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民衆と道徳 [くらしの日本史]

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 安丸良夫(1934-2016)の名前を知ったのは、奥武則氏(毎日新聞客員編集委員、法政大学教授)による追悼記事を目にしたときだ。安丸の最初の著書『日本の近代化と民衆思想』は1974年に刊行されたが、それを読んだときの「衝撃は大きかった」という。
 追悼記事はこうつづく。

〈後に「通俗道徳」論と呼ばれる民衆史の発想に目からウロコが落ちる思いだった。勤勉・倹約・孝行・正直などの民衆的な諸道徳(通俗道徳)は、封建的・前近代的とされてきた。安丸さんはそれらにまったく別の光を当てた。
 通俗道徳は民衆の自己規律・自己鍛錬の様式なのであり、こうした形態を通じて発揮された膨大な人間的エネルギーが、日本社会の近代化の基底部を支えたというのだ。
 当時、脚光を浴びていた近代化論はもとより、マルクス主義歴史観が主流の戦後歴史学もとらえることができなかったリアルな民衆がここにいた。〉

 こういう歴史学者がいたのを知らなかったのは、いかにもうかつだった。
 民衆史といわれて、ぼくが頭に浮かべるのは色川大吉くらいだが、その内容にしたってよく覚えているわけではない。
 奥氏のいうように、安丸良夫が読者に衝撃を与えたのは、そこにこれまでとらえられていたのとはちがう、生き生きとした民衆の姿がえがかれていたからである。
 民衆というと、封建制のもとに抑圧された民衆、無知蒙昧な民衆を思い浮かべるかもしれない。しかし、それは上から目線による歪められた像だ。
 実際の民衆とは「勤勉・倹約・孝行・正直など」の道徳によって、自らを律し、人生を切り開いている人びとのことである。
 おそらく安丸の視点がユニークだったのは、封建的とされがちな道徳をもちあげたからではない。そうではなくて、道徳をみずからとりいれることで、忍従しているのではない自立的で活発な民衆の像をえがいたからである。
 ところで、いちおうつけたりでいうと、ぼく自身は民衆ということばに、何となくむずがゆいものを感じてしまう。ほんとうはひとくくりにした民衆などというものはないのかもしれない。いろいろな人がいる。だから、民衆といわれても、それはどんな人びとのことかと問うてみる必要があると思うのだ。
 ここで安丸が示している民衆の像として、ぼくが思い浮かべるのは、たとえば金光教の信者でもあった祖母のことであり、墓参りで出会った篤実な老人の姿などである。
 だから、安丸の示す民衆像に、どこかなつかしさを感じるのかもしれない。しかし、それが民衆のすべてかというと、それだけではないような気もする。怒れる民衆も、消沈する民衆も、泣き叫ぶ民衆もいるだろう。それに民衆を民衆としてとらえるときには、どうしても自分の視線がはいってしまう。民衆といっても一筋縄ではいかないのである。
 それはともかくとして、いまは「日本の近代化と民衆思想」という論文をざっと眺めてみることにしよう。
 はじめにさまざまな徳目が挙げられている。
 勤勉、倹約、謙譲、孝行、忍従、正直、献身、敬虔、早起き、粗食。こうした徳目は江戸時代のころから、民衆のあいだで共有されていた。日本人のなかでは、それらはごくあたりまえの生活規範として、いまでも強い命脈を保っている。
 さまざまな困難(たとえば貧乏)に出会ったとき、人びとはこのような規範にもとづいて行動し、それによって問題を解決しようとする。こうした規範が「民衆のきびしい自己形成・自己鍛錬」をもたらし、「その過程で噴出した厖大な社会的人間的エネルギーが日本近代化の原動力(生産力の人間的基礎)となった」と、安丸は書いている。
 しかし、こうした「通俗道徳」は、古代や中世から存在したものではない。

〈そうした諸思想は、研究史の現段階においては、元禄・享保期に三都[京都・江戸・大坂]とその周辺にはじまり、近世後期にほぼ全国的な規模で展開し、明治20年代以降に最底辺の民衆までまきこんだ、といえよう。〉

