰ 4400c+1100v+1100m=6600
     Ⅱ 1600c+ 800v+ 800m=3200
 3年目 Ⅰ 4840c+1210v+1210m=7260
     Ⅱ 1760c+ 880v+ 880m=3520

 単純再生産のときとは、数字の内訳がことなっていることに注意しよう。価値構成(c/v)もⅠとⅡではことなる。
 またⅠの資本家は剰余価値の半分を個人的消費のために、残り半分を拡大用の再投資に用いている。これにたいし、Ⅱの資本家は再投資に回すのは剰余価値の5分の1だけである。
 拡大再生産の過程が表式どおり順調に推移すれば、経済全体は1年目の9000から2年目の9800、3年目の10780へと拡大していくだろう。
 これは毎年9%近い成長である。
 ここにはあらゆる経済的困難の可能性を排除したうえでの、調和的な資本蓄積の可能性が示されている。言い換えれば、一定の関係を満たすことができれば、調和的な資本蓄積は永久に可能だということになる。
 マルクスは、この表式でいったい何をあらわそうとしたのだろうか。
 実際には、この表式は非現実的なただのモデルである。
 ハーヴェイはこういう。

〈では、この表式は何を明らかにしているのだろうか? まったく単純に、資本の連続した流れ──貨幣資本、商品資本、生産資本という3つの資本循環──を通じた資本蓄積の再生産は、多くの条件を満たさなければ進まない厄介な事業であり、したがってそれは恐慌傾向を有しており、あるタイプの恐慌(固定資本の回転によるもの、あるいはより一般的には不比例性によるもの)を解決することは、他のどこかにより深刻な問題となる恐慌(最も顕著なのは金融システムにおける恐慌)を生み出すということだ。……ある恐慌傾向は、それをたらい回しにすることによってしか解決されない。〉

 信用制度、つまり銀行と中央銀行の機能、さらには国家の金融財政政策は、資本が蓄積をつづけるうえで、決定的な役割を担う。しかし、それでも何かの事情で恐慌は発生しうる、というのがマルクスの判断だった。
 マルクスの再生産表式はマクロ経済の成長モデルの先駆けとなった。しかし、マクロ経済学には恐慌の可能性が含まれていない。
 いっぽうマルクスはこの再生産表式を社会主義の均衡成長モデルに活用しようとしていた可能性もある。
 現実の社会主義は、経済計画において、生産財(部門Ⅰ)の生産を優先し、そのあとで消費財(部門Ⅱ)の生産を発展させればよいという発展モデルを採用した。しかし、それはみごとに失敗したというべきだろう。
 ハーヴェイは本書を締めくくるにあたって、マルクスの『経済学批判要綱』からの一節を引用している。

〈さまざまな先鋭な矛盾、恐慌、痙攣は、社会の生産的発展が社会の従来の生産諸関係とますます両立しえなくなっていることを表現している。資本の暴力的破壊──資本にとって外的な諸関係によるものではなくて、資本の自己維持の一条件としての破壊──は、資本に対して、舞台から退場してより高度な社会的生産に席を譲れとの忠告を与えている最も鮮烈な形態である。〉

 マルクスの叫びは、現在でも鳴り響いている。
 しかし、その答えはまだ見つかっていないというべきだろう。

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