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関曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』を読む(2) [本]

 近代は革命とともにはじまる。17世紀にはイギリスでピューリタン革命が発生。18世紀にはアメリカ独立革命があり、そのあとフランス革命がつづいた。
 しかし、フランス革命は混乱のうちに終わり、ナポレオンの軍事独裁がはじまる。ドイツは英仏の圧力を感じるなか、19世紀にプロイセンにより国家として統一され、上からの近代化を達成する。
 そして、20世紀になるとロシア革命が発生する。しかし、マルクス・レーニン主義の革命神話は、「誇大妄想に支配されたソ連の国家体制」を生みだす。

 革命の時代は、ナショナリズムをも切り開いた。
 民族(nation)は、国家と密接に結びついている。
 19世紀は国家をつくらなければ、国際的に(とりわけイギリスの覇権に)のみこまれてしまう時代だった。
 そのため世界じゅうでナショナリズム、正確にいえば、「国家民族主義」が勃興した、と著者はいう。
 20世紀になると、ソ連は帝国主義、植民地主義に抑圧された民族の戦いを支援して、アメリカの世界支配に対抗しようとした。しかし、その経済が行き詰まると、内部で民族問題が噴出し、自壊を招くことになった。
 ソ連が消滅したあと、21世紀になって、アメリカも衰退と没落の時代にはいった、と著者はいう。エネルギー、通貨、軍事の面でも、アメリカの弱体化はいちじるしい。実態経済は衰弱するいっぽう、経済の金融化が進み、国内での格差と不平等も広がっている。
 かといって、アメリカに代わって、中国が世界の覇権を握るとは考えられない。アメリカはいま「負の覇権国」として、世界じゅうに混乱をまき散らす存在になってしまっているという。
 ヨーロッパもアメリカに追随するほかない状況に陥っている。EUも安定せず、大混乱状況にある。
 著者によれば、アメリカは歴史上、前例のない異常な国で、常にブームをつくりだしていかなければ生き残れない国だ。もともと根無し草なので、ブームが去れば、国全体がゴーストタウン化してしまうだろうという。
 著者は欧米中心の歴史は終わったとみている。
 ヘーゲルのとらえた「世界史」は、まさに欧米中心史観にほかならず、いまさらそんなものを信じるのはどうかしている。普遍世界史なるものはキリスト教の産物であって、あらゆる歴史はローカルなものである、と著者は断言する。
 世界全体を画一的な市場に変えてしまおうというアメリカのグローバリズムは完全に行き詰まっている。国際主義はもはや過去のものだ。人間はエスニックな存在で、人間がつくれるのは「人びとが言語・文化・歴史の記憶を共有するネーション・ステートが限度」だと著者はみている。
 ここからは、みずからの帰属する国家をよきものにしていこうという発想がみてとれる。「地域住民の合意に基づかない国家には正統性はない」。
 人民主権を確立していくこと。そして、国際法のもとでの平和を維持していくこと。そのことが問われている。

 著者は資本主義について、どうみているのだろう。
 資本主義は近代科学を取り入れることによって、これまで成功を勝ちとってきた。
 自然科学が生まれたのはギリシャ文明においてである。しかし、そこには自然にたいする敬虔な感情がともなっていた。ところが近代においては、物質的自然を征服し、テクノロジーによって地上の楽園をつくりだそうという考え方が生まれる。
 しかし、自然を資源として開発利用しようという発想は、もともと聖書に由来する。聖書では、神は人間に自然を支配する権利を与えたされている。
 西洋において、自然の征服をめざす現代の工業文明が生まれた背景には、人間による自然の支配を正当化するキリスト教文明の影響を考えないわけにはいかない、と著者はいう。
 そうした科学のあり方は、もはや受け入れられなくなっている。