 この指摘は鋭い。
 民衆道徳が思想として誕生したのは、元禄・享保期になってからである。
 大きく時代が変わろうとしていた。貨幣経済にもとづく商品世界が展開し、その渦に巻きこまれた旧家が急速に没落するというような現象が生じていたのだ。
 石門心学[石田梅岩の心学]などが成立するのは、そうした近世の危機にこたえるためだった、と安丸は理解している。
 心学はもともと町人階級の思想だった。しかし、とりわけ天明期以後は、地方の農村にまで広がっていく。
 さらに、文化・文政期以降にはさまざまな宗教運動が登場する。
 また大原幽学や大蔵永常、二宮尊徳は、地方の農村に出向いて、村の復興を指導するようになる。
 通俗道徳のテーゼはひとつといってもよい。すなわち勤勉、倹約、和合に努めなければ、人は病気、貧乏、不和に見舞われるというのだ。
 実際に家が没落する背景には、貢租が高かったり、事業に失敗したり、高利貸にカネを返せなくて土地が小作地になったりといった、政治的・社会的要因があったと思われる。
 しかし、政治や社会が悪いと嘆いても、日々の困難を解決できるわけではない。みずから困難を招かないようにするために、おのれが心機を鍛え、奢侈や遊芸、親不孝、不和、さらには吝嗇を避けるよう努めなければならない。
 さらに、貧困から立ちなおるには、どうすればよいのか。
「現在の貧困から逃れるためには、なによりも、現在の生活習慣を変革してあらたな禁欲的生活規律を樹立しなければならない、というのが尊徳の一貫した立場だった」と安丸は記している。
 そのためには、博奕や芝居狂言の禁止をはじめとして、若者宿や娘宿のような旧来の村の風習を廃止するべきである。
 安丸はこう書いている。

〈商品経済の発展は人々に伝統的な諸関係を打破して上昇する機会をあたえるとともに、没落の「自由」をもあたえるものだった。だから人々は、自分で禁欲して勤労にはげまねばならぬのである……没落するまいとすれば、伝統的生活習慣の変革──あらたな禁欲的な生活規律の樹立へとむかわざるをえなかった。〉

 このあたりの論述は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を彷彿させる。
 日本では、プロテスタンティズムの代わりに、通俗道徳がいわば「勤勉革命(industrious revolution)」を生み、それが近代化への原動力になったのだ。
 それを担ったのが、石門心学であり、二宮尊徳や大原幽学らの訓導であり、さらには新宗教であって、町や村の民衆はみずからそうした心の哲学をとりいれることで、その生活態度を律していったという。
「禁欲的な生活規律の確立」を唱えた心の哲学は、人びとに自己鍛錬・自己変革を求める宗教のように作用したといえるかもしれない。それが近代の激動に堪える心性を生みだしていったことはまちがいない。
 ただし、安丸は精神主義のあやうさを指摘することも忘れていない。
 こう書いている。

〈こうした民衆思想に共通する強烈な精神主義は、強烈な自己鍛錬にむけて人々を動機づけたが、そのためにかえってすべての困難が、自己変革─自己鍛錬によって解決しうるかのような幻想をうみだした。この幻想によって、客観的世界(自然や社会)が主要な探求対象とならなくなり、国家や支配階級の術策を見ぬくことがきわめて困難になった。〉

 それでも、日本の近代化の背景に、変動期を生き抜こうとする民衆の強い精神があったことを否定すべきではないだろう。そして、その民衆は精神だけでは足りないこと、世界を切り開くには知が必要であること、さらには時に抵抗こそが変革をもたらすことを、やがて自覚するようになったはずである。

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dendenmushi

@「道歌」というものを集めてみたことがあります。それはブログの中にも入れていますが、この項を読んで相通ずるものを感じました。
by dendenmushi (2016-06-04 09:31) 

だいだらぼっち

dendenmushiさん、いつもお教えいただき、ありがとうございます。道歌もまた、人びとが日常を律するために口に出す歌なのでしょうね。いつもdendenmushiさんのブログで、日本全国を旅しているような気にさせてもらっています。
by だいだらぼっち (2016-06-08 06:12) 

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