渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(3) [くらしの日本史]
外国人観察者は、日本のどこもかもがすばらしいと感じたわけではない。
日本はみすぼらしい国だと思った人もいたし、壮麗な建物を期待した人は失望した。皮膚病や眼病、あばたの人が多いのに気づいた観察者もいる。宗教家は酒飲みが多いのに辟易した。寺のまわりには乞食が集まっていた。
熊本洋学校教師となったリロイ・ジェーンズは、日本人が、刺身、豆腐、たくあん、塩魚、つけもの、梅干しなどを食べていることが、肉体的・精神的持続力に悪影響を与えていると信じていた。部屋に火鉢しか暖房がないことが、結核をもたらす大きな原因だとも考えていた。
それでも、外国人観察者は庶民の丁寧さや親切に感銘を受けている。
善良な庶民は好奇心にあふれ、あけっぴろげだった。
「日本人の家庭生活はほとんどいつも戸を開け広げたままで展開される」と、ある観察者は記す。
ほとんどの町屋が夜の戸締まりをしなかった。
その開放性は心のなかにまでおよんでいた。
「開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった」。そう著者は書いている。
外国人にとっては、日本ではおかねやものを置きっぱなしにしていても、まず盗まれないことが驚きだった。だが、盗人がいないわけはなかったのは、もちろんである。
モースは群衆のおとなしさ、秩序正しさに、たびたび言及している。それとは逆の記述をする観察者もいないわけではない。とはいえ、概して、日本の群衆は静かでおとなしかったといえるだろう。
「幕末から明治中期にかけての日本人は、やはりモースのいうように、喧嘩口論が少なく、劇場や雑踏で押し合いをしないといった、すこぶる穏やかで礼儀正しい人びとだったらしい」と著者は書いている。
著者によると、江戸の華といわれる喧嘩も、暴力は二の次で、第一に競われるのは、気っぷの良さや、啖呵の切れ味だったという。
幕末の日本にやってきたフランス人のボーヴォワルは、街ゆく人びとが「誰彼となく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口もとにほほえみを絶やさない」のをみて、日本人が「地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ」と思った。
モースにとって「挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやり」は、日本人の生まれながらの美徳と思われた。
外国人による日本人の礼儀正しさ、行儀のよさについての記述は、まだまだつづく。よほど印象的だったのだろう。
[武士のあいさつ。オールコックの著書から]
外国人は日本人のお辞儀の仕方、洗練された立ち居振る舞いに感銘を覚えていた。
著者は、外国人観察者の言説を引用しながら、在りし日の日本について、こう述べている。
〈それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。〉
明治22年(1889)に来日した新任英国公使の妻、メアリ・フレイザーは、連日、東京市内を馬車で回り、軽業師や行商人の姿を見かけた。その「雑多と充溢」に心奪われたと書いている。
人びとの職業は多様で、街はパフォーマンスにあふれていたのだ。
行商はじつに多彩だった。古着屋、きせるを掃除する羅宇(らお)屋、傘張り屋、豆腐売り、軽業師、人力車、按摩、飴屋、屑拾い、砂絵描き……。
街頭の商売だけではない。小さな店がいっぱいあった。
酒屋、指物屋、下駄屋、ランプ屋、瀬戸物屋、米屋、花屋、仏具屋、魚屋、風呂屋、桶屋、籠細工屋、おもちゃ屋、床屋、かんざし屋、紙屋、漆器屋、扇屋、呉服屋……それこそ枚挙にいとまがなかった。
「それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化して」おり、庶民のくらしは「雑多な小店舗が混り合う複雑な相のなかでいとなまれ」ていた、と著者は書いている。
高級な道具や陶磁器、家具、美術品は店頭には置かれていなかった。
幕末の長崎や下田の会所には、すばらしいできばえの陶磁器や漆器、木彫りや鋳金の彫像、象牙細工、刀剣、絹織物などが集められていて、外国使節団の財布はたちまち空になったという。
しかし、趣味のよさは高級品のなかだけではなく、日用品のなかにも浸透していた。それらはすべて職人の手仕事によってつくられたものだった。
ギメは藍のデッサンがほどこされた手ぬぐいに感銘を受けた。ありふれた安い品物が、粗悪ではなく、きれいで趣味がよく、洗練されていることに、外国人観察者はおどろいている。
イザベラ・バードは東北を旅行したとき、日本の料理が清潔で美しいことを強調している。
日本人の着物にひきつけられた外国人もいれば、粗末な家屋の一見シンプルな室内に「絶対の清浄と洗練」を感じた人もいる。
モースはとりわけ欄間のデザインに興味をひきつけられた。それは「名もなき地方の職人の手になるもの」だが、「芸術的意匠とその見事なできばえ」にうっとりした。
「現実の苦難を軽減する生活の美化・趣味化が、社会全体の共通感覚となっていた」と、著者はいう。
〈彼らが見たのは、まさにひとつの文明の姿だったというべきだろう。すなわちそれは、よき趣味という点で生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明だったのである。〉
