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奈良から京都、大津へ──栗田勇『芭蕉』から(14) [芭蕉]

 野ざらしの旅は、俳諧の革新運動をおこし、地方都市に蕉風の拠点をつくりだすことになった、と栗田勇は書いている。いわゆる元禄文化が広がりはじめている。
 桑名、熱田以降、『野ざらし紀行』には風景の描写が少なくなり、ほとんど詞書(ことばがき)と句だけが列記されるようになる。
「故郷越年」とある。
 貞享元年(1684)11月、名古屋で『冬の日』五歌仙を巻いたあと、暮れの12月25日に芭蕉は故郷伊賀上野に戻った。
 あちこちで草履の紐を解き、杖を置き、旅寝を重ねるうちに年の暮れになったと記しながら、芭蕉はこう詠む。

  年暮れぬ笠着て草履はきながら

 世間は年の暮れで、何かと忙しくしているのに、こちらは相変わらず漂泊の旅姿。旅のうちに年の瀬を迎えている。何やらわびしいけれど、どこか滑稽でもある。
 とはいえ、いなかの家で正月を迎えられるのは、ありがたい。

  誰(た)が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年

 貞享2年(1685)は丑の年。
 どこかの新聟が嫁の実家に鏡餅を贈るさまをうたって、正月のことほぎとした。
 芭蕉は2月下旬まで、郷里に逗留したようだ。
 郷里で句会を開いたり、旧主家と交流を深めたりして、日をすごしている。
 芭蕉が『虚栗(みなしぐり)』の軽薄な句風に猛省を加えた書簡を門人に送ったのもこのころとされる。
 ちなみに栗田によれば、芭蕉はけっして松尾家やその親族のやっかい者ではなかったという。「芭蕉は江戸にあっても、いつも伊賀に在留する兄の家族や親族に心を配り、経済的援助も、無理をしつつも折あるごとに続けていた」
 伊賀の俳壇や藤堂家との深いかかわりもある。風狂であっても、名士だったといってよいだろう。
 2月中旬(新暦では3月下旬)、芭蕉は奈良に行く。
 その道の途中で詠んだ句。

  春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)

 ああ春だなあ。大和の国の山々に薄霞がかかっている。大和への思いがわきでる。
 そして、二月堂の前で祈願した。

  水取りや氷の僧の沓(くつ)の音

 水取りの業はいまもつづけられている。栗田勇によると、修行の僧が素足に大きな木の沓をはき、本堂のなかを走り回り、本尊の前で五体投地をくり返す。その音の激しさはびっくりするほどだという。
 芭蕉は寒夜の業をみたのだろう。そこには厳しい氷の僧の姿があった。

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[二月堂修二会。ウィキペディアより]

 奈良では薪能も見物したらしい。興福寺南大門の前でおこなわれたという。
 芭蕉はいったん伊賀上野に戻ってから、2月下旬、京に向かった。
「紀行」には、京にのぼって、三井秋風(しゅうふう)の鳴滝の山荘を訪れたとある。ここで半月ほどすごしたらしい。このかん、京六条にも出て、句会を開いた。
 しかし、松永貞徳以来のいわゆる貞門の影響が強い京都では、芭蕉の蕉風はなかなか受け入れられなかったようだ。栗田によれば、芭蕉の死後は、唯一、門人の去来が孤塁を守ったと記されている。
 それはともかく、芭蕉が宿を借りたあるじの三井秋風についてである。
 秋風は京都の富豪、三井三郎左衛門紹貞(しょうてい)の甥だが、『町人考見録』によると、とんでもない不行跡者で、商売ほったらかしで、ぜいたく放題、鳴滝の山荘に引きこもって、栄耀をきわめたという。黄檗宗(おうばくしゅう)に傾倒し、異形の者となったと評されている。三井家からすれば、困った変わり者だったのだろう。
 鳴滝は京都の北西郊、仁和寺の西に位置する。京福電鉄に鳴滝という駅がある、そのあたりだ。ここで芭蕉は秋風と連句の会を開いているが、『野ざらし紀行』に収録されているのは「梅林」と題する二句である。

  梅白しきのふや鶴を盗まれし

  樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな

 鳴滝にある秋風の梅林で遊んだときの句である。
 一見、よくわからない。
 栗田勇の解説によると、最初の句は、梅を植え、鶴を養って、脱俗の境地に生きた、宋時代の隠君子、林和靖(りんなせい)の故事を踏まえている。
 きょうは梅の花がどこまでも白く咲いている。それなのに鶴が見えない。おや、きのう鶴を盗まれたんでしょうか、とおどけてみせる。芭蕉は三井秋風を林和靖になぞらえ、脱俗の白い花で満ちあふれる梅林のみごとさをたたえたのである。
 さらに目を転じて、芭蕉は咲き誇る花など気にかける様子もなく、堂々と立つカシの木に、秋風の孤高をみる思いがした。それがもうひとつの句となった。
 鳴滝からは嵯峨野が近い。嵯峨野には芭蕉の門弟、向井去来の落柿舎(らくししゃ)があった。のちに芭蕉は、この落柿舎を三たび訪れることになる。
 旅の記録によると、鳴滝の山荘をでたあと、芭蕉は伏見の西岸寺に行き、任口上人と会った。まもなく桜の花が咲くころだ。
 任口上人が、すぐ帰ろうとする芭蕉を引きとめて、さだめし江戸桜が気になっておられるのだろうと詠ったのにたいし、芭蕉はこう返した。

  我が衣に伏見の桃の雫(しずく)せよ

 京伏見では桃園がみごとだったという。桃といえば3月3日の節句である。このころ(新暦では4月上旬)桃は花をつける。
 西岸寺を訪れたときも、桃の花が咲きはじめていたのだろう。芭蕉は桃園に禅林の境地をみて、任口上人との別れを惜しんだ。
 そして、芭蕉は大津へと向かう。京都からは山路を越えなければならなかった。そこに、次の句がおかれる。

  山路来て何やらゆかしすみれ草

 芭蕉はこの句に京都との別れを託した。可憐なスミレの色が脳裏に浮かぶ。
 琵琶湖が見えてくる。大津から湖岸を眺望すると、松の大木が斜めに伸びているのがわかる。そこが辛崎(からさき)だ。
 芭蕉は詠う。

  辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて

 芭蕉はこの句を、大津の医者で門下、江左尚白(えさしょうはく、1650-1722)の屋敷で詠んだとされる(別の説もある)。
 辛崎(それは唐崎でも韓崎でもある)には神社があり、松が植えられている。
 芭蕉は山桜と重ねあわせて、おぼろにとらえた辛崎の松の雄渾さをたたえる。そこには古代からの時が流れていた。

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[広重、近江八景より「辛崎夜雨」。ウィキペディアより]

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