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南シナ海問題──ビル・ヘイトン『南シナ海』 をめぐって(1) [時事]

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 南シナ海でいま何が起きているのか。
 伝えられるところでは、現在、中国は南シナ海を自国の海域と称し、占領した島々に次々と軍事基地を築いているという。中国はここでいったい何をしようとしているのだろうか。
 中国の強引な動きにたいして、南シナ海と接する周辺諸国──フィリピン、ベトナム、マレーシア、台湾、さらにはインドネシア──は警戒を強めている。それに加えて米国も中国に警告を発し、監視行動を実施している。
 南シナ海が緊張しているといわれても、どうも実感がわかない。そこで、たまたま図書館で見つけた本のページをめくってみた。
 すると、南シナ海が重要な地域であることがわかってくる。世界の天然ガスの半分、原油の3分の1はマラッカ海峡を経由し、南シナ海を通って、東の台湾、韓国、中国、日本へと運ばれているという。いっぽう、このルートは北東アジアでつくられる製品が西に流れていくルートでもある。
 自然は変わらないが、人は変わりつづける。だから、そこに歴史が生まれるのだろう。南シナ海もそんな場所だ。
 はるか古代から南シナ海では、海上ネットワークが築かれていた。それを築いたのは、いわば海の遊牧民とも呼ぶべき人びとである。
 そこにインド文明の影響を受けた東南アジアの王国がかぶさってくる。1世紀から5世紀にかけて、このあたりでは、インドとのあいだで、ビャクダンやカルダモン、樟脳、クローヴ、宝石、貴金属などが取引されていた。
 そのころ、現在のベトナム南部からカンボジアにかけて、扶南という王国が栄えていた。この国が栄えたのは、中国、インド、アラビア、ヨーロッパを結ぶ海のルートの一角を抑えていたからだ。
 中国人はアラビアの乳香や没薬(もつやく)を求めていた。ガラスや陶器、金属製品、象牙、サイの角、稀少鉱物も、南シナ海を渡った。
 中国の船が南シナ海にあらわれるのは10世紀になってからで、ごく遅かったという。どんと構えていれば、向こうから商品はやってくるというのが、中国が大国たるゆえんだったかもしれない。
 扶南のあと、ベトナムで栄えたのがチャンパである。海賊の興した国だ。東南アジアのほかの国々と同様、ヒンドゥー教や仏教の影響を強く受けていた。
 スマトラではシュリーヴィジャヤ王国が誕生する。この国はマラッカ海峡とスンダ海峡を押さえ、海上交易によって栄えた。中国人はこのあたりでとれるナマコを珍重していた。
 1998年、スマトラ島西部、ブリトゥン島の近辺で、826年(唐代中期)に沈んだアラブの船が発見された。その船には5万点以上の中国製陶器が積みこまれていた。それによって、そのころ、中国とペルシャ、アラビアとの交易が盛んだったことが実証された。こうした交易には、アラブ人やペルシャ人だけではなく、インド人やアルメニア人もかかわっていただろう。
 著者はこう書いている。

〈ペルシャからは真珠、じゅうたん、[コバルトブルーなどの]鉱物、アラビアからは乳香、ミルラ、ナツメヤシ、インドからは宝石やガラス製品、東南アジアからはスパイスや香料。こういう商品が、中国の陶器や絹や金属器と交換されていたのである。〉

 10世紀になると、中国では唐が滅び、福建省あたりには閩(びん)が興った。海洋貿易の国である。
 閩は970年に宋に吸収される。最初、海禁政策をとっていた宋は、11世紀後半から政策を転じ、海外貿易に乗りだした。
 しかし、その宋も女真族によって北部の支配権を奪われ、杭州に都を移すものの、1279年に滅亡し、モンゴル族が元朝を立てた。
 しかし、10世紀から13世紀にかけては、南シナ海交易の黄金時代だった、と著者は指摘する。
 その後、知られるのは明の鄭和(1371-1433)である。鄭和はインド洋を経て、東アフリカにいたるまで大航海をおこなった。だが、中国の海洋進出は、その後、急速にしぼんでしまう。
 だから、中国はけっして古くから南シナ海を支配していたわけではない、と著者はいう。
 南シナ海の周辺を支配していたのは、むしろ「インドの影響を受けた『マンダラ国家』群だった」。
 1世紀から4世紀にかけては扶南、6世紀から15世紀にかけてはベトナムのチャンパ、同じく7世紀から12世紀にかけてはスマトラのシュリーヴィジャヤ、9世紀前半から1460年代まではメコン下流のアンコール、そして12世紀から16世紀まではジャワのマジャパヒト、15世紀前半から16世紀前半まではマレー半島のマラッカという具合である。
 これらの国々は中国とインド、さらにはペルシャ、アラビアを結ぶことによって栄えた。
 したがって、南シナ海は古代から中国の海域だったという中国の主張は、事大主義の感があって、根拠に乏しいと言わざるをえない。

