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日本人と信仰──渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(7) [くらしの日本史]

 外国人観察者からみれば、幕末の日本は「昆虫や危険な爬虫類の王国」だった。ネズミを捕るのが下手なネコがだいじにされているかと思えば、街の犬もわが物顔でのさばっていた。
 日本の馬は癖が悪いので有名だった。たいていの馬は調教されていなかった。乗馬のうまい日本人は少なかったという。
 イザベラ・バードは、日本の馬が性悪なのは、あまやかされて増長しているからだと書いている。
 しかし、馬を人間並みに扱うのは、昔からの習慣だった。何といっても馬は家族の一員だった。日本人は牡馬を去勢したりしなかったし、馬勒(ばろく)をつけたりするのもいやがった。日本では馬を機械のように使役する習慣がなかったのである。
 馬が酷使されるのは、明治にはいってからで、とりわけ北海道の開拓においてだったという。
 もちろん牛馬を殺して食べる習慣はなかった。それは殺生を戒める仏教思想があったからではない。何よりも家畜が家族の一員だったからだ、と著者はいう。
 鶏を飼うのも、その肉を食べるためではなく、玉子をとるためだった。
 日本人は牛乳も飲まなかった。牛乳は子牛のものだった。牛は農耕や運搬で、家族のために存分にはたらいてくれる存在だった。
 著者はこう書いている。

〈徳川期の日本人にとっても、動物はたしかに分別のない畜生だった。しかし同時に、彼らは自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった。人間は獣よりたしかに上の存在だろうけれど、キリスト教的秩序観の場合のように、それと質的に断絶してはいなかった。草木国土悉皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣とおなじく生きとし生けるものの仲間だったのである。〉

 それでは、人間にたいしてはどうだろう。
 日本人の思いやりは、肉親、仲間、隣人、同僚だけにしか向けられておらず、日本人にはヒューマニズム思想がないと感じた外国人もいる。
 日本人は死ぬことを何とも思っていない、どんな災難にあってもニコニコしているというのが、外国人からみた日本人の印象だった。さらに、前に述べたように、日本人は鳥や獣を自分たちの仲間とみていた。化け物や妖怪の存在も、ほんきで信じていた。
 日本人は自然と戦わなかった。自然を愛で、自然とともにくらしていたのだといってよい。
 著者はいう。たしかに、過去の「野蛮な」文明を捨て、近代化の道を歩まなければ、日本は19世紀末の国際社会で生き残っていけなかっただろう。しかし、すでに消え去った文明は「ひとつの、生きるに値する世界だった」と。
 その世界に立ち入るのは、まるで藪こぎをするようなものなのだが、次に著者が探索するのは、日本の「信仰と祭」についてである。
 外国人観察者は、日本人には宗教心が薄いと感じた者が多かった。米国公使のタウンゼント・ハリスは「この国の上流階級の者は、実際はみな無神論者であると私は信ずる」と書いている。神社、仏閣は多いのに、そこを訪れるのはほとんどが庶民で、武士は社寺に見向きもしなかった。それは、武士階級には、たぶんに儒教思想と現世主義が浸透していたためだ、と著書はいう。
 キリスト教的な唯一神の信仰に自己の根拠を見いだしていた西洋人からすれば、日本人はきわめて非宗教的とみえ、膨大な寺社はどこもまるで娯楽センターのようで、巡礼は物見遊山のように思われた。
 しかし、日本人に宗教心がないというのは、誤解だった。
 香港から日本にやってきた、英国人のスミス主教は、迷信と現世利益と娯楽の混ざりあった日本の宗教を批判していたが、日本の寺社が堅苦しい場ではなく、子どもたちの遊び場になっているのに気づいた。
 実業家のエミール・ギメは、明治になって浅草寺を訪れたとき、仏教が「感じのよい、心安い、気むずかしくない、ギリシャ人の宗教に似ていて、煩わしくない、楽しむことを少しも妨げない宗教」だと感じた。
 おそらく日本人と宗教というテーマを論じだしたら、それこそきりがない。
 著者もそこには深入りしていない。
 ただ、こういうことはいえる。キリスト教が神への信仰にもとづき、永遠の生命を求める厳しさにあふれていたのにたいし、日本の信仰は何かにすがることで、一家のなごやかなつながりと存続を願うという点で、おだやかな諦念に満ちていた。遠い神と近い仏は一体となって、一家を見守っていたのである。

 最後の章には「心の垣根」という題がつけられている。
 幕末の日本にやってきた西洋人が見たのは、混沌や無秩序ではなく、むしろ平和と安らぎの世界だった、と著者は書いている。
「人びとを隔てる心の垣根は低かった。彼らは陽気でひとなつこくわだかまりがなかった」
 カッテンディーケは、「日本人の性格には、たしかにユーモアと滑稽さ」があると記している。日本人は苦難にさいしても平然とし、辛抱強かった。
 そのいっぽうで、多くの外国人観察者が、日本人には高尚な精神主義、高い理想、絶対的な美と幸福への衝動が欠けていると感じていた。つまり、日本人は具体的なこと、現実的なことに強い興味をいだくのに、形而上的、観念的な問題にほとんど関心を示さないと思っていた。
 平気でうそをついたり、旅の恥はかきすてで、いっこうにかまわなかったりするのも、日本人の特徴だった。日本人には無責任でお調子者のところがあった。どこかで、人間という存在は吹けばとぶようなものと感じているふしがあった。『東海道中膝栗毛』は、そんな人の世界をえがいている。
 無責任でお調子者というのは、個の自覚がないことを意味する。しかし、「個」、すなわち、おのれの存在というのはいったい何だろう。それは、心の垣根が高いことでもある。そして、近代という時代は、人に個であること、すなわち「感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させ」ることを求めていた、と著者はいう。
 江戸の文明は、近代に生き残ることのできない文明だった。
 著者は何度もくり返すように、こう書いている。

〈幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と月日の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。〉

 江戸を眺めることは、現代を見つめることでもあるのだ。

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