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ケネス・ルオフ先生の講演 [雑記]

[2017年7月8日に宮崎公立大学で開かれた、日本国際文化学会でのルオフ先生の講演です。拙訳をもとにした日本語による講演でしたが、学会講演のため、あまり目にふれる機会がないと思います。意義深い内容を含んでいますので、あえて本ブログで紹介する次第です。]


 ケネス・ルオフ「宮崎、日本、アジア大陸──1940年と2020年」

 日本国際文化学会、とりわけ倉真一先生のお招きにより、この全国大会でお話しできることを喜んでおります。おかげで、宮崎にまたやってくることができました。私が宮崎を最初に訪れたのは2005年で、現地調査をするためでした。はたして、うまくみなさんの興味を引く話ができるかどうかわかりませんが、近代性と観光の関連について論じてみることにします。
 1945年8月の日本敗戦後、アメリカ占領軍によって始められた改革の多くは、日本から「封建的」側面を根絶するために必要だとして正当化されました。しかし、私は主張したいのですが、たとえば1940年の日本は、世界でも、もっとも近代的な国家のひとつだったのです。
 近代性の明確な定義については、歴史家のあいだでも、そのほかの社会科学者のあいだでも、意見が割れています。そこで、ここでは私なりの定義を示しておくことにしましょう。近代性には6つの側面が含まれると考えます。それは、産業化、国家意識、高度な集権国家、政治参加の広がり、大衆社会形態の広がり、それにグローバルな統合です。1940年前後についてみれば、近代性の定義として、ひょっとして、これに帝国主義を加えてもよいかもしれません。すると、近代性には7つの側面があるということになります。
 きょうの話は、ふたつの部分に分かれます。最初に1940年の宮崎に焦点を合わせましょう。近代性の定義については、しばしばふり返って、ふれることになります。

 1940年に日本は紀元二千六百年記念式典に合わせて、オリンピックを主催することになっていました。歴史を知らない人は、どうしてと思うかもしれませんが、当時、日本が「西洋以外」でオリンピックを主催する最初の国になるというのはたいへん大きな出来事でした。歴史的にみると、当時の日本は、いわゆる非西洋諸国で、唯一近代化された国でした。そして、日本の近代化は、人種、文化、宗教からみて、近代性は欧米だけのものという考え方に疑問を投げかけました。いまでは、われわれは近代性が世界のどこでもあてはまることを知っています。しかし、1940年には、いまのように、それがはっきりとはしていなかったのです。
 ご存じのように、日本はいわゆる「支那問題」によって、1940年のオリンピックを断念することになりました。日本は今日、別の「中国問題」に直面していますが、この話題については、のちほど立ち戻ることにしましょう。
 近代日本が1940年において実際どんなふうだったかを知るひとつの手立ては、観光について見てみることです。観光は昔もいまも、近代性のさまざまな側面と関連しています。不思議なことに、1940年に帝国日本は観光のピークを迎えました。1940年といえば、戦時です。しかし、この年に観光が盛んだったということは、はたしてどの程度、日本人が「暗い谷間」を経験していたかという疑問を提起します。
 1940年にいたるまで、宮崎県は何年にもわたって、官民一体で県を「日本発祥の地」、すなわち天孫降臨の場所として印象づけようと努力してきました。このブランド戦略のもうひとつは、神武天皇が紀元前666年に東征に出発した場所がまさに宮崎だったと主張することでした。そして、その6年後に、天皇による統治がはじまったとされることになります。ここで、神武天皇の東征ルートを示す、いかにももっともらしい「地図」を示しておくことにしましょう。この地図は1940年の旅行ガイドに掲載されていました。
[神武東征図]
 地元の商人のなかには、皇室の神話を全面活用して、稼ぐ者もいました。ここでご覧いただくのは、美々津の[本店は宮崎]松月庵菓子舗の団子を勧める広告ですが、1939年12月号の旅行雑誌『霧島』に掲載されたものです。この菓子屋は、団子のつくりかたは神武天皇の時代と変わらないと説明していました。
