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経済活動の自由──猪木武徳『自由の思想史』を読む(4) [本]

 人は不確実なものに賭けるという性向をどこかにもっている、と著者はいう。
 毎日、安定した生活を送り、決められた食事を与えられていても、それが閉じこめられた生活であるなら、やはり何か冒険してみたくなるのではないか。
 それが精神の自由、行動の自由へとつながることはいうまでもない。
 欲求と自由は強く結びついている。
 若者は何かに賭けることによって未来を切り開いていくが、先の短い老人にだって、未来はある。そして、未来は自由の領域と結びついているのだ。
 著者はこの「賭ける」ということを、経済活動に即して考察している。
 宝くじや競馬、株式投資なども、合法的な賭けにちがいない。
 厳密にいうと、投資と投機はことなる。
 投機は購入価格と売却価格との差益(キャピタル・ゲイン)を獲得することをめざす。
 これにたいし、投資はあくまでも資本の追加形成を意味する。そのかぎりにおいて、株式投資は、投資と名づけられていても、実態は競馬と同じ投機に近い。
 とはいえ、投機も投資も、一種の賭けなのである。
 投資について、著者はこう記す。

〈経済成長の重要なエンジンとなる投資は、将来の[商品の]売れ行きを予想しながら、新技術を体化した新しい機械設備を購入することによってなされる。〉

 投機があくまでも「不労所得」(そして、それはたいてい失敗するのだが)なのにたいして、投資は生産拡大の可能性に結びついている。
 だが、いずれにしても個々人に「賭けること」の自由(それは成功することも失敗することもある)が認められているかどうかが、自由社会の要件のひとつであることはまちがいない。
 いま個々人が「賭ける」と書いた。しかし、現在は株式会社の時代である。
 株式会社においては、株主と経営者がいちおう分離されている。株主はより多くの利益を期待して、企業に出資し、その経営者に経営を託している。もし会社が破綻すれば、株主の所有する株券は紙切れになってしまう。しかし、その場合でも、株主の責任は、あくまでも有限である。
 市場競争にもとづく企業活動にはリスクと不確実性がともなう。企業はそのリスクと不確実性に果敢に挑むからこそ利潤を得ることができるという考え方を著者も支持しているようにみえる。
 だが、そうした企業の「自由」が、人びとの「自由」を圧迫し、阻害していないかは、とうぜん問われなければならない問題である。企業に自由があるように、労働者にも自由がある。著者はそのことにあまり触れていないが、企業が利潤拡大をめざすあまりに、不当に労働コストを圧縮したり、無理な労働を強いたりする傾向はいまも根強い。自由は一方的な自由(他者の不自由と抑圧)であってはならないだろう。
 とはいえ、歴史をふり返ってみると、徐々に自由が広がってきたことは、否定できない事実だ、と著者はいう。
 貧しい人はまだまだ多いにせよ、人びとは昔にくらべ、それなりの財産をもつようになった。
 一般的にいって、恒産は自由と独立の基盤になる。
 しかし、無産と清貧を唱えて、魂の解放を求めた、アッシジの聖フランチェスコのような人物もいる、と著者はいう。
 ここで、著者が聖フランチェスコをもちだすのは、ほんらい自由と独立は緊張感をともなう生き方であって、それが失われると、たちまち腐敗していくということを示したかったからにちがいない。
 現代社会の特徴のひとつは余暇の増大だ、と著者は指摘する。20世紀初頭の週平均労働時間は55時間。それが現在は35時間に減っている。その分、余暇が増大した。余暇は自由の増大につながる。
 労働の形態も変わった。
 著者はこう書いている。

〈ブルーカラー、ホワイトカラーを問わず、定形的・繰り返し的な仕事はますます電子機器を組み込んだ機械に置き換えられている。人間に残された仕事は、単純作業と頭脳労働とに両極分解するのではなく、むしろ「仕事の複雑化と高度化」が進行してきた。専門化が進む一方で、ひとつのことだけに習熟していては全体を把握できないため、関連する技術と知識を学び、全体像を理解する力量が求められるようになったのだ。〉

 労働がなくなったわけではない。しかし、定形的な労働が機械に置き換えられることによって、労働はより複雑な全体への対応を求められるようになった。そのことによって、かつての機械的な労働にかわって、労働の自由度が増すようになった。しかも、労働時間は短縮されて、自由時間が増えてきたというのである。
 だが、自由時間の増加は、はたして自由の増加を意味するのだろうか。このことに著者は大いに疑問をもっているように思われる。余った時間を吸収したのはレジャーや旅行、ゲームなどの余暇産業である。人びとは懸命に遊びに取り組み、「遊びが辛い労働になりかねないような、自由と強制の倒錯が生じてきた」と、著者は論じている。
 著者の関係するアカデミズムの世界でも、大学の研究があまりに専門化し、学者同士でもたがいに意思疎通ができなくなっていることに、著者は警鐘を鳴らしている。
 大学が実利につながる専門教育の場になろうとしていることも問題だという。かつての人文諸部門、すなわちリベラル・アーツ(自由学芸)は軽視され、切り捨てられようとしている。それに代わって、登場したのがクイズ形式の「雑学」である。
 学問の専門化と雑学化は、学ぶ者にけっして自由をもたらしているわけではない。
 いま自由は危機を迎えている。
 著者は、とりわけリベラル・アーツ(自由学芸)が抹殺されようとしている傾向に、危機の兆候を感じている。
 自由な学芸は、何か実用に役立つわけではない。しかし、それは知ることの自由に根ざす活動なのだ。

〈完全な独裁国家では、いかなる実益にも奉仕しないような自由な学芸の存在は許されない。現代日本において、高等教育が実益本位に流れるような傾向は決して人間の精神世界にとって(そして社会にとっても)健全な動きとは言えない。むしろ極めて不吉な兆候と言えよう。〉

 何らかの自由を獲得すれば、その先にはそれを取りこみ、管理しようとする全体的な意志がはたらく。自由とはそうした惰性をたえず乗り越えようとする人間の独立自尊を賭けた闘いなのだ、と著者は論じているようにみえる。
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