伊勢──栗田勇『芭蕉』から(10) [芭蕉]
小夜の中山は、東海道は金谷宿と日坂(にっさか)宿のあいだの峠。標高はさほどでもないが、急坂なので、旅人は難儀する。芭蕉は早朝、金谷から馬で峠までのぼった。途中、うとうとしていたので、小夜の中山に着いたといわれて、びっくりし、目が覚めたのである。
西行ゆかりの地、小夜の中山をうかうかと通り過ぎるわけにはいかない。
西行(1118-90)はここで次のような歌を詠んでいた。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけりさよの中山
絶唱である。年をとって、もう一度越えることなど無理と思っていた小夜の中山を越えたのだ。いつ消えるともしれぬ命のなかで、いま宇宙にたったひとつあるこの命のありがたさを思わないわけにはいかない。
西行の歌に芭蕉は和している。
命なりわづかの笠の下涼ミ
この句は『芭蕉句集』にとられたもので、小夜の中山を越えたときの句ではないかもしれない。
それでも、このとき芭蕉の脳裏に西行の歌が響いていたことはまちがいない。西行の命には、とてもおよびもつかないが、自分もちいさなこの命を生きているのだ。
折口信夫流にいえば、芭蕉にとって西行の歌は、ひとつの「らいふ・いんできす(命の指標)」にほかならなかった。
ここで『野ざらし紀行』は一気に伊勢に飛んでいる。
貞享(じょうきょう)元年(1684)8月中旬[現在の暦なら9月下旬]に、門人千里(ちり)とともに江戸深川を出発した芭蕉は、8月末、伊勢に到着した。伊勢まで10日少しかかっている。
こう記している(現代語訳)。
〈松葉屋風瀑(まつばやふうばく)が伊勢にいるのを尋ね訪れて、10日ばかり足をとどめた。
自分は武士のように腰に刀を差しておらず、首に頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、手に18個の数珠をもっている。
僧に似てはいるが、世間の塵にまみれている。かといって頭の髪がないので、俗人でもない。私は僧でないけれど、浮屠(ふと)[ホームレス]のたぐいであって、神前に入ることを許されない。
日暮れて外宮に詣でた。一の鳥居の下はほの暗く、御燈(みあかし)がところどころに見え、[西行の歌った]このうえもない峰の松風が身にしむように覚えて、感動のあまり、
みそか月なし千歳(ちとせ)の杉を抱く嵐〉
松葉屋風瀑(?-1707)はいわゆる御師(おんし)の家柄で、江戸に滞在したとき、談林派の素堂や芭蕉と親交があった。
伊勢参りを案内するのが御師だ。逆に、御師に頼まなければ、伊勢参りができなかった。
滞在先としては気楽だった。
芭蕉は僧形をし、頭を丸めているため、内宮、外宮とも三の鳥居より内での参拝は許されない。僧には穢(けが)れがあるとみなされたからである。
そのため、芭蕉は内宮にははいらず、外宮の一の鳥居のところまで行き、はるかに清浄の場を拝し、西行も味わったであろう森厳の気を感じたのである。
みそか(30日)なので月は出ていない。千古の神杉を嵐気(らんき)、すなわち山の気配が包みこんでいる。そのさまに、芭蕉は心打たれた。
宇治山田に10日間滞在するうち、芭蕉はいわゆる西行谷も訪れている。西行谷は、西行が草庵をむすんでいたとされる谷である。あくまでも伝説にすぎないが、西行と聞けば、そこを訪れてみるのが、いかにも芭蕉である。
芭蕉が訪れたころ、ここには神照寺という寺があった。現代の五十鈴公園の南側あたり。内宮からはさほど離れていない。ふもとには五十鈴川から分かれた小川が流れていた。
芭蕉はおよそこう記している(現代語訳)。
〈西行谷のふもとに小川が流れていた。女どもが芋を洗っている。それを見て、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
その日の帰り、ある茶店に立ち寄ったところ、蝶という女が「あたしの名前で句をつくってみて」といい、白い布をだすので、それにこう書きつけた。
蘭(らん)の香や蝶の翅(つばさ)に薫物(たきもの)す
さらに閑人の茅舎(ぼうしゃ)を訪れたときの句。
蔦(つた)植ゑて竹四五本の嵐かな〉
川で芋を洗う女を見て西行を思うのが、いかにも芭蕉らしい。
おそらく天王寺江口の遊女と西行の交流を思い浮かべたにちがいない。
栗田勇は、聖から俗への反転に、俳諧の即興と滑稽のおもしろさがあるとしたうえで、この句を「芋洗うせせらぎに白い女のふくらはぎ、洗われた芋の白さ、そして月光の砕け散る川のせせらぎの輝きを連想させる趣深い俳諧と思われる」と評している。
茶店の女将(おかみ)に頼まれて、芭蕉が即興で句をしたためる場面も楽しい。さぞかし、色っぽい女将だったのだろう。
おや蘭の香りがするぞ。蝶の羽根(お蝶さんのたもと)には、香がたきしめてあるのかな。
漢詩の風格を保ちながら、くだけてみせるところに滑稽の妙味がある。
そのあと、句は風雅の境地へと転調する。
伊勢には神々しさと派手な遊興が融合していた。
その静けさとにぎやかさの混沌をよそに、閑居を保っている人もいる。
