SSブログ

佐野眞一『唐牛伝』をめぐって(2) [本]

 唐牛健太郎の大漂流がはじまるのは、TBSラジオが「ゆがんだ青春──全学連闘士のその後」という放送を流してからかもしれない。1963年2月26日のことである。
 番組は60年安保を闘った全学連が右翼の親玉、田中清玄から闘争資金をもらい、その闘士の何人かが、いまも田中に庇護されていると伝えていた。
 田中が全学連に闘争資金を渡したのは事実だった(だが、それは全体のごく一部にすぎない)。
 唐牛も全学連をやめたあと、62年5月から田中が社長をつとめる丸和産業という石油販売会社に勤めていた。
 この放送が終わったあと、全学連には世間から非難の声が浴びせられた。
 唐牛は、これにたいし、ひと言も弁解しなかった。むしろ、すべての非難をだまって引き受けたといってもよい。
 1963年7月、唐牛は東京高裁で1.16事件と4.26事件の控訴を棄却され、宇都宮刑務所に11月ごろまで服役する。
 その11月に、田中清玄は右翼団体、東声会組員に銃撃され重傷を負う事件が起きている。銃撃を指示したのは児玉誉士夫だったという。
 田中は唐牛を信頼していた。翌年9月、田中が西ドイツを旅行したとき、唐牛に同行を頼んだことをみても、その信頼の厚さがわかる。
 しかし、まもなく唐牛は田中のもとを離れる。
 全学連同志の篠原浩一郎に紹介され、太平洋ひとりぼっちのヨット横断で勇名を馳せた堀江謙一と組んで、「堀江マリン」というヨット会社を設立するのだ。65年2月のことである。
 その資金の一部は、田中の盟友で、山口組組長の田岡一雄が融通してくれた。
 だが、「堀江マリン」はすぐに立ちゆかなくなる。
 まだヨットでレジャーを楽しむ時代ではなかった。それに唐牛本人も海が好きだったものの、ヨットが操れるわけではない。事業としては、あまりにもお粗末だったのだろう。
 唐牛はそのほかにもさまざまな事業に手をだしている。
 たとえば江ノ島でバッティングセンターを開いている。これはもうかったが、友人の篠原がそのもうけを台湾の事業につぎこみ、けっきょく元の木阿弥となる。
 エビの養殖を考えたり、ツアーを企画したり、石油基地で消防隊をつくろうとしたりもした。まわりからみれば、それこそ山っ気のある人物とみえただろう。
 しかし、まともな企業に就職できない唐牛は、生きることに必死だったともいえる。全学連を離れたあとも、公安の目は常に光っていた。
 著者はこう書く。
「突き放した言い方をすれば、唐牛が輝いたのは60年安保闘争当時のわずか1年足らずのことで、後は呑んだくれの人生を送った、いや送らされた」
 68年には新橋駅前に「石狩」という居酒屋を開店し、みずから包丁を握った。だが、この一帯は、すでにニュー新橋ビルになることが決まっており、69年のビル着工を前に、立ち退きを求められるのは、最初から承知だった。
 著者は「唐牛がここに店を出したのは“立ち退き料”狙いだった可能性もある」と疑っている。その公算は強いだろう。
 そのころ唐牛は北海道でトド撃ちも経験している。テレビのドキュメンタリー企画だった。酒場での与太話がトントン拍子に実現する。
 唐牛がトド撃ちの名人に入門し、トドを撃ちにいくという展開になるはずが、みごとに失敗する。放映はされたものの、撮影中、ボートが流され、危うく一命をとりとめるというおまけまでついた。
 そのころ、最初の妻、和子との結婚生活はすでに破綻していた。
 そして、漂流はつづいた。
 唐牛は元全学連仲間の妻を奪うという挙に出る。それが、以後、生涯にわたって、唐牛に付き添うことになる真喜子夫人である。
 ふたりは何かを断ち切るように、69年4月から四国巡礼の旅に出た。
 四国巡礼のあと、鹿児島から与論島に渡った。
 沖縄はまだ日本に返還されておらず、当時、与論島は南の最果ての島だった。
 なぜ、唐牛がこの島に行ったのかはよくわからない。洞穴に住んでいたといわれるが、実際に住んでいたのは、倉庫を改造した長屋だった。妻は砂糖を袋詰めする仕事をし、本人は土木工事で日銭を稼いでいた。
 与論島には1年あまりしかいなかった。