[松月庵の広告]
 美々津という海辺の村は、ここがまさに神武天皇が東征に出発した場所だと印象づけていました。実際、1940年以前から、美々津にある立磐(たていわ)神社は、神社の境内にある特別の岩こそが聖なる岩だと言い切っていたのです。それは神武天皇が差し迫る遠征に備え、一服して腰を下ろした「御腰掛け岩」と呼ばれていました。1939年に多くの読者をもつ女性雑誌『婦人倶楽部』は、人気のある詩人で歌人でもある西条八十(さいじょう・やそ)に依頼して、「肇国(ちょうこく)の聖地巡礼」という紀行を書いてもらっています。その紀行の二回目には、5枚の写真が掲載されていますが、その1枚には、西条が立磐神社の岩に参拝する様子が写っています。
 すでに1920年代には、日本での観光を促進するために、さまざまな形態の大衆文化を動員することが盛んになっていました。日本の大衆文化の多様な広がりを追求するには、観光は絶好の手がかりなのです。もちろん、観光それ自体も、大衆文化であります。
 しかし、ここで強調しておきたいのは、宮崎が重要な「国の史跡」の本拠地だと主張するようになったのは、近代になってからだということです。もし国民国家が、たいていの学者が主張するように最近の産物だとするなら、「国の史跡」という概念も、国民国家と同様、近代の産物なのにちがいありません。明治時代に国家宗教となった万世一系イデオロギーは、文書化され、しばしば皇室ゆかりの地という国家的地勢をつくりだしました。したがって、宮崎が、みずからを日本発祥の地として印象づけようとしたことは、近代的な国家意識をつくりあげる、より大きなプロセスの一環だったのです。
 天皇家のはじまりを祝う紀元二千六百年に、日本発祥の地と称する宮崎は、旅行客を引きつけるうえで、かなり有利な立場にありました。宮崎はわりあい遠い場所にあるため、1940年には、たとえば奈良県のようなほかの地域ほど、多くの旅行客を引き寄せることはできませんでした。これにたいし、奈良県などが人を引き寄せたのは、神武天皇や歴代皇室との密接なつながりを強調しただけではなく、実際に人口密集地に近かったからです。
 しかし、「遠さ」というのは相対的なものです。1920年代には、宮崎はすでに鉄道で九州のほかの地域と結ばれ、フェリーや汽船で帝国全域とつながっていました。近代性、この場合は産業化が進展したおかげで、宮崎は以前ほど遠い場所ではなくなりました。そして、1940年に宮崎市にやってきた旅行客は、簡単に地元のバス観光を利用することもできたのです。大日本帝国の全域では、内地、外地を問わず、たいていの都市で、主な場所に行くバス観光を利用することが可能になっていました。
 1940年に高千穂奉祝会が発行した絵葉書セットでは、宮崎は「日本民族のふるさと」であり、「日本精神の発祥地」であるとうたわれています。この絵葉書セットはさらに「日本人ならば一生に一度は必ずこの聖地を訪れて肇国の大精神を体得すべきではあるまいか」とも述べています。
 一見すれば、観光は政治とは無縁な活動と思えるかもしれません。しかし、ある種の観光は密接に政治と関係しているのです。私にいわせれば、国の史跡観光は、政治参加を拡張したものにほかなりません。1940年には、多くの評論家が、神武天皇ゆかりの地を訪れるのは「国民的行事」だと述べていました。
 私は「自主的な国民養成」という言い方をしていますが、これはじつに多くの人びとが、日本だけではなく、世界のあちこちまで、自主的に国の史跡がある場所を訪れる事実を指したものです。
 1940年の宮崎の主な観光資源といえば、天皇神話をもとに発展した史跡と、おそらく青島で味わうことのできる亜熱帯気候、それに砂浜から霧島国立公園を含む山岳地帯へと広がるさまざまな風景でした。1940年には、しかし、宮崎で、現在、不思議なことに「平和の塔」という名前で知られる、新たな施設がすでにつくられていました。1940年に、この塔は公式には「八紘之基柱(あめつちのもとばしら)」と名づけられ、一般には「八紘一宇(はっこういちう)の塔」と呼ばれていました。
[雑誌『霧島』から塔のイラスト]