その茅屋にはツタがからまり、四、五本植えられた竹のあいだを風がそよいでいる。芭蕉はこんな住まいが好きなのだ。
西行ゆかりの地、小夜の中山をうかうかと通り過ぎるわけにはいかない。
西行(1118-90)はここで次のような歌を詠んでいた。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけりさよの中山
絶唱である。年をとって、もう一度越えることなど無理と思っていた小夜の中山を越えたのだ。いつ消えるともしれぬ命のなかで、いま宇宙にたったひとつあるこの命のありがたさを思わないわけにはいかない。
西行の歌に芭蕉は和している。
命なりわづかの笠の下涼ミ
この句は『芭蕉句集』にとられたもので、小夜の中山を越えたときの句ではないかもしれない。
それでも、このとき芭蕉の脳裏に西行の歌が響いていたことはまちがいない。西行の命には、とてもおよびもつかないが、自分もちいさなこの命を生きているのだ。
折口信夫流にいえば、芭蕉にとって西行の歌は、ひとつの「らいふ・いんできす(命の指標)」にほかならなかった。
ここで『野ざらし紀行』は一気に伊勢に飛んでいる。
貞享(じょうきょう)元年(1684)8月中旬[現在の暦なら9月下旬]に、門人千里(ちり)とともに江戸深川を出発した芭蕉は、8月末、伊勢に到着した。伊勢まで10日少しかかっている。
こう記している(現代語訳)。
〈松葉屋風瀑(まつばやふうばく)が伊勢にいるのを尋ね訪れて、10日ばかり足をとどめた。
自分は武士のように腰に刀を差しておらず、首に頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、手に18個の数珠をもっている。
僧に似てはいるが、世間の塵にまみれている。かといって頭の髪がないので、俗人でもない。私は僧でないけれど、浮屠(ふと)[ホームレス]のたぐいであって、神前に入ることを許されない。
日暮れて外宮に詣でた。一の鳥居の下はほの暗く、御燈(みあかし)がところどころに見え、[西行の歌った]このうえもない峰の松風が身にしむように覚えて、感動のあまり、
みそか月なし千歳(ちとせ)の杉を抱く嵐〉
松葉屋風瀑(?-1707)はいわゆる御師(おんし)の家柄で、江戸に滞在したとき、談林派の素堂や芭蕉と親交があった。
伊勢参りを案内するのが御師だ。逆に、御師に頼まなければ、伊勢参りができなかった。
滞在先としては気楽だった。
芭蕉は僧形をし、頭を丸めているため、内宮、外宮とも三の鳥居より内での参拝は許されない。僧には穢(けが)れがあるとみなされたからである。
そのため、芭蕉は内宮にははいらず、外宮の一の鳥居のところまで行き、はるかに清浄の場を拝し、西行も味わったであろう森厳の気を感じたのである。
みそか(30日)なので月は出ていない。千古の神杉を嵐気(らんき)、すなわち山の気配が包みこんでいる。そのさまに、芭蕉は心打たれた。
宇治山田に10日間滞在するうち、芭蕉はいわゆる西行谷も訪れている。西行谷は、西行が草庵をむすんでいたとされる谷である。あくまでも伝説にすぎないが、西行と聞けば、そこを訪れてみるのが、いかにも芭蕉である。
芭蕉が訪れたころ、ここには神照寺という寺があった。現代の五十鈴公園の南側あたり。内宮からはさほど離れていない。ふもとには五十鈴川から分かれた小川が流れていた。
芭蕉はおよそこう記している(現代語訳)。
〈西行谷のふもとに小川が流れていた。女どもが芋を洗っている。それを見て、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
その日の帰り、ある茶店に立ち寄ったところ、蝶という女が「あたしの名前で句をつくってみて」といい、白い布をだすので、それにこう書きつけた。
蘭(らん)の香や蝶の翅(つばさ)に薫物(たきもの)す
さらに閑人の茅舎(ぼうしゃ)を訪れたときの句。
蔦(つた)植ゑて竹四五本の嵐かな〉
川で芋を洗う女を見て西行を思うのが、いかにも芭蕉らしい。
おそらく天王寺江口の遊女と西行の交流を思い浮かべたにちがいない。
栗田勇は、聖から俗への反転に、俳諧の即興と滑稽のおもしろさがあるとしたうえで、この句を「芋洗うせせらぎに白い女のふくらはぎ、洗われた芋の白さ、そして月光の砕け散る川のせせらぎの輝きを連想させる趣深い俳諧と思われる」と評している。
茶店の女将(おかみ)に頼まれて、芭蕉が即興で句をしたためる場面も楽しい。さぞかし、色っぽい女将だったのだろう。
おや蘭の香りがするぞ。蝶の羽根(お蝶さんのたもと)には、香がたきしめてあるのかな。
漢詩の風格を保ちながら、くだけてみせるところに滑稽の妙味がある。
そのあと、句は風雅の境地へと転調する。
伊勢には神々しさと派手な遊興が融合していた。
その静けさとにぎやかさの混沌をよそに、閑居を保っている人もいる。
その茅屋にはツタがからまり、四、五本植えられた竹のあいだを風がそよいでいる。芭蕉はこんな住まいが好きなのだ。
2017-09-15 07:52
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