 著者によると、資本主義は単なる経済システムではない。それはエトス(習性)によっても支えられている。
 だから、資本主義は人の生活や習慣、道徳をも変えるのである。
 マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、資本主義が発達した背景には、プロテスタンティズムにもとづく禁欲と勤勉があったと指摘している。
 それではなぜオランダやイギリス、ドイツだけではなく、日本でも資本主義が発達したのだろうか。著者は日本では、民衆道徳や学校教育も大きな役割を果たしたのではないかという。
 しかし、それよりもむしろ著者が強調するのは、統合失調症や躁鬱病などが発生するのが、近代以降だという点だ。
 近代においては、競争に勝ち抜き、自己を実現することが、いわば強迫観念になっている。そんな毎日に、人ははたしてどこまで堪えられるだろうか。
 資本主義には、精神病理を生みだす要素がある。
 ヨーロッパ文明には罪の意識がまとわりついている。
 人間は生まれながらにして、神にたいし返済不可能な負債を負っているという意識。それは禁欲的で自己滅却的な信仰によってしか消えない。
 それが資本主義のエトスになった、と著者は解釈する。したがって、資本主義は「罪の経済」だといってもよい。
 著者に言わせれば、成長至上主義は宗教のかたちをした神経症なのであって、日本人はこんなものにつきあう必要はない。
 もう西洋の時代は終わった。
 日本は神道、仏教の伝統に則した経済システムを作るべきだ、と著者はいう。
 貨幣を絶対的価値として崇拝し、その蓄積を追求するのも、ヨーロッパ文明の特徴だ。
 異常をまとめるとこうなる。
「資本主義の根本問題は、銀行金融と精神病理と科学知識の資本化、これに尽きる」。
 著者は日本や中国が資本主義化したのは、あくまでも外見だけで、ほんとうの意味で資本主義が成立したのは、罪の経済という精神をもつヨーロッパにおいてだけだ、と論じている。

 資本主義においては、貨幣フェティシズムにたいするブレーキがはずれてしまっている、と著者はいう。カネ、カネ、カネの世界になってしまっている。そして、21世紀の現実はグローバルな金融の支配がおこなわれていることだという。
 さらにいうと、資本主義には根本的な問題がある。資本主義は需要不足と生産過剰に常につきまとわれる。それは、資本が労働にたいして構造的に優越しているところから生じる問題だといってよい。
 ここで著者はクリフォード・ヒュー・ダグラスの提案を紹介している。
 ダグラスはベーシック・インカムの提案者として知られる。
 ベーシック・インカムとは、たとえば国民ひとりあたりに月10万円を国が無条件で支給するという政策だ。3人家族なら支給額は年間360万円。これだけあれば、従来の年金や生活保護費、失業保険などは必要ではなくなるだろう。
 この政策は現在の貧困問題や少子化問題、経済格差などを解決する方策になるだけではない。需要不足のため、経済がグローバル化し、国民経済が空洞化するといった事態も緩和されるにちがいない。
 これが導入されれば、国のかたちや経済のあり方もすっかり変わってくる。経済的デモクラシーがもたらされるだろう。
 ベーシック・インカムを実現する国家のことを、著者は「社会信用国家」と呼んでいる。そして、著者の構想によれば、日本においては、こうした国民の生活保障は「皇室直属の国家信用局による皇室券の発行のかたちで実現することが望ましい」という。
 皇室券というのは、全国どこでも使える商品券のようなものなのだろうか。
 それにしても、ぼくなどはやはり財源が気になる。
 財源など関係なしに、ともかく皇室券をじゃんじゃん出せばいいというものでもないだろう。ひとり月10万円だとすれば、年間で150兆円は必要になる。これをどうまかなうのか。消費増税ではとてもまかなえない。国債ならぬ無利子の皇債を発行するか。あるいは不要な人は返上してもらおうか。それとも寄付を募るか。
 ベーシック・インカムの構想はとてもおもしろい。国家も資本主義もガラガラポンだ。しかし、考えていると夜眠れなくなるから、要注意である。

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