 ちょうど、よど号ハイジャック事件がおこり、島にも公安関係者がやってくる。島をでたのは、島の人に迷惑をかけたくなかったからだという。
 それから唐牛は北海道に渡り、70年7月から厚岸で漁師の見習いをはじめる。
 33歳になっていた。
 さらに半年ほどたって、こんどは紋別に移り住んだ。唐牛は、ここで漁師をしながら10年足らず暮らすことになる。
 しかし、漁船に乗ったといっても、実際の仕事は漁師ではなく飯炊きだったという。
 漁師をやめたのは78年9月だった。
 それから2カ月後、がんを患った母の看病をするため、函館に移住している。
 母を亡くして1年後の80年4月には、非行少年を教育する遠軽の「家庭学校」を訪れている。斎藤茂男は『父よ!母よ!』にこの学校のルポを書いたが、不思議な縁で、ぼくはかれの本を何冊も出版することになった。
 81年1月に、唐牛は函館から千葉県市川市に移った。そして、生活のためエルムというオフィスコンピューターを販売する会社の営業マンになった。社長は京大の元全共闘で、唐牛ともどこかで縁があったのだろう。
 トップセールスマンだったというのは意外である。
 そして、このエルム時代、唐牛は徳洲会の徳田虎雄と知り合うのだ。
 唐牛に徳田を紹介したのは、全学連仲間の島成郎だった。
 徳田と唐牛は会ったとたんに、意気投合したという。
 徳田は国会をめざしていた。
 82年4月、唐牛はエルムをやめ、徳田の選挙を手伝うことにした。
 全学連の盟友、篠原浩一郎は、当時、今里広記が社長を務める日本精工ではたらいていた。唐牛は篠原を通じて、今里と会い、徳田の後援を依頼した。
 唐牛は北海道や埼玉に徳洲会病院をつくる仕事も手助けした。
 82年夏には喜界島にはいって、総選挙に向けて活動を開始した。
 だが、翌年の選挙で徳田は保岡興治に惜敗を喫する。
 そのころ、唐牛は直腸がんがみつかり、築地のがんセンターに入院していた。すでに手遅れだった。
 そして、手術後、一時退院するものの、84年3月に亡くなる。
 享年47。
 ここで、唐牛と同じ全学連の仲間たちが、その後、どのような人生を歩んだのかをふり返っておこう。
 ブント書記長の島成郎(1931-2000)は、東大医学部を14年かけて卒業し、精神科の医者になった。そして、25年あまり沖縄での精神科医療にたずさわった。
 西部邁(1939年生まれ)は、唐牛より2歳下で、全学連の中央執行委員を務めていた。羽田の1.16事件などで逮捕されたあと、徐々に左翼運動から離れ、東大経済学部と大学院で経済学を専攻する。1975年に出版した『ソシオ・エコノミクス』は、「オホーツクの漁師」唐牛健太郎に捧げられている。現在は保守派の論客として活躍している。
 同じくブントの指導者だった青木昌彦(1938-2015)は、東京大学大学院をへて、渡米し、ミネソタ大学で学んだ。その後、スタンフォード大学助教授(のち教授)、ハーヴァード大学助教授、京都大学教授など華麗な経歴を築く。日本でいちばんノーベル経済学賞に近い学者と呼ばれていた。
 著者はこう書いている。

〈唐牛健太郎は、全学連仲間の島成郎や青木昌彦らがそれぞれの分野で目覚ましい業績をあげたのとは対照的に、「長」と名の付く職に就くことを拒み、無名の市井人として一生を終えた。
 だが、それこそが唐牛が生涯をかけて貫いた無言の矜持ではなかったか。庶子として生まれた唐牛は、安保闘争が終わったとき、常民として生き、常民として死のうと覚悟した。それは彼の47年の軌跡にくっきりと刻まれている。〉

 60年安保は「壮大なゼロ」と呼ばれたが、唐牛もまたゼロをめざしていたように思えてならない。
 ゼロは座標軸の交点である。唐牛は常にかえりみられる存在だった。
 だが、ほんとうは、われわれは唐牛によって、見つめられていたのかもしれない。いま、君は闘いを忘れてはいないか、と。

nice!(8)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 8

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0