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最晩年の自由論──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(6) [思想・哲学]

 1954年にコロンビア大学を退職したあと、ポランニーは『自由と技術』と題する著作で、産業文明にたいする考察を進めるつもりでいた。しかし、病気のため、それは完成にいたらず、断片的な草稿が残されるにとどまった。
 そのかたわら、弟子のロートシュテインは3年間にわたりポランニーとの対話を書き留めていた。それが「ウィークエンド・ノート」なるものである。
 著者はポランニーの断片的草稿や聞き書きのノートをもとに、かれの最晩年の思想をさぐろうとしている。
 ポランニーの思考は難解である。だから、そのすべてを理解するのは無理としても、せめてその一端だけでも紹介しておきたい。
 ポランニーは、「産業社会における良き生活」という断片のなかで、産業文明における「自由の喪失」に触れて、こう述べている。

〈複雑な社会において、われわれの意図的行為の、意図せざる結果が啓示された。これらのなかには、われわれを脅かす二つのものがある。権力と経済的価値決定がそれである。これらは、われわれが望もうが望むまいが、他者の精神的生活に強制を強いる権力の創出にわれわれを巻きこむ。これこそ、われわれが苦しんでいる自由の喪失である。〉

 この謎のようなことばは、いったい何を言わんとしているのだろう。
 現代は自由な社会だといわれる。
 だが、ポランニーのことばは、それを疑わせるものだ。
 自由な社会といっても、人は朝から晩までお金にがんじがらめになっているではないか。お金で好きなものを買うというけれど、ほんとうはどんどんつくられる新規商品を買わされているだけではないか。それに働いているというけれど、それは人に売れるものをつくったり、人にものを売りつけたりしているだけではないのか。それがほんとうに自由な生活なのか。選挙があれば投票するというけれど、ほんとうは選ばされているだけで、それは権力の創出に貢献しているだけではないか。
 社会が複雑化すればするほど、人は充満するモノと情報、イメージのなかで自分を見失っているのではないか。そして、何か大きな不安に突き動かされるように、産業文明という監獄をさらに広げることに邁進しているのではないか。
 現代人は、与えられた自由という檻のなかで、自由を縛る権力と経済価値(商品)をみずからつくりだしている。そして、その権力と経済価値(商品)が他者=自己の精神を空疎なものとしていることに気づいていない。
 平たくいってしまえば、ポランニーのいわんとするのは、そういうことだ。
 ポランニーは、複雑な社会における権力・経済価値・自由についての「意識改革」が必要だという。
 権力や経済価値(商品)はなくならない。だが、人びとは、みずからが権力や商品の創出にかかわっていることを、せめて意識しなければならない。そして、それが自由を奪うのをできるだけ阻むために、自由の領域を制度的に広げていかなければならない、とポランニーは訴える。
「ウィークエンド・ノート」で、ポランニーは、20世紀の技術的に複雑な社会には、隣人と「異なることの自由」を萎縮させる傾向があり、そうした同調主義的傾向が世論という匿名の権力を生みだす源になっていると指摘している。
 ポランニーは、交通手段や電気、ガス、水道など技術に依存した文明が、何かの災害によって、とつぜんストップし、社会がひどく混乱する事態を想定する。そのとき、人間は恐怖におちいるとともに、近代産業文明が脆弱な「機械の絆」によって、かろうじて支えられていることに気づく。
 ポランニーによれば、こうした複雑な技術社会は、3段階にわたって促進されてきた。それは、(1)19世紀における機械の導入、(2)日常生活への暖房、電気、水道、輸送などのシステムの導入、(3)全生命の抹殺を可能にする原爆の拡散や、すべての精神を支配しうるテレビ[いまならパソコンがつけ加わるだろう]の普及、によってである。
 そして技術文明に固有な全体主義的傾向は、個人の自由を圧殺する方向にはたらく。
 こうした全体主義的傾向に対抗するためには、単に個人の精神的自由をかかげるだけでは、とても間に合わない。市民的自由を制度的に拡大することが求められるのだ。
 具体的には、それは言論の自由、良心の自由、集会の自由、結社の自由を意味するが、加えて、個人の「不服従の権利」が認められなければならない。
 さらにポランニーはルソーにならって、ふつうの人びとを中心として、自由と平等の対立を調整する制度改革のあり方をさぐっている。自由と平等は、抽象的にみれば対立している。だが、ふつうの人びとの文化に依存するかぎり、「自由と平等は、それらがいかに相違していても、文化という具体的な媒介のなかで共存しうるし、同時的な開花を求めることができる」と、ポランニーは論じている。
 著者によれば、ポランニーにとって第2次世界大戦後の社会の現実は、自由と平和への大いなる可能性の幕開けではなく、新しい全体主義的傾向の出現であった。戦後の産業社会は、効率第一主義をめざし、自由や生の充足は後回しにされた。
 最晩年のポランニーは、ガルブレイスの『ゆたかな社会』に注目していた。というのも、この本が「産業社会は自由で人間的でありうるのか」というテーマを扱っていたからである。
 技術的進歩と商品の増大は、むしろ自由をさらに縮小していくのではないか、とポランニーは問いかける。これにたいし、ポランニーがめざすのは「人格的生活」であり「生活に意味と統一を回復すること」である。
 『ゆたかな社会』では、人格的自由が私的消費に埋没しようとしていることが指摘されていた。
 ガルブレイスはまた、飢餓と失業の脅威にさらされていた19世紀と、大量生産と大量消費に支えられる20世紀が、どのように異なっているかについても論じていた。
 著者のまとめによれば、ガルブレイスのいう「ゆたかな社会」では、「完全雇用を達成するために高水準の生産が要請され、高水準の生産に照応する需要を引き出すために生産の側が広告・宣伝を通じた依存効果によって欲求と必要を人為的に創出している」のであった。
 しかし、ガルブレイスによれば、「ゆたかな社会」は社会的なアンバランスをもたらしていた。それは私的消費が拡大するかたわら、教育や住宅、医療といった公共的投資が不足する社会だったのである。これはとりわけアメリカ社会にみられる特質だったのかもしれない。だが、ここでもポランニーは、効率優先主義が、「自由への目に見えない妨害になっている」ことを感じている。
 ポランニーが求めるのは、産業社会において自由を制度化することである。
 著者によれば、ポランニーはそのために、「子供たちのための良い教育、労働・研究・創造的活動の機会、余暇を享受するすべての人のための自然・芸術・詩との広い触れ合い、言語・歴史の享受、自己を賤しめないで暮らすことができる保障、市町村や政府や自発的なアソシエーション[団体]によって提供されるサービス」などが制度化されなければならないと論じた。休暇制度の充実、労働者の保護、職場環境の改善、不服従の権利、その他、さまざまな制度も考えられるだろう。
 こうした制度化は、産業社会において自由を保証し、拡大・深化していくには不可欠だった。
 物質的豊かさを達成した社会は、良き生活を目標としてかかげなくてはならない、とポランニーはいう。
 良き生活の核心となるのは、個人の自由である。そのためには産業社会の効率優先主義はむしろ民主的に制限されるべきだというのが、ポランニーの考え方だったと思われる。
 ポランニーは、自由は無償で手に入るのではなく、そのためには費用の増大や産業効率の低下もやむをえないとみていた。
 ポランニーは、産業社会を人間化していくための「自由のプログラム」を具体的に構想していくことを提唱していた。それこそが、現代民主主義の最大のテーマだと考えていたのである。

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