 それでは、近世以降はどうだったのだろう。近世以降、南シナ海は中国の海域になったのだろうか。
 そうではない。近世以降、南シナ海は西洋諸国の制するところとなったといってもよいからである。
 ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドに到着したのは1498年のことだ。その後、ポルトガルはゴアに拠点を置き、マラッカ海峡ルートを切り開き、香料諸島(現インドネシア)へと接近した。そしてついに1511年にマラッカを占領し、以来130年にわたって、この地を支配した。
 いっぽうマゼランがスペイン艦隊を率いて、太平洋を越えフィリピン諸島に到着するのは1521年のことだ。
 香料のありかをみつけたポルトガル人は、さらに絹と陶器の故郷を求めて、船を進める。そして、ついに東のはて、日本にまで到達するのだ。
 そのころ、中国の明朝は、福建省での貿易を解禁していた。それによって、それまで南シナ海を制していた東南アジアの商船に代わって、中国のジャンク船が海に乗りだした。東南アジア各地には、何万人もの福建人が進出し、チャイナタウンをつくって、交易に従事するようになった。
 1571年、スペインはマニラに拠点を築き、メキシコとのルートを確立し、いわゆるアカプルコ交易を開始する。マニラにメキシコの銀を運んで、中国の金、絹、陶磁器を手に入れるのだ。
 そこに割り込むのがオランダである。1600年にオランダ東インド会社(VOC)が設立されていた。
 17世紀はじめ、オランダは国際貿易を制する中心国へと成長する。東インド会社の本社はアムステルダムで、バタヴィア(現ジャカルタ)には、東の拠点が置かれた。そして、1641年にオランダはマラッカを占拠し、アジアでの貿易体制を固める。
 そのころ、中国では明が倒れ、清の時代となっていた。
 17世紀末、清は民間貿易を解禁し、それによって、多くの中国人商人が南シナ海方面へと進出していった。
 中国のいう「中沙諸島」黄岩島(台湾では民主礁)は、英語名ではスカボロ—礁と呼ばれる。1748年に英国船スカボロ—号がここで座礁したことにちなんで名づけられた。ここは現在、中国が実効支配している。
 1821年にパラセル諸島(西沙諸島)、スプラトリー諸島(南沙諸島)を海図にはじめて示したのは、イギリス東インド会社に雇われた測量学者ジェームズ・ホーロバラだった。
 このころインドに拠点を置くイギリスは、中国との貿易をますます拡大していた。いわゆる三角貿易がはじまっていた。イギリスは中国から茶を輸入し、インドに綿織物を輸出し、そしてインドからは中国にアヘンが輸出される。
 マラッカ海峡を制するために、イギリスは1819年にシンガポールを獲得し、ここに一大拠点を築いた。
 その後の動きをいちいち説明していたのでは切りがない。
 いくつかポイントだけを示しておこう。
 1840年と1860年には、二度のアヘン戦争が発生している。
 フランスは19世紀半ばから後半にかけて、現在のベトナム、カンボジア、ラオスを植民地にした。
 ドイツもまた、19世紀末に中国の青島を手に入れた。
 このころの動きをみると、南シナ海は中国固有の海域どころか、西洋列強が相乱れて行き来する海域になっていたといえるだろう。
 そこに乱入していったのが日本である。日本の実業家、西澤吉次は1907年から数年にわたって、プラタス島(東沙諸島の中心島、現在は台湾が実効支配)で、肥料にするグアノ(鳥糞石)の採掘をおこなった。
 危機感を覚えた清朝は、1909年にパラセル諸島(西沙諸島)に遠征し、ここを広東省の一部として、地図に書き加えた。
 1930年にはフランスの軍艦がスプラトリー諸島(南沙諸島)沖に到着し、その領有を宣言した。当時の中華民国政府はフランスに抗議するが、スプラトリー諸島をパラセル諸島ととりちがえるのが実情だったという。
 しかし、いずれにしても中国政府はこのころから地図の製作に力をいれはじめ、1935年に、南シナ海にある132の島が中国の領土だとぶちあげた。132の島は、パラセル諸島とスプラトリー諸島に属している。
 地図を製作したとき、中国は現地を実際に調査したわけではなかった。イギリスの地図に載っている島に中国名をつけて、それを中国領と宣言したという。
 しかし、その後、日中戦争、太平洋戦争がはじまると、南シナ海はこんどは日本の湖へと変わっていく。しかし、日本の勢力圏にはいったのは、さほど長い期間ではなかった。
 戦争が終わったあと、連合国のあいだでは、南シナ海の島々をどうするかという議論が巻き起こった。意見はなかなかまとまらなかった。
 そんなとき、1946年7月に、フィリピンがアメリカから独立する。フィリピン政府はさっそくスプラトリー諸島はフィリピンの勢力圏にあるとの声明を出した。
 これにたいし、フランス軍は掃海艇をスプラトリー諸島に派遣した。1946年10月には中国海軍がパラセル諸島とスプラトリー諸島にやってくる。西沙、東沙、南沙の名称はこのときに決められたのだという。
 1947年2月、中華民国はあらたな行政区域図を発表した。そこには大陸から巨大な舌のように伸びたU字型のラインが描かれていた。
 やがて中華民国の指導部は台湾へと脱出し、大陸では中華人民共和国が発足する。しかし、U字型ラインは共産政権のもとでも継承された。
 南シナ海における領土獲得競争がはじまるのは、むしろそれ以降だった、と著者は記している。
 南シナ海の歴史は一筋縄ではいかない。
 思わず長くなってしまった。
 つづきはまた。

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