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関曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』を読む(1) [本]

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 本書は一見、気楽に読める歴史茶話といったところだが、なかなかどうして、これまでの著者のうんちくを傾けた、気迫に満ちた語りおろしになっている。
 はじめに著者は「私にとっての思想史の課題は、自称現実主義者のインテリ、あるいは実感主義者であるはずの庶民を呪縛しているさまざまな思想を暴き出すことだ」と述べている。
 その思い込みをはがしていって、「究極の無思想」にたどりつくこと、そのためには歴史をスキャンダルとして掘り起こしてみることが必要だという。
 そこで、まず問いなおされるのがヨーロッパ史だ。
 著者が疑問に思うのは、西洋は自由とデモクラシーを旗印にしているのに、なぜかくも世界にたいして暴力的に振る舞ってきたのかということである。
 西洋の二面性は、ローマ帝国に端を発するという。
 ローマではギリシャ文化を取り入れた貴族層が、「奴隷狩り戦争と奴隷制経済」によって、巨大な帝国を築きあげた。それをみても、ギリシャではなく、ローマ帝国こそが、西洋文明の源流なのだという。
 そして、近代ヨーロッパのブルジョアジーも、このローマ帝国の二面性を引き継ぎながら、世界を支配してきた。現在のアメリカもローマ帝国の末裔だと著者はみなしている。
 ローマ帝国の特徴は、ギリシャ文化だけではなく、キリスト教も取りこんだことだという。
 おもしろいことに、著者は「イエスは実はインドで修行した仏教の僧だったのではないか」という説を紹介している。イエスには出家者のおもむきがあって、どうみてもユダヤの伝統からはみだしているというのだ。
 しかし、ローマ帝国はなぜキリスト教を取りこんで、国教にまでしたのだろうか。それはキリスト教を大衆支配の道具にするためだった、と著者はいう。
 ローマ帝国以降、ヨーロッパの世界制覇には、世界をキリスト教化するという使命がつけ加わることになる。
 おもしろいことに、著者は工場の原型を修道院に求めている。そこではビールやワインが作られたばかりか、香辛料を用いた料理方法も継承されていたという。
 その修道院を担うのは、修道士だった。修道士はみずからを神の前に立つ、徹底的に無力な個人として意識した。ここから個人主義が生じたという解釈もおもしろい。
 神の前で個は無力である。個の運命は神にゆだねられている。だから、個は神の使命を果たすのだということになる。これは、考えてみれば、おそろしい逆説である。
 日本でいう個人主義とはかなりちがう。日本の個人主義は、せいぜいのところ家族や世間にとらわれず、自分は自分と考えて行動するといったところだろう(でも、いつも家族や世間を意識しているのだが)。
 それはともかくとして、西洋で生まれた官僚制もまた、カトリック教会を原型としている、と著者はいう。
 そのキリスト教が分裂したことがヨーロッパに混乱と不安をもたらした。
 宗教戦争のなかからは、世俗的な国家を求める動きが起こった。いっぽうで確実なものを求める近代合理主義が生まれる。さらに、宗教的な不安のなかから、禁欲によって富を蓄積しようという資本主義精神も登場する。
 著者はそんなふうに理解している。
 だが、宗教分裂の時代に、まさにアメリカ大陸が発見されたのである。
 アメリカ大陸からは膨大な金銀がもたらされ、それによってヨーロッパに資本主義が成立する。
「近代ヨーロッパの資本主義は、アメリカ大陸の略奪なしにありえなかった」と著者は記す。
 ヨーロッパという観念が生まれたのは、まさにアメリカ大陸との対比においてであった。
 そして、経済の発展こそが、ヨーロッパに「進歩」という意識をもたらすことになった、と著者は論じている。
 近代にはいると、キリスト教を批判する啓蒙主義が生まれる。だが、啓蒙主義もキリスト教の裏返しとみられなくもない。
 ヨーロッパの思想や哲学は、いずれもキリスト教をベースにした父殺しの思索だといえるのかもしれない。
 しかし、それは元をたどれば、ギリシャ哲学とキリスト教をヨーロッパが抱えこんだがゆえの相克でもあった。
 ヘーゲル哲学とマルクス主義は、その鬼っ子であって、とりわけマルクス主義の救済思想は、社会に混乱と荒廃をもたらした、と著者はみているようである。
 それはともかくとして、その後もヨーロッパによる世界征服はつづいた。
「ヨーロッパ文明の特徴は、権力と覇権の飽くなき追求が真理や理想や普遍的正義の名の下に知的に正当化されてきたことにある」と、著者はいう。
 まだ少ししか読んでいないので、ここでは勝手な印象(誤解?)を語るほかないのだが、著者は西洋文明を普遍性とはみず、あくまでもその特殊性を強調しているようにみえる。
 それは西洋によっておおわれてきた世界文明が、資本主義文明も含め、現在大きな岐路に立っており、そのことをしっかり認識することが、何はともあれだいじなのだという視点につながっているのではないだろうか。
 ぼくの頭ではなかなかついていけない部分もあり、また多くの疑問もある。
 まだ第1章だ。粘り強くつづきを読んでみたい。

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