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『人間の経済』へ──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(5) [思想・哲学]

 翻訳の仕事がはいり、ほかにも諸事情が重なったため、しばらくブログが更新できませんでした。
 それにしても、相変わらず、だらだらとつづく、じいさんのぱっとしないブログです。

   ※  ※  ※

 1947年にポランニーはコロンビア大学客員教授となり、アメリカに移り住む。だが、かつて共産党員だった妻のイロナは入国を認められず、そのためふたりはカナダのトロント郊外に住み、ポランニーはコロンビア大学のそばに小さなアパートを借りて、長時間かけて大学まで通ったという。
 コロンビア大学では、1947年から1953年まで、一般経済史を教えた。そのころアメリカの大学では新古典派経済学が主流になりつつあったが、ポランニーはマックス・ウェーバーに依拠しながら、経済社会学を教えた。
 非市場経済についての共同研究もはじまった。その成果は、1957年に『初期帝国における交易と市場』という共著にまとまり、ポランニーは経済人類学者としての名声を確立する。
 ポランニーはその後、『人間の経済』というテーマで、一般経済史をまとめようとして、原稿を書きためていた。だが、それは完成にいたらず、がんのため1964年に死去する。
 死後、1966年に『ダホメと奴隷貿易』、1977年に遺稿集『人間の経済』が出版された。日本でも翻訳されている(ただし、前者の邦題は『経済と文明』)。
 若森みどりはどちらかというと経済人類学より経済社会学の方向に沿って、ポランニーの晩年の業績をふり返ろうとしている。
 ここでは学術的な論議はさておいて、なるべく簡単にポランニーの考え方を追いかけたい。
 著者によれば、ウェーバーは、市場経済の制度的要件は、労働者にとって飢餓の脅威が存在することだと考えていたという。
 たしかにそのとおりだが、人間の社会は常に経済主義的に構成されていたわけではない、というのがポランニーの論点である。
 ポランニーは、初期、古代、近代の社会経済構造を比較しながら、それが互酬、再分配、交換の形態において成り立っていたと主張する。
 あらゆる時代において、経済は占有(所有)の移動と、場所の移動をともなうものだ。すなわち、労働によってものがつくられ、ものが運ばれ、そのものが誰かの所有するものとなる。
 互酬においては親族システムのもとで、集団間で財・貨幣・サービスが動く。これはいまも残っている贈答のやりとりを考えれば、多少なりともイメージがわくだろう。
 再分配においては、財・貨幣・サービスは、中心ないし中枢へと向かい、そこからふたたび周辺に分配されていく。
 これにたいし、交換においては、市場においてランダムな経済行為がくり広げられる。
 ポランニーは経済社会の形態を、この3つのパターンに分類した。
 そして、初期社会においては互酬が、古代社会においては再分配が、近代社会においては交換が主流になっていると論じた。
 その背景には、市場だけが人間の経済ではないという考え方がある。
 ポランニーは、人間の経済が、互酬から再分配、交換へと移行すると主張したわけではない。それはあくまでも3つの形態であって、逆転することもありうる。
 ポランニーがとりわけ着目したのが、アリストテレスの経済論である。ギリシアのアテネにおいては「初期の市場交易」が出現した。
 アリストテレスが問題としたのは、ポリスの規律と、市場的な慣習・思考様式とをいかに調和させるかということだった。
 ギリシアといえば、もっぱら奴隷制に焦点があてられがちだが、ポランニーは、民主政のポリスと市場の関係を深く探ろうとしている。
 そこで、遺著『人間の経済』第Ⅲ部で展開された、古代ギリシア経済論をざっと紹介することにしよう。
 最初にポランニーは、紀元前700年ごろに活躍したヘシオドスの著作を取りあげ、かれが歴史を黄金の時代、白金の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代に分類していることを紹介する。そして、いまは鉄の時代だとされる。
 鉄の時代においては、農業技術が進歩し、人間の労働が強化される。鉄製の農具ができると、豊穣な地以外でも、穀物が栽培されるようになり、耕作地の拡大とともに、人はいままで以上に働かなくてはならなくなった。
 孤独な飢えを避け、より多くの豊かさを求めて、人は競争に生き、勤勉を求められるようになる。かつての共同体の相互扶助には、すでに期待できなくなっていた。民衆は、飢餓の脅威を避けるために日々、はたらきつづけねばならず、政治に参加する余裕もなくなっていた。いっぽう、ポリスにおいては富者による富者のための政治がおこなわれていた。
 これにたいし、アリストテレスの時代においては、古代アテネが全盛期を迎えていた。著者によれば、ポランニーは「アテネ人にとって、良き生活とは公共生活に参加することを意味しており、経済は、この目的の手段となるように社会に埋め込まれていた」という。
 ポランニー自身はこう述べている。

〈アテネ人の精神にとっては、矛盾しているようにもみえるが、次の二つのことが必要だった。──一方では、食糧の分配がポリス自身によって行われなければならない、しかも他方では、官僚制が入ってくることは許されない。なぜなら民主主義とは、民衆による民衆の支配を意味したのであって、その代表や官僚による支配を意味するのではなかったからである。代議制も官僚制も、そのアンチテーゼとみなされていた。人民主権の考えに依拠するすべての近代思想の源であるかのルソーは、この原理に頑として執着した。だが、いったいどうしてこの国家による分配は、官僚制を抜きにして行われるのだろうか。アテネでは、食糧市場がその答えを与えるものとなったのである。〉

 ペリクレスの時代、アテネは直接民主政を選択した。つまり、すべての民衆が政治に参加したのである。もちろん、それに反対する貴族や金持ちもいた。だが、それを押し切って、短い期間ではあるが、直接民主政の時代が出現した。
 そこでは、食糧市場、貨幣、穀物交易が、民衆政府のもとに置かれていた。アテネ市民は公共生活への貢献にたいして、ポリスから支払われた貨幣によって、市場で食糧を買った。
 食糧の価格はポリスによって定められた公定価格である。穀物交易もまたポリスの管理下にある。海外交易に従事するのは居留区に住む外国人であり、アテネ市民ではなかった。市民が貨殖に走るのは禁じられていた。
 著者によれば、古代アテネの経済は「民主政を維持するために『交易・貨幣・市場』を巧みに組み合わせ、再分配の統合形態として経済過程を制度化した」ところに、その特徴があるという。
 ポランニーが、こうした古代経済の仕組みを紹介したのは、民主政のもと、社会に埋め込まれた経済がありうることを示したかったからにちがいない。それは現代の経済優先国家=社会にたいするひとつの反証でもあった。

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