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日本の女たち──渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(5) [くらしの日本史]

 幕末の日本にやってきた西洋人を仰天させたのは、裸と混浴である。男はともかく、女も平気で裸になった。キリスト教徒の道徳感覚からすれば、とても信じられない光景だった。
 とくに驚いたのは混浴と行水である。ある外国人は、日本の女には羞恥心がないと記した。しかし、恥ずべきだったのは、むしろ女の裸をしげしげと眺めた外国人のほうではなかったか、と著者はコメントしている。
 夏の暑い季節に、男がふんどし一丁の姿でいたり、女が上半身肌脱ぎをしたりするのは、ごくふつうの習慣だった。子どもは裸で遊んでいた。

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[行水の光景。レガメ画]

「徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである」と、著者は記している。
 外国人が風呂屋のそばを通ると、入浴中の男女が風呂から飛びだして、戸口で裸のままかれらを眺めるのに、むしろ当の外国人のほうが仰天した。
 さらに西洋人を驚かせたのが、春画、春本の横行である。ほかにもわいせつな品物が、おもちゃとして店に堂々と飾られていた。それは、ときに磁器や漆器、象牙細工のなかにも忍びこんでいるので、買い物をするさい、外国人は注意しなければならなかった。
「当時の日本人に性にたいする禁忌意識がいかに乏しかったかということの例は、それこそ枚挙にいとまがない」。さらに、徳川期の日本人は性を笑いの対象としてとらえていた、と著者は述べている。
 日本の役人は宴席で、しきりに猥談をもちだし、外国人を困惑させた。性の結合は愛にもとづくと信じる外国人からすれば、日本人の野放図な淫弄さは驚き以外のなにものでもなかった。
 著者はこう書いている。

〈[日本人にとって]性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであって、従って羞じるに及ばないものだった。……男女の営みはこの世の一番の楽しみとされていた。そしてその営みは一方で、おおらかな笑いを誘うものでもあった。〉

 愛と性をめぐる考え方は、西洋と日本のどちらが正しいともいえない。
 ただし、著者がいまは失われた江戸の風俗を大いになつかしんでいることは、次のような記述からもうかがえる。
 いわく。

〈性についての現実的でありすぎ享楽的でありすぎたといえぬこともない古き日本は、同時にまた、性についてことさらに意識的である必要のない、のどかな開放感のみち溢れる日本でもあったのだ。〉

 外国人観察者は、幕府公認の遊郭についてもふれている。
 それは、たしかに頽廃した制度だったが、観察者は年季を終えた遊女が、自由の身になり、時に結婚もして社会に復帰することを記述することも忘れていない。それでも、遊女の3分の1が奉公の期限が切れぬうちに、25歳までに梅毒その他の病気で亡くなっていたことも事実である。
 当時の日本人も、売春が悪であることはわかっていた。だが、売春はけっして陰惨なもの、暗いものとはとらえられていなかった。
 著者はいう。

〈買春はうしろ暗くも薄汚いものでもなかった。それと連動して売春もまた明るかったのである。性は生命のよみがえりと豊穣の儀式であった。まさしく売春はこの国では宗教と深い関連をもっていた。その関連をたどってゆけば、われわれは古代の幽暗に達するだろう。外国人観察者が見たのは近代的売春の概念によってけっして捉えられることのない、性の古層の遺存だったというべきである。〉

 こういう書き方にたいしては、とうぜん反論もありうるだろう。
 しかし、いまは先に進もう。
 多くの外国人観察者が、日本の娘の魅力に心奪われた、と著者は書いている。
 それについては、じつに多くの証言がある。

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[ワーグマン画。茶屋の女]

 ただし、外国人の目からみれば、眉落としとお歯黒、おしろいや紅のべた塗りはいただけなかった。女たちは自分の魅力をわざと台無しにしていると思われた。
 英国公使のオールコックはこう書いている。
「女が貞節であるために、これほど恐ろしくみにくい化粧が必要だというところをみると、他国にくらべて、男が一段と危険な存在であるか、それとも女が一段と弱いのか、そのいずれかだ」
 著者によれば、化粧の変化は、一人の女が娘という段階から妻ないし母という段階に進んだことの「象徴的表示」だった。
 しかし、外国人観察者のなかには、日本の女性の地位が低いのではないか(中国やイスラム圏ほどでないにしても)と疑う者もいた。
 モースも、女性の男性への隷属という事実に心を痛めた。一緒にくらしてみると、日本の女は「とかく人形みたい」だと感じた者もいる。
 いっぽうで、下層階級では一家を切り盛りし、家を牛耳っているのが女性だ、と気づいた外国人もいた。上流階級では、女性が家にしばられているのにたいして、大多数の庶民の結婚生活は、ずっと伸びやかで自由だった。
 華族女学校で教えたアリス・ベーコンは、日本では、女性は結婚すると服従を強いられるが、のちには自由で幸福な老年をすごすことができると論じている。
 ここから著者は、次のような見解を導きだす。

〈嫁が家によってテストされ、家にもっとも新しく加わったメンバーとして家風に合わせて教育されるのは、嫁自身も死ぬまでそこに所属する家庭の平安と幸福を保障する当然の措置ではなかったか。女の忍従と自己犠牲はおのれの家を楽しいものとするために払われたのであり、その成果は彼女自身に戻ってくるのだった。〉

 もちろん日本の女は忍従ばかりしているのではなかった。とくに庶民の女たちは活発で、ものおじせず、のびやかだった。
 江戸庶民のあいだでは、男ことばと女ことばの差がほとんどなかったという。女でも自分のことを「おれ」とか「おいら」とかいう者も少なくなかったとか。べらんめえ口調は男だけのものではなかった。
 そして、じつは武士、町人、庶民のあいだを問わず、豪快な女たちはあちこちにいたのである。女たちはたばこや酒も大いに楽しんでいた。
「徳川期の女性はたてまえとしては三従の教えや『女大学』などで縛られ、男に隷従する一面があったかもしれないが、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であったようだ」と、著者は書いている。
 ちなみに、三従の教えとは、幼にしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うという教え。『女大学』は、良妻賢母をめざす女の心得を説いた貝原益軒による道徳書である。
 道学的なたてまえはともかくとして、江戸や明治の女たちは、実際は強かったのである。家の内部を実際に支配していたのは女だった。
 イギリス人写真家のハーバート・ポンティングはこう絶賛している。
「日本の女性は賢く、強く、自立心があり、しかも優しく、憐れみ深く、親切で、言い換えれば、寛容と優しさと慈悲心を備えた救いの女神そのものである」
 一度はこんなことを言ってみたいものだ。

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