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資源収奪に頼らない暮らし──『これがすべてを変える』を読む(6) [本]

 ファーストネーションとはイヌイットを除くカナダ先住民の総称で、昔のようにインディアンという言い方はされない。カナダには630以上のファーストネーションの共同体があり、その半数以上がブリティッシュコロンビア州やオンタリオ州で暮らしている。
 カナダでは憲法により、先住民の権利が認められており、かれらはみずからの土地を守るため、化石燃料採掘やパイプライン建設にたいする反対運動をくり広げている、と著者はいう。
 そして、それはカナダに限られるわけではない。アラスカでもボリビアでもアマゾンでもオーストラリアでも、世界中で先住民が立ち上がりはじめた。
 各国政府は依然として先住民の同意を得ないまま採掘プロジェクトを推進している。先住民はたしかに貧しく、社会的な力ももたない。しかし、著者によれば、そうした不利な立場に置かれているもかかわらず、かれらは化石燃料掘削プロジェクトにたいし、次々と訴訟をおこしているのだという。
 大企業相手の訴訟は見るからに勝ち目がなさそうだ。だが、先住民による訴訟は、いまや非先住民のあいだにも共感を生みつつある。カナダ政府は規制緩和によって、大規模掘削プロジェクトの道を切り開こうとしていた。しかし、これにたいして「もう黙っていられない(アイドル・ノーモア)」という運動が各地で巻き起こったのだ。
 とはいえ、開発が進むにつれ、先住民コミュニティへの経済的プレッシャーが強くなるのも事実だ。石油・天然ガス産業は、住民に生活費の援助や職業訓練などの提供を約束することによって、コミュニティを支配しようとする、と著者は指摘する。
 化石燃料の採掘に反対する先住民の闘いは貴重である。その闘いは支援されなければならない。しかし、ここで著者は問うのだ。
「非先住民である人々が、地球上で最も貧しく、構造的に権利を剥奪された人々に、気候変動から人類を救う救世主になってくれと頼むのであれば、ありていに言って、私たちは彼らのために何をするのか?」
 この問いかけは重い。
 ここで、舞台はアメリカへと転じる。
 モンタナ州のノーザンシャイアンは、1970年代以来、石炭採掘企業を寄せつけなかった。だが、現在は保留地のすぐ外で新規炭鉱が認可され、鉄道も敷かれようとしている。さらに、その保留地内でも採炭企業に土地を引き渡そうとする動きもある。失業率の高さが石炭マネーの誘惑に屈しようとしているのだ。
 それでは、シャイアンが貧困と絶望から抜けだす道はないのか。ある指導者は保留地に風力と太陽光発電を取り入れるこころみをはじめた。
 著者はこう書いている。

〈再生可能エネルギーは、規模がどんなに大きなものでも、川にダムを建設したり、天然ガス採掘のために岩盤を爆破したり、原子力を制御したりするのとは反対の謙虚さを必要とする。力ずくの技術で自然のシステムを人間の意思に屈服させるのではなく、人間のほうがそのシステムのリズムに適応することを求められるのだ。〉