 最初に平和の塔の内部を見学したとき、私は、この塔は、万世一系のイデオロギーをもとに、軍事的手段による拡張を正当化するためにつくられた大建造物のひとつだと思いました。
 地元の市民団体によると、「平和の塔」建設にあたって持ちこまれた石のひとつは、中国の万里の長城のものだったといいます。中国に駐在していた帝国軍人が宮崎に送ったようです。ですから、日本全体と同じように、1940年の宮崎が当時の帝国主義と関連していたことに、ほとんど疑問の余地はありません。

■日本と2020年の宮崎
 2020年に日本は4回目のオリンピック(夏季大会と冬季大会がそれぞれふたつ)を開催することになっています。その聖火リレーは、東京に向かう途中、とくに「日本発祥の地」宮崎を通過する予定になっているのでしょうか。もちろん、1940年以降は大きな変化がありました。とはいえ、そこにはある種の持続性もあります。
 倉先生が送ってくださった現在の観光案内資料と、この問題について先生が発表した論文によると、宮崎が観光客へ売り込んでいる材料には、戦前戦後を通じて、多くの面で持続性があります。現在の旅行案内の説明では、天皇伝説にちなむ場所を宣伝するさいに、「神話」という用語が強調される傾向があります。1940年には、こうした天皇伝説はしばしば事実として描かれていました。しかし、現在も天皇伝説は自然環境と合わせて大いに紹介されています。ここで、現在の観光用ポスターと絵葉書をお見せしておきましょう。
[写真]
 宮崎市の観光案内のスローガンが「自然と神話と食の宝庫」となっていることもつけ加えておきましょう。
 こうしたつながりを、はたして1940年からつづく持続性とみるか、それとも非持続性ととらえるべきかは、何ともいえません。しかし、この80年来、近代化は世界じゅうで、絶え間なく進展しました。中国は近代化されました。何千万、いやおそらく何億もの中国人が、いまでは少なくとも年に一度、余暇旅行ができるだけの収入を得るようになっています。これは1940年までに日本人の多くが達成していたことでした。1940年には、驚くほどの数の日本人が、アジア大陸を訪れ、たとえば旅順などの場所を楽しんでいたものです。
 中国では2017年にいたるまで、猛烈な勢いで、国の史跡景観がおびただしく開発されています。その史跡景観で強調されるのは、長期にわたる中国の栄光だけではなく、「屈辱の世紀」のあいだ中国が堪え忍んできたトラウマについてでもあります。現代中国の旅行部門は、1940年まで日本の旅行部門が経験した近代化の局面を同じように横断しています。
 中国を統治する政権は、革命的社会主義をとりやめ、次第にナショナリズムを持ちだして、自己を正統化するようになっています。そのため、中国では国の史跡の場所でくり広げられる語り口は、実質的に中央政府によって統制されているといってよいでしょう。踏み越えてはならない境界や、口にしてはならない話題があるわけです。おおざっぱにいうと、これは1940年の日本の史跡景観でも同じでした。とりわけ天皇がらみの場合は、決まり切った言い方しか許されていませんでした。国の史跡景観を統制する政府の役割を、どう比較すればよいかは、私の定義する近代性のもうひとつの側面、すなわち強力な中央集権政府のあり方とかかわってきます。
 21世紀の宮崎は、積極的に韓国人や中国人の観光客を迎え入れています。そのことは、宮崎が多くの言語のなかでも、韓国語や中国語の案内パンフレットを発行していることをみてもわかります。
[写真]
 中国人旅行客は、きれいな空気と概して快適な自然環境を求めて、宮崎にやってきます。それは何十年間も、日本人を引きつけてきたのと同じ要因です。私は、自分の大学の中国人大学院生に頼んで、中国のウェブサイトで、宮崎が中国の旅行客にどのように宣伝されているかを調べてもらいました。またかつて宮崎を訪れた中国人旅行客がネットにどのような旅行記録を書き込んでいるかも分析してもらいました。
 その結果はきわめて暫定的なものでしたが、私が感じたのは、宮崎の観光産業とつながりのある人物なら、その調査をみてほっとするのではないかということでした。その調査では、中国の旅行客は、たとえば「平和の塔」が平和的な歴史にはほど遠いつながりをもっていることなどに、まったく無頓着でした。……したがって、私の知るかぎり、宮崎自体は、まったく「中国問題」をかかえていないことになります。
