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レヴィンソン『例外時代』を読む(2) [本]

 戦後の特徴は、経済にたいする国家の役割が大きくなったことかもしれない。政府は歳出や税、金利を調整することで、市場経済の手綱をうまくとることができるという考え方が強くなっていった。
 著者によると、たとえば、西ドイツの蔵相カール・シラーは、経済の大枠は政府が計画し、企業は市場の枠で、それぞれ事業判断をおこなうものと考えていた。経済にたいする政府の目標は、市場経済のもとで、高い雇用率と着実な成長、安定した価格、国際貿易と投資の均衡を保つことに置かれていた。
 1967年に、西ドイツ政府は今後5年間の目標として、平均4%の経済成長率、0.8%の失業率、1%のインフレ率、1%の経常黒字をかかげた。そのための政策が総動員された。だが、経済は政府の思うままに進まなかった。貿易黒字は増えすぎ、インフレが進み、労働組合のストが頻発した。1972年、シラーは蔵相を辞任する。
 政府の思わくどおりに経済が進むことは、まずないとみてよいだろう。そこには市場独自の力がはたらくからである。
 いっぽう、戦後、アフリカ、アジア、中南米の新興国でも、国の役割がおおいに期待されていた。開発途上国の特徴は、国が上からの急速な産業化を実施しようとしたことである。農業中心の貧困経済から脱出することが目的だった。そのために、開発途上国では国家統制が経済政策の中心となった。
 開発途上国の商品は、1種類か2種類に特化していた。たとえばアルゼンチンなら牛肉と小麦、ブラジルならコーヒー、チリなら銅というように。しかも、その経営はたいてい海外資本によって握られており、世界市況は景気の波により大きく変動した。
 著者はアルゼンチン出身のラウル・プレビッシュという人物に焦点をあてている。プレビッシュは1949年にキューバのハバナで開かれたラテンアメリカ経済連合体(ECLA)の会議で演説し、自由貿易の原理を批判した。中南米の貧困の根本原因は不公平な貿易にあり、巨大な工業国が得ている莫大な利益は周辺国に届いていないと訴えたのだ。
 発展途上国の力を強め、不公平な(言い換えればあまりにも低価格な)輸出商品価格を是正することが求められた。加えてプレビッシュは、政府が主導して製造分野を開拓し、特定の輸入製品を国産製品で置き換える「輸入代替」政策をとることで、新興国の自立をはかろうと提言した。
 この提案は1955年4月にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議でも受け入れられることになった。こうして、資本主義とも社会主義ともことなる「第三世界」という区分が生まれた。
 原料価格を安定させながら、製造業を発展させていくというプレビッシュの考え方は、先進国の反発を招いた。というのも、先進国は開発途上国からできるだけ安い原料を手にいれるとともに、開発途上国にできるだけ多く自国製品を輸出したいと望んでいたからである。
 それが「開かれた自由市場」というもっともな主張に隠されていた、ほんらいの意図である。先進国はむしろ高い貿易障壁をもうけて、開発途上国によるアクセスをはばもうとしていた。
 だが、開発途上国側も黙ってはいなかった。
 先進国と開発途上国側の対立を調整するためつくられたのが「関税および貿易に関する国際協定(GATT)」と、国連貿易開発会議(UNCTAD)だ、と著者は述べている。
 開発途上国は、先進国に対抗するため、スズ、コーヒー、砂糖、油などの輸出商品について、カルテルを結び、価格を安定させようと努めた。そのいっぽう、政府が銀行や船会社、航空会社をつくって、国内の雇用を確保しようとした。
 だが、それはなかなかうまくいかない。多くの開発途上国にとって、20世紀の第3四半期は、ほんとうにひどい時代だった、と著者は書いている。それは戦争や反乱、内戦、自然災害、飢餓の時代だった。それでも、穀物や鉱物への依存から脱却して産業化をとげようとした国も多い。ケニアやパキスタン、ボリビアもそうだったという。
 だが、国が主導する経済は、次第に腐敗と癒着を生んでいく。指導者の親族などが、もうかる独占企業を手に入れて巨万の富を築いたのにたいし、貧しい農民はおきざりにされたままだった。
 1960年から74年にかけては、先進国の好調な経済に支えられて、開発途上国でも、輸出食料や輸出原料の価格が上昇し、それなりに経済がうるおった。ところが先進国の経済が1973年に破綻すると、原料にたいする世界需要が落ち込み、途上国ほんらいの姿があらわになる。政府が繁栄を保障し、全国民の生活水準を上げるという考えはインチキだった、と著者は論じている。
 われわれは戦後経済というと日本経済と、せいぜい米国経済のことしか意識しない。しかし、本書は開発途上国の状況を念頭におくことがいかにだいじかを教えてくれる。
 ここで、場面は米国へと転じる。
 米国のニクソン大統領は経済にはあまり興味がなく、経済のことは連邦準備制度理事会(FRB)議長となるアーサー・バーンズ(コロンビア大学教授)にまかせきりだった、と著者は論じている。だが、その経済音痴のニクソンが、世界経済の動きを一気に変える経済政策を決めたというのは、皮肉といえば皮肉だろう。
 FRBは経済への資金の流れを締めたり緩めたりすることで、経済全体のパフォーマンスを調整する役割を担っている。FRBの役割をめぐっては大きな論争があった。失業率を抑えることを優先すべきだという考え方と、インフレ率を抑えることを優先すべきだという考え方である。ニクソンは両方を抑えてもらうことをバーンズに期待した。
 バーンズ自身は金融政策だけでインフレが収まるわけではないことを知っていた。実際、アメリカのインフレは1971年前半にすこし落ち着いただけで、ふたたび上昇しはじめる。
 だが、このことが1944年以来のブレトン・ウッズ体制の崩壊をもたらすことになる。ブレトン・ウッズ体制のもとでは、米ドルを基軸として為替レートが固定されていた(たとえば1ドル=360円)。加えて、海外で余ったドルを35ドル=1オンスの金(きん)でアメリカが引き取る約束になっていた。
 しかし、1968年段階で、すでにドルは海外にあふれており、実際に余ったドルを金に交換できる状況ではなくなっていた。1971年8月、ニクソンは金ドル交換の停止と、賃金・物価の90日間停止を発表した。これが、いわゆるニクソン・ショックである。
 金ドル交換の停止は為替レートの安定にはつながらなかった。金融市場にはむしろ混乱が広がった。そのため1971年終わりにスミソニアン協定が結ばれ、ほかの通貨にたいしドルを切り下げる(たとえば1ドル=308円)という弥縫策が打ち出された。
 そんななか、FRB議長のバーンズは金利引き下げに走る。1972年の大統領選挙を前に、ニクソンから経済に弾みをつけるよう求められていた。アメリカでは、インフレが多少進んでも、景気がよくなれば、それでかまわないという考えが主流だった。じっさい、アメリカでは金利引き下げによって失業率が下がり、ニクソンは楽々再選をはたした。
 ところが、安易な金融政策のつけがすぐに回ってくる。インフレは収まることがなく、固定為替制度の崩壊を招くことになるのだ。著者は、次にそのあたりの状況を詳しく分析しようとしている。

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