SSブログ

レヴィンソン『例外時代』を読む(1) [本]

41r3uu6FaAL._SX344_BO1,204,203,200_.jpg
 本書は20世紀後半の経済史である。
 著者のマルク・レヴィンソンはこの時代を、はっきりふたつに分けている。
 第一期が「世界の多くの地域で異常なほどの好景気が見られた時期」。第二期は経済成長が失速し、「繁栄のぬくもりが冷たい不安感に取って代わられた」時期。その分水嶺となったのは1973年。石油ショックの年だ。
 第一期は「黄金時代」だった。しかし、それは長くつづかない。

〈時代の流れを見れば、黄金時代はごく短いものだった。瓦礫だらけの世界から花開いて四半世紀も経たないうちに、着実に改善していく生活水準と誰もが仕事を手に入れられるという想像を絶するほどの繁栄の真っただ中で、その時代は突然に終わりを迎えたのだ。……あの長い好景気は、二度と訪れることのない一度限りの出来事だったのかもしれない。〉

 戦後直後の四半世紀、日本でいう高度成長期は、経済史のうえでは黄金期の「例外時代」であって、その後はジェットコースターのように激しく上下する通常の経済状態が再開された、と著者はみているようだ。
 こうした見方には異論もあるだろう。いまはそのことを問わない。とりあえず素直に読むことにしよう。ただし、例によって、年寄りらしく、よたよたとしか進まない点は、ご寛恕のほど。
 はじめに、1945年から1970年代初頭は、歴史上もっとも驚異的な経済発展が生じた時代だった、と著者は書いている。この時代に人びとのくらしは大きく変化した。
 戦後直後は、戦争で経済が疲弊しきったなかで、だれもが経済の奇跡がおこるなどとは思っていなかった。平和が訪れたとき、まず求められたのは福祉だった。1945年から46年にかけ、イギリスでは子ども手当や失業保険、老齢年金、寡婦補助金、国民健康保険などが導入された。こうした動きは各国に広がっていった。
 ヨーロッパ諸国や日本で、復興は困難をきわめた。日本では空襲により製鉄所や化学工場が壊滅していた。だが、幸いにも鉄道や発電所は残っていた。道路や橋を再建し、農業生産力を回復させるなど、やるべき仕事はいくらでもあった。
 問題は資金が足りなかったことである。工場再建のための機材や、国民のための食料を輸入することもできなかったのだ。
 ヨーロッパでもアジアでも、共産党の勢いが強くなっていた。これに警戒を強めたアメリカは、1948年にマーシャル・プランを実行に移す。こうしてヨーロッパの経済再建につとめるとともに、日本の経済復興にも手を貸すようになった。
 1948年の世界はとても近代的とはいいがたかった、と著者は書いている。アメリカで高校を卒業する若者は半分にも満たなかった。黒人にたいする人種隔離政策もつづいていた。日本人は狭い住宅でくらしていた。フランスで冷蔵庫を所有するのは30世帯に1世帯の割合。田を耕すのも、工場ではたらくのも、家事をこなすのも、すべて肉体労働が求められた。
 悲しいことに、世界経済が好調に転じるのは1950年の朝鮮戦争以降だった。軍関係の発注が経済を刺激し、工場が従業員を雇い入れるとともに、従業員がものを買うようになり、商品やサービスの需要が増えていった。
 日本の経済規模は1948年から73年にかけて6倍に、西ドイツも4倍になった。フランスも西ドイツほどではないにせよ、経済が大きく拡大した。
 アメリカでもイギリスでも、この25年間に住宅が増え、多くの庶民がマイホームを獲得した。ローマでは自転車がスクーターに変わり、すぐに2人乗りの自動車に変わった。
 1960年ごろには失業率も低くなる。アメリカ南部では新しい綿摘み機によって、多くの労働者が失業においやられた。だが、すぐにデトロイトやシカゴの工場が労働者を受け入れ、人口の「大移動」が生じる。
 年金の支給により、人びとは65歳くらいで退職できるようになり、子どもたちは親の扶養義務をまぬかれるようになった。
 著者は、こうした好景気の原因を、長年の緊縮経済によって閉じこめられていた需要と投資が一挙に解放されたためだとみている。
 技術変化も大きい。蒸気機関に代わって電気モーターが主流になると、工場も立て替えをはからねばならなかった。
 加えてベビーブームにより、新しい住居や家具、衣服が必要になった。
 国際交渉によって、輸入関税が切り下げられ、貿易が拡大していった。
 生産性の驚異的な伸びも指摘される。産業は農業から工業へと大きく転換した。新鋭設備を整えた工場が農村出身の労働者を雇い入れていく。新しい設備にたいする需要が膨らむと、機械への需要が増え、人手も必要になる。日本の製造業労働人口は1955年の690万人から1970年の1350万人へと拡大した。
 1950年代には高速道路の建設もはじまる。高速道路によって、1日に運べる距離が長くなり、交通運輸関係の生産性は劇的に増大する。より安い陸上輸送は商品の販売地域を拡大した。それにより、手作業の小さな工場より「多くの商品をより安く生産する大規模工場」が圧倒的に優位に立つことになった。
 1948年から1973年のあいだに、1時間の労働による平均生産量は、北米では約2倍、ヨーロッパでは3倍、日本では4倍になったという。これを支えたのは技術進歩と資本設備投資である。加えて、教育が大きな役割を果たした。
 この時期の特徴は、技術進歩が労働者を置き去りにしなかったことだ、と著者は書いている。

〈戦後の世界では、成功したのは富裕層だけではなかった。農業従事者や路上清掃員も、給料袋が厚くなっていくのを年々感じていた。組合は工員のために昇給と福利厚生だけでなく、雇用の確保も勝ち取った。法律や労働契約のため、雇用主が不要になった従業員を放り出すのがどんどん難しくなっていったのだ。状況は誰にとっても改善していた。〉

 保守政党も福祉国家を後押ししていた。「保守派の指導者は誰一人として、政府が経済における責任を放棄して市場に状況を支配させるべきだという考えに同調しなかった」
 さらに、著者はこの四半世紀の好景気が、資本主義ほんらいの元気さによるものではなく、慎重な経済計画によるものだったと指摘する。
 日本では、通産省が輸出入や企業の新工場計画、外国特許の許諾を統制していた。フランスでは政府が自動車工場や製鉄所の計画を立てていた。完全雇用の確保も政府の責任とされていた。そのためには赤字財政支出もやむをえないと考えられるようになった。こうして、政府が経済発展を支える体制がつくられていったのだ。
 問題はそれがごくわずかな期間しかつづかなかったことだ。
 少しずつ断続的に読んでいきたい。

nice!(7)  コメント(0) 

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント