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政府の関与をめぐって──ミル『経済学原理』を読む(15) [経済学]

 政府には経済社会にたいする責任がある。しかし、なかには政府が関与すべきではない分野がある、とミルはいう。
 外国産の商品を禁止、ないし抑制して自国産業を保護するという考え方もそのひとつである。ミルはそもそも外国の商品が輸入されるのは、それによって国内の労働と資本が節約され、消費者の利益となるからだという。この点、ミルは自由貿易主義の立場をとっている。
 それでも国民生活や国防の観点から保護主義が提唱されやすいのもたしかである。イギリスでは穀物法や航海法がそうした保護主義のあらわれだった。だが、それは一時の、とりわけ戦時の例外とみるべきである。どの国にとっても、長い目でみれば、保護主義より輸出入の自由のほうがはるかに得るところが大きい、とミルはいう。
 保護関税が弁護されるとすれば、それは新興国において、新たな産業を育成しようとしている場合にかぎられる。だが、それも国内の生産者が一定の訓練水準に達するまでの期間である。
 外国の影響力を排除して、排他的に植民地を囲いこもうとする政策もまちがっている。ミルはあくまでも自由貿易を擁護するのだ。
 政府による利子規制にも、ミルは懐疑的だった。いまでは法的に利子率の最高限度を定めるやり方がとられるようになっているが、競争社会において、需要と供給を無視して法的に無理やり利子率を定めるのは、むしろ弊害を生みやすい、とミルは述べている。
 政府が商品の価格(とりわけ食料品価格)を人為的に安くしようと介入することもまちがっている。およそ供給が不足する場合には、だれかがその消費を抑制するほかないのだ。
 ここでも商品の価格は、需要と供給の動きにまかせるべきだ、というミルの考えがみてとれる。政府のやれることは消費の節減を推奨すること、あるいは不要な消費を禁止することくらいにとどめるべきだと述べている。
 いっぽう政府は、生産者や商人に独占権を与えて、商品価格を高く維持しようとすることがある。だが、競争の制限は、習慣に安住し改良を遅らせる傾向がある。特許の場合を除いて、政府は企業による独占を認めるべきではない、とミルは考えていた。
 政府はまた、労働組合の結成を禁止してはならない。労働組合によって、労働者は労働時間の短縮や賃上げを要求することができるようになる。賃金が労働にたいする需要と供給によって決まることは否定できないが、労働者の待遇改善は常にめざすべき方向であり、そのためには労働組合の存在が欠かせない、とミルは思っていた。
 そして、とりわけ重要なのは、たとえ政府を批判する内容であっても、政府が意見の自由、討論の自由を認めることである。精神の自由こそが、国の繁栄の源だ、とミルは強調する。
 はたして政府の干渉はどこまで許容されるのだろか。
 いかなる政府も、人間の自由と尊厳を犯すことは許されない。権力の影響力が拡大すれば拡大するほど、精神の自立性と人格の独立性を擁護維持する必要がある。
 とりわけ、民主主義社会においては、政治権力による干渉拡大の傾向を絶え間なく警戒監視することが重要になってくる、とミルは強調する。
 政府の活動が制限されるべき理由は、分業の原理にもとづく。政府が効率よく運営されるべきことはいうまでもないが、それ以上に、民間でおこなうべき事業は、民間にゆだねるほうが、はるかにうまくいくものだ。また政府が独占的に事業を営むよりも、競争にさらされて、切磋琢磨のうちに事業が運営されるほうが、社会の改良進歩にはるかに寄与する、とミルはいう。
 ミルはまた現代社会において重要なのは国民のひとりひとりが活動的な能力と実際の判断力を高めることであって、それによって公共心が広まり、統治者の暴走を牽制することができるのだとも指摘している。
「要するにレッセフェール[自由放任]を一般的慣行とすべきである」とミルは断言する。ところが、これまで政府はこの慣行をつねに侵害し、経済社会を恣意的に統制してきた。それにより、事業者は自由に自分自身の道を進むのを妨げられてきた、とミルは批判する。

 政府は自由放任を原則とすべきである。だからといって、政府は何の役割も果たさなくてもよいというわけではない、とミルはいう。
 たとえば、国民が何ごとにつけ判断力を高めるようにするためには、公正な中立な教育が必要になってくる。
 政府は国民への教育を保証しなければならない。いや児童や青少年にたいしては、むしろ教育を義務化する必要があるだろう。
 政府はまた、児童が過度な労働をさせられることのないよう、法的な規制をおこなうべきである。
 児童を家庭内の暴力から守ることも政府の義務である。
だが、女性を職場から排除しようとする動きに政府は荷担すべきではない。むしろ女性の社会的地位を改善するために、政府は女性がもっと容易に職に就けるように環境を整えるべきだ、とミルはいう。
 ミルはまた、契約はたとえ自由意思にもとづいて締結されたとしても、永久あるいは長期間にわたって、個人を束縛するものであってはならないという。じゅうぶんに根拠のある場合は、その契約を破棄することも認められるべきだとも述べている。それがあてはまるのは、とりわけ結婚においてである。
 経営面からみれば、一般的に国営企業よりも株式会社のほうがすぐれている。しかし、ガス会社や水道会社、鉄道会社などのように、それが公共性の強いものであれば、そのサービスにたいして国民が支払う料金は、強制的課税に近いものとなる。
 このような事実上の公共事業にたいしては、政府はその事業が一般の利益にかなうよう適切な監督と指導をおこなう権限を保留しなければならない、とミルはいう。
 労働時間に関しては、自由にまかせるのではなく、法律による定めを設けるべきだというのがミルの考え方だった。政府は積極的に労働者の保護と育成にあたるべきだと主張している。
 救貧法についても、ミルはその必要性を認めている。餓死しようとしている人、困窮している人には援助が必要である。ただし、援助に不当に頼ることはできるだけ防止しなければならないという。救貧法の適用は、個人の勤勉および自立精神をうながすものでなくてはならない。
 植民事業については、単に人口の過剰を緩和するという観点からだけではなく、生産力の移転と創出という観点から考慮されるべきだという。だが、植民は、むしろ国家の事業として計画されねばならない、というのがミルの考え方だった。
 ここで想定されているのは、オーストラリアやニュージーランドなどへの植民である。本国はこうした植民地への移民を手助けするとともに、その植民地の発展を監督する義務がある、とミルは考えている。
 ほかに政府がおこなうべき事業として、ミルは科学的な探検の航海や灯台の設置、大学での研究支援などを挙げている。道路や港湾、運河、灌漑の整備、病院、学校の設置など私的個人では実行しえない分野の事業についても、政府の役割は欠かせない。
 こう述べている。

〈良き政府は、個人的努力の精神が少しでも認められるなら、それを奨励し育成するかたちでの助力を惜しまないものである。良き政府は、自発的な事業を妨げたり邪魔したりするものを取り除き、必要とあらば、あらゆる便宜や指示、助言を与えることに努める。政府は民間の努力を抑圧することなく、それを助けるために、実現可能な場合は予算措置を取る。またこうした努力を引きだすために、報償や勲章といった制度を活用することもあるだろう。〉

 要するに、政府は自由な経済活動を妨げず、むしろそれを積極的に奨励しつつも、公共的福祉の増進をめざして努力すべきである、というのがミルの考え方だったといえるだろう。

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