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安定均衡──マーシャル『経済学原理』を読む(12) [経済学]

 最近は集中力も記憶力もますますダウンしている。
 前にマーシャルの『経済学原理』を読んだのはいつのことだったか。読みとおしてみたいと思いつつ、いつも途中で挫折してしまう。
 それは山登りにも似ている。だが、80歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎さんの例もあるから、あきらめないことがだいじだ。
 というわけで、また戻ってきた。
 第5編の「需要・供給および価値の一般的関係」にはいろうとしている。日本版では第3巻にあたる。それを少しずつ読んでみようというわけだ。
 まずマーシャルは需要と供給が出会う場、商品の売買がなされる市場について論じている。
 市場(いちば)はもともと食料などの品物が並べられる公開の場所を意味していた。だが、のちにそれはもっと広く使われ、食料にかぎらず綿花や石炭、砂糖、鉄、貴金属、証券など、すべての商品が取引される場を意味するようになった。その場は一般に市場(しじょう)と呼ばれる。
 商品はその性格によって、さまざまな市場をもつ。近隣でしかさばけない耐久性のない商品もあれば、遠隔地で大きな需要が見込める貴重な商品もある。それに応じて、市場は世界市場から僻地市場までの幅をもつ。
 市場は抽象概念だ。どんな商品であれ、商品が取引される場が市場と呼ばれる。マーシャルの時代とちがって、いまや市場は商店にとどまらずデパートやスーパー、郊外店、さらにインターネット上にも広がっている。
 その市場は空間だけでなく、時間によっても左右されるということをつけ加えておこう。
『経済学原理』では、現代の市場における普通の取引が取りあげられる。
 マーシャルが挙げているのは、小麦市場の例だ。
 まだ取引は成立していない。価格に応じて、売り手が売りたいと思う量と買い手が買いたいと思う量はことなってくる。
 日本流にアレンジするとこんなふうになる。1袋は仮に300グラムとしておこうか。

  価格    売り手   買い手
  500円   3000袋   1000袋
  400円   2000袋   2000袋
  300円   1000袋   3000袋

 ここでは400円なら売り手が2000袋市場に出したいと思い、買い手は2000袋買いたいと思う。ここで供給と需要が均衡する。
 この例はあくまでもひとつのモデルにすぎない。実際の取引の動きとはことなるかもしれない。だが、それはさておき、マーシャルは供給と需要の均衡する価格が存在すると想定している。その価格では、商品が売り尽くされ、買い尽くされることになる。
 とはいえ、価格は供給側の胸算用によって、とりあえず算出される。たとえば商品となる作物のでき、予想される収穫量などをみて判断されるだろう。
 次に穀物だけではなく、一般商品に枠を広げてみよう。
 商品をつくるには、多様な資本と労働を要する。これに商品ができあがるまでの「待忍」の費用を加えたものが商品の「真実の生産費」だ、とマーシャルはいう。つまり、生産費に適切な利潤(「待忍」の費用)を加えたものが、商品の供給価格となる。
 もちろん商品は多量に生みだされるだろうから、市場での供給価格は、商品1単位の価格で表示されることになる。さらに、実際の市場価格には流通経費も加わるだろう。
 生産者はできるだけ経費のかからない生産方法を選択する。社会もまた能率のよくない生産者より能率のよい生産者を選ぶだろう。マーシャルは、これを「代替の原理」と名づけている。
 ここでマーシャルは、一般市場とことなる労働市場の特殊性を指摘している。労働市場では「労働力の売り手は処分できる労働力をただ一単位しかもっていない」。からだはひとつだ。そのため、何が何でも職を得ようとする労働者は、低い賃金でもみずからの労働力を売りに出す場合がある。
 労働市場では、企業は供給側でなく需要側に立っている。一般市場では労働者は商品を買う側なのに、労働市場ではみずからの能力を売る側になる。企業はそうした人間の能力(人材)を買うことによって、原料や機械だけでは得られない商品価値をつくりだそうとする。したがって、労働力は単なる商品ではない、とマーシャルはいう。
 こうして、商品世界は製造物を商品化するだけではなく、人間の能力をも商品化することによって、はじめて循環していくことになる。ただし、一般商品と労働力商品とでは、その需給の流れが逆であることに注目しなければならない。つまり商品をつくる商品が労働力商品であるのにたいして、労働力をつくる商品が一般商品なのだ。
 商品に需要と供給の力関係がはたらくのは、商品世界の対位変換構造が存在するためである。商品は売り手と買い手がいて、はじめて成り立つ。労働者は売り手であると同時に買い手である。企業もまた買い手であると同時に売り手である。こうした商品世界は近代において成立した。
 商品の需要について、マーシャルは商品には一定の需要価格があるという。そして、「どんな場合にも市場に売りにだされる分量が多くなればその買い手を見いだせるような価格は低くなっていく」と論じる。
 きわめてシンプルにいうと、供給価格は前に述べたように企業の生産費(経営の租利益を含む)に一致する。新しい生産方法が導入されなければ、ふつう生産量の増加にともなって、生産費は上昇していく(収穫逓減の法則)。しかし、生産が大規模化し、手労働に代えて機械作業が導入され、人力の代わりに蒸気動力(いまなら石油や電気のエネルギー)が用いられるようになると、生産費は下がっていく。
 市場において、需要価格が供給価格より高い場合は、生産者はその商品の生産をもっと増やそうとする。逆に需要価格が供給価格より低い場合は、生産者はその商品の生産量を減らそうとする。そして、需要価格と供給価格が一致する場合には、安定均衡が生じる。
 商品の生産量と価格は、わずかに変動することがあっても、安定均衡に収束する傾向がある。ただし、この均衡点は常に同じというわけではない。需要表と供給表がたえず変動しているためである。そのため安定均衡点は常に再形成されていく。
 ここで時間の要素がはいってくる。「われわれは将来を完全に予測することはできない」と、マーシャルはいう。予想もしなかったことが起こるかもしれない。資源の枯渇、競争の激化、新商品の開発といったこともありうるだろう。アダム・スミスが述べた商品の正常価値ないし「自然価値」を設定するのはむずかしい。
「価値が効用で決まるか生産費で決まるか議論するのは、紙を切るのははさみの上刃か下刃かと争うようなものであろう」とマーシャルはいう。
 とりあえずの結論はこうだ。

〈われわれは一般原則としては、とりあげる期間が短ければ、価値にたいする需要側の影響をそれだけ重視しなくてはならないし、期間が長ければ、生産の影響をそれだけおもく考えなくてはならない、と結論してさしつかえないようである。……[長期においては]結局は持続的な諸原因が価値を完全に支配することになる。しかしながら最も持続的な原因でも変動をまぬかれない。世代の移り変わりにつれて、生産の全構造も変容していき、いろいろな事物の生産費の相対的な大きさもまったく変わってしまうのだ。〉

 われわれは新たに生まれては消えていく変動めまぐるしい商品の価値体系のなかでくらしているといえるだろう。

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