日本はみすぼらしい国だと思った人もいたし、壮麗な建物を期待した人は失望した。皮膚病や眼病、あばたの人が多いのに気づいた観察者もいる。宗教家は酒飲みが多いのに辟易した。寺のまわりには乞食が集まっていた。
熊本洋学校教師となったリロイ・ジェーンズは、日本人が、刺身、豆腐、たくあん、塩魚、つけもの、梅干しなどを食べていることが、肉体的・精神的持続力に悪影響を与えていると信じていた。部屋に火鉢しか暖房がないことが、結核をもたらす大きな原因だとも考えていた。
それでも、外国人観察者は庶民の丁寧さや親切に感銘を受けている。
善良な庶民は好奇心にあふれ、あけっぴろげだった。
「日本人の家庭生活はほとんどいつも戸を開け広げたままで展開される」と、ある観察者は記す。
ほとんどの町屋が夜の戸締まりをしなかった。
その開放性は心のなかにまでおよんでいた。
「開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった」。そう著者は書いている。
外国人にとっては、日本ではおかねやものを置きっぱなしにしていても、まず盗まれないことが驚きだった。だが、盗人がいないわけはなかったのは、もちろんである。
モースは群衆のおとなしさ、秩序正しさに、たびたび言及している。それとは逆の記述をする観察者もいないわけではない。とはいえ、概して、日本の群衆は静かでおとなしかったといえるだろう。
「幕末から明治中期にかけての日本人は、やはりモースのいうように、喧嘩口論が少なく、劇場や雑踏で押し合いをしないといった、すこぶる穏やかで礼儀正しい人びとだったらしい」と著者は書いている。
著者によると、江戸の華といわれる喧嘩も、暴力は二の次で、第一に競われるのは、気っぷの良さや、啖呵の切れ味だったという。
幕末の日本にやってきたフランス人のボーヴォワルは、街ゆく人びとが「誰彼となく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口もとにほほえみを絶やさない」のをみて、日本人が「地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ」と思った。
モースにとって「挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやり」は、日本人の生まれながらの美徳と思われた。
外国人による日本人の礼儀正しさ、行儀のよさについての記述は、まだまだつづく。よほど印象的だったのだろう。
[武士のあいさつ。オールコックの著書から]
外国人は日本人のお辞儀の仕方、洗練された立ち居振る舞いに感銘を覚えていた。
著者は、外国人観察者の言説を引用しながら、在りし日の日本について、こう述べている。
〈それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。〉
明治22年(1889)に来日した新任英国公使の妻、メアリ・フレイザーは、連日、東京市内を馬車で回り、軽業師や行商人の姿を見かけた。その「雑多と充溢」に心奪われたと書いている。
人びとの職業は多様で、街はパフォーマンスにあふれていたのだ。
行商はじつに多彩だった。古着屋、きせるを掃除する羅宇(らお)屋、傘張り屋、豆腐売り、軽業師、人力車、按摩、飴屋、屑拾い、砂絵描き……。
街頭の商売だけではない。小さな店がいっぱいあった。
酒屋、指物屋、下駄屋、ランプ屋、瀬戸物屋、米屋、花屋、仏具屋、魚屋、風呂屋、桶屋、籠細工屋、おもちゃ屋、床屋、かんざし屋、紙屋、漆器屋、扇屋、呉服屋……それこそ枚挙にいとまがなかった。
「それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化して」おり、庶民のくらしは「雑多な小店舗が混り合う複雑な相のなかでいとなまれ」ていた、と著者は書いている。
高級な道具や陶磁器、家具、美術品は店頭には置かれていなかった。
幕末の長崎や下田の会所には、すばらしいできばえの陶磁器や漆器、木彫りや鋳金の彫像、象牙細工、刀剣、絹織物などが集められていて、外国使節団の財布はたちまち空になったという。
しかし、趣味のよさは高級品のなかだけではなく、日用品のなかにも浸透していた。それらはすべて職人の手仕事によってつくられたものだった。
ギメは藍のデッサンがほどこされた手ぬぐいに感銘を受けた。ありふれた安い品物が、粗悪ではなく、きれいで趣味がよく、洗練されていることに、外国人観察者はおどろいている。
イザベラ・バードは東北を旅行したとき、日本の料理が清潔で美しいことを強調している。
日本人の着物にひきつけられた外国人もいれば、粗末な家屋の一見シンプルな室内に「絶対の清浄と洗練」を感じた人もいる。
モースはとりわけ欄間のデザインに興味をひきつけられた。それは「名もなき地方の職人の手になるもの」だが、「芸術的意匠とその見事なできばえ」にうっとりした。
「現実の苦難を軽減する生活の美化・趣味化が、社会全体の共通感覚となっていた」と、著者はいう。
〈彼らが見たのは、まさにひとつの文明の姿だったというべきだろう。すなわちそれは、よき趣味という点で生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明だったのである。〉
2017-07-08 16:06
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