 しかし、日本は全体として、台頭する中国と向き合わねばなりません。中国と日本の関係は、中国側のいう「屈辱の世紀」によって、いまも形づくられています。中国が自由民主主義国でないことは明らかです。ですから、日本人が暗い歴史の側面についても、自由に論じることができるのに、中国人は中国共産党がもたらした暗黒の断面を含め、自国の歴史をありのままに表現することが許されないのです。みなさんが次のことをご存じかどうかわかりませんが、私を含め日本史の国外専門家は、中国のマスメディアから日本史の暗い側面について聞かれても、それについて意見を述べようとしなくなっています。その理由は単純です。そのあと、われわれのコメントがプロパガンダ目的に利用されることが目に見えているからです。中国は異質な政治システムをもっているため、公平な立場で中国側と歴史について論じることはきわめて困難です。
 にもかかわらず、日本人は誤った側面を含め、みずからの近代史に誠実であるべきだと思います。そして、それは何よりも自身のためでもあります。私はそれがアメリカ人の場合でも、またアメリカの歴史にたいしても、同じ必要性を感じます。日本人のなかには「謝罪はもうたくさんだ」という人がいるかもしれませんが、私は日本人にとってもっとも正しいのは、帝国日本の行動が中国や朝鮮などの場所で人びとにどのような影響をおよぼしたかを理解するよう努めることだと思います。
 そこで、歴史家としての私からみれば、たとえば宮崎県は「平和の塔」を次のような史跡に転換するのがよいと考えます。その施設では、悪意に満ちた国家イデオロギーが支持されることで、歴史がねじ曲げられ、悪用されるならば、史跡が嫌悪すべき危険な手段となることが、はっきりと強調されねばなりません。率直にいって、この塔を安直に「平和の塔」と改称したことには、少なからぬ問題があります。この塔は、次世代の日本人のために、自国優先で対外強硬的なイデオロギーがいかに危険かを示す教育の場に変えていくべきだと思います。しかし、はたして宮崎県当局者は、私の提案を聞き入れてくれるでしょうか。残念ながら、そうは思いません。おそらく私の提案は日本の尊厳の守護者を自任する右派の人びとを憤激させることになるでしょう。
 現在、日本が直面する「中国問題」はじつにやっかいなものです。残念ながら、中国が何を意図しているかをはっきりと推し測る手段はないといってよいでしょう。願わくは、中国の意図が平和的なものでありつづければよいのですが、残念ながら、それが確かかどうかを明確に知る手段はないのです。
 それゆえ、講演を聴いておられるリベラル左派の方々は困惑するかもしれないのですが、私は率直に申し上げて、日本は中国にたいしてだけではなく、全般的に「反省しつつ、けっして弱腰ではない」政策をとるべきではないかと思うのです。「反省しつつ、けっして弱腰ではない」というのは、日本がいっぽうで帝国主義的な過去を反省しつつ、中国ならびにその他近隣諸国による脅威を抑止しうるに足る、じゅうぶんな自衛力をしっかりと築くべきだということです。
 とはいえ、日本はソフトな言い方のアプローチをとりつづけることが、だいじなのではないでしょうか。それは、たとえばこのような言い方です。「われわれ日本人は過去に近隣諸国の人びとに損害を与えたことをじゅうぶんに自覚しています。しかし、それでも、われわれは現在みずからを守る権利を有しており、日本が『再軍備』しているなどと、安直に非難するのはまちがっています」。そんな言い方です。私自身はおおむねリベラル左派の側に属していると思っておりますが、日本のリベラル左派の友人たちにはたいてい同調できません。というのも、彼らは近隣諸国の脅威に対処するために日本の防衛力を強化するのはいけないことだと考えているからです。
 さて、2020年のオリンピックが近づくにつれて、日本は世界にみずからの姿を示す時期になってきますが、私は日本の方向性として「反省しつつ、けっして弱腰ではない」という考え方を提示してみました。
[ご静聴ありがとうございました。]



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