 エネルギーを化石燃料にではなく、再生可能エネルギーに頼ることは、人間観の転換につながる、と著者は指摘する。それは「自分たち人間が自然の主人──「神の種」──であるという神話を解体し、自然界との関係性のなかに存在するという事実を受け入れることだ」。
 家に太陽熱ヒーターを取りつけるこころみは、シャイアンのあいだで評判を呼び、ソーラー・ビジネスに加わる若者も増えてきた。そして、それが「石炭はもういらない」という運動につながっていったというのだ。
「この地域が世界に対してはっきり示したのは、化石燃料に反対する闘いにおいて、現実的な代替策の創出ほど強力な武器はないということだ」と、著者はいう。
 つまり、貧困におちいっている地域に、技能訓練や雇用、安定した収入があってこそ、資源開発と収奪、汚染に対抗できるのだ。そのためには、外部の多国籍エネルギー企業ではなく、地元民自身が主導権を握らなくてはならない。問われるのは、そのためにどのような支援をおこなうかということなのである。
 北米では化石燃料への投資を引き上げるダイベストメント運動が盛んになりつつあるという。しかし、だいじなのは引き上げた資金を、健全な地球を取り戻そうとしているプロジェクトに再投資することだ、と著者は指摘する。それによって、再生可能エネルギーの力が増してくるのだ。
 権力と闘うだけでなく、実際に再生可能エネルギーというオルタナティブの方向性を示すこと。地域社会が再生可能エネルギーを管理するプロジェクトよって、人びとの雇用を確保し、公共交通網を整備し、公営住宅を増設し、都市やコミュニティを再建することが求められている、と著者はいう。
 地中の炭素資源を掘り出さないことは、地球の気候の安定化にも寄与する。したがって、先進国はその負担にたいし資金を提供してしかるべきだ。これは「地球のためのマーシャルプラン」だ。これはいまのところ夢物語だが、あきらめるわけにはいかない、と著者はいう。
 いまのところ、先進国の温室効果ガス排出量の増加はおおむね収まり、排出源は中国やインド、ブラジル、南アフリカなどの新興国に移動している。それは多国籍企業が高消費型経済モデルのグローバル化にめざましい成功を収めたからだ。新興国が発展するのは悪いことではない。しかし、環境を汚染しながら繁栄を手に入れるのでは意味がない。
 産業革命をもたらしたのは石炭だった。そして、産業革命は不平等を拡大し、労働や資源を搾取し、現代のグローバル経済の基礎をつくりあげてきた。途上国は先進国のつくりだした不平等と貧困から抜けだすために、いまや大量の化石燃料を燃焼させ、地球環境を悪化させようとしている。
 この悪循環を断ち切るためには、どこかで妥協点をみいださなければならない。そのためには、公正な排出削減策が必要になってくる。その基準となるのは、歴史的な排出に対する責任と、その国の発展レベルにもとづいた貢献能力だ。そう考えれば今世紀末までに必要とされるCO²削減量のうち、アメリカは30%ほどを負担しなければならない、と著者はいう。
 本書の最終章には、著者自身の個人的体験にふれる記述がある。
 子ども授かるため、著者は不妊治療クリニックに通っていた。「人類だけではなく多くの種が不妊という障壁にぶつかり、無事に繁殖することが難しくなり、さらには幼い命を気候変動というこれまでなかった厳しいストレスから守ることがますます難しくなっている」のではないかと思うこともあったという。
 不妊治療をあきらめたとき、ふと妊娠していることに気づいた。しかし、原油流出事故で汚染されたメキシコ湾の湿地帯を調査しているときに流産してしまう。
 環境の悪化によって、もっとも被害をこうむるのは女性と乳幼児だ。「私たちの社会は、生殖能力を保護し、尊重すること、あるいはそれに気づくことすらろくにできていない」と嘆いた。
 不妊治療をやめたあと、救いとなったのは自然療法だった。その要点は「『ひたすら押しまくる』西洋医学の機械的アプローチとは反対に、自分に少し休息期間を与える」こと。
 それは植物でも同じことだ。伝統的な農業では、土壌の生産力を維持するために、休耕期間がもうけられていた。人間も休むことがだいじだった。
 そして、著者もいのちを授かる。出産前の数週間は、自然のままの小川に沿って、よく手入れされた小道を散歩した。産卵から孵化したサケの稚魚の姿を追い求め、またサケが自分の生まれた場所をめざし、急流を上っていく様子を思い浮かべた。そのサケもいまでは絶滅の危機にさらされている。
 人間には復元力がそなわっているという。何度も流産しながら、新しい命を授かった自分はラッキーだとも思う。ただ、人間の身体も、人間を支えるコミュニティも壊れる可能性もあるのだ、と著者は痛感する。
 著者はある作家の話を聞いて、資源収奪主義の考え方と、絶え間ない再生の物語のちがいに思いをめぐらす。

〈重要なのは、自分たち人間が地球を支配しているのではないこと、人間もまた自らが依存する大きな生きたシステムの一部にすぎないことを認めることである。偉大な環境学者スタン・ローの言葉のとおり、地球は単なる「資源(リソース)ではなく「源(ソース)なのだ。」

 資源収奪に頼らない暮らしを思いえがいてみよう。それは「継続的に再生をくり返すことのできる資源に多くを依存すること──すなわち土壌の肥沃さを守る農業手法によって食料を得、常に更新しつづける太陽・風力・波力を制御する手法によってエネルギーを得、金属をリサイクル・リユースされたものから得ること」からはじまるという。
 グローバル資本主義によって、資源の消耗があまりにも急速かつ安易に進んでいるため、「地球−人間系」が不安定化していることは、だれもが認めている。暴走する経済装置にブレーキをかける抵抗運動がはじまっている。新自由主義の行き着く先はディストピアだということに多くの人が気づきはじめた。
 温室効果ガスの排出量は毎年前年を上回り、いまも増えつづけている。早急に経済のあり方を転換しなければならない。社会を変革する運動をおこすのは容易ではない。その多くが途中で挫折し、支配階級によってつぶされてきた。
 しかし、抵抗運動がなくなることはない。気候変動への取り組みは、かつての社会運動のような派手さはないかもしれない。だが、それはすべての人にとって共通の課題であり、そこでは市民一人ひとりが活動家になるのだ、と著者は書いている。
「その闘いとは、何十年にもわたって攻撃にさらされ、無視されてきた共同性、共有、公共性、市民権という理念そのものを再構築し、再生するプロセスにほかならない」
 そして、それは人びとの世界観を変えることでもある。「すなわち、超個人主義ではなく相互依存に、支配ではなく互恵的な関係に、上下関係ではなく協力に根ざす世界観」へと。経済的価値だけがすべてではない。
 反乱はとつぜん生じ、沸騰したものとなる。それがどんなものになるかわからない。だが、そうした沸騰状況がふたたび生じることを著者は予感している。

〈しかし、次にそういう瞬間がやってきたとき、ただ世界の現状を非難し、束の間の限られた解放空間を築くだけに費やすわけにはいかない。すべての人間が安全に生きられる世界を現実につくり出すための触媒としなくてはならない。それ以下で事たれりとするには、事はあまりに重大であり、時間はあまりにも少ない。〉

 本書はきたるべき未来に向けてのメッセージなのだ。

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