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17世紀イギリスの消費文化──論集『消費の歴史』から [商品世界論ノート]

 オックスフォード版の論集『消費の歴史』(The History of Consumption)を斜め読みしている。今回はサラ・ペネルの「17世紀イギリスの物質文化」(Sara Pennel, Material Seventeenth-Century ‘Britain’)を眺めてみた。
 著者によると、17世紀のイギリス社会は大きな変化を遂げた時代だったという。改革がなされ、交易の機会が増え、とくに王政復古後は商業界が発達して、産業への関心が高まっていった。消費を悪徳とする見方は次第に消えて、必要な商品が増えてくるのはいいことだという考え方が広まるようになった。
 とはいえ、17世紀における消費は大都市が中心であり、舶来ものや新奇なものが求められるだけで、消費活動そのものは、まだ盛んではなかったとされるのが通例だ。そして、17世紀の産業も鉱業や造船を除けば、依然として前産業的段階にとどまっており、技術水準もまだ低かったとされる。
 イギリスにとって、17世紀とはどんな時代だったのだろう。すこしイメージをつかむために、簡単に歴史をおさらいしておこう。
 厳密にいうと、この時代、イギリスという国はまだできていない。大きく分けて、イングランドとスコットランド、アイルランドという3つの王国がある。それらがイングランドを中心に連合し、イギリスという国が誕生するのは1801年のことだ。
 しかし、17世紀には実質的にイギリスが生まれていたといってもいい。1603年にエリザベス1世が死去すると、縁戚にあたるスコットランド王のジェイムズ6世がその王位を継承して、ロンドンでジェイムズ1世として即位する。これによって同君連合ができ、ステュアート王朝が発足する。
 イギリスにとって、しかし17世紀は「革命の世紀」になった。ジェイムズ1世が死に、1625年にチャールズ1世が即位すると、専制を強めようとする国王と議会との対立が激しくなり、内乱が勃発する。それに宗教対立がからんで、イングランド、スコットランド、アイルランドのあいだで戦争が勃発する。
 それを収めたのが、議会軍を率いたクロムウェルだった。1649年にはチャールズが処刑され、クロムウェルが護国卿になり、イギリスは共和制を敷く。いわゆるピューリタン革命である。
 だが、クロムウェルの統治は長くつづかない。クロムウェルが死ぬと、1660年に王政復古となり、チャールズ2世が即位する。1666年にロンドンは大火に見舞われ、街の大半が焼失した。
 1685年にはジェイムズ2世が即位するが、王位継承権をめぐる争いが発生。そして1688年にオランイェ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)がイングランドに上陸し、ジェイムズを追放して、翌年、女王メアリーとともにイングランドを治めることになる。いわゆる「名誉革命」である。
 こうしてみると、17世紀のイギリス政治史はいかにも騒乱にあふれている。だが、名誉革命以降、国王は象徴的な君主となり、トーリー(保守)とホイッグ(革新)からなる議会が実際の政治を担うことになったというところがポイントである。
 いっぽう、経済面でみると、17世紀はイギリスが大きく世界に飛躍する時代となった。エリザベス女王は早くも1600年にオランダと対抗するために東インド会社を設立している。のちにインドを植民地化することになる特許会社である。
 さらに1620年にはピューリタンの乗った「メイフラワー号」がアメリカに向けて出帆した。これ以降、イギリスは北アメリカ東部に植民地を広げていくことになる。
 フランスとのあいだでは植民地をめぐる戦争が激しくなった。国際交易が発展するなか、1694年にはイングランド銀行が設立され、1698年にはロンドン株式取引所が発足する。
 17世紀といえば、日本では江戸幕府が生まれ、島原の乱のあと、いわゆる鎖国がはじまった時代である。だが、17世紀終わりの日本もまた元禄の繁栄を迎えていたことを記憶しておくべきだろう。
 ここでイギリス国内に目を戻してみよう。そこにはどんな光景が広がっていたのだろう。この時代、国際交易が発展しはじめていたものの、国内はまだ農業社会だったといっていいだろう。
 歴史家のG・M・トレヴェリアンによると、17世紀はじめ、イングランドとウェールズの人口は400万にすぎない。人口の5分の4が農村に住んでおり、その大部分が土地を耕したり、羊を飼ったりしていたが、農業だけがおこなわれていたわけではない。村では織物や工業製品などもつくられ、市場に売りだされていた。
 都市人口は増加していたが、17世紀はじめのロンドンの人口はまだ20万人くらいである。
 作物としては小麦やライ麦、大麦、燕麦、リンゴなどがつくられていた。大麦はビールの原料となった。
 主食は肉とパン、それにビール。野菜は肉に添えて、ほんの少し食べるだけだった。靴は木靴。村は自給自足が基本だったが、亜麻や染料用の草もつくられ、牛や馬、羊が飼われ、羊からは羊毛を取っていた。
 石造りの領主の館などを別として、家は大部分が木造で、ときおり赤煉瓦が用いられることもあった。窓はまだ板ガラスではなく格子がはめられていた。
 土地を所有しているのは大貴族とジェントリー、独立自営農民のヨーマン。都市では商人の力が徐々に大きくなりつつあるが、人口の大部分を占めるのは都市と農村の賃金労働者だ。
 定期市もよく開かれていた。有名なのはケンブリッジの定期市で、年に1回、9月に3週間にわたって開かれた。
 トレヴェリアンはこんなふうに書いている(『イギリス社会史』)。

〈北部イングランドと南部イングランドは、水陸両用で運んできた品物をここで交換した。小屋がけの街がつくられ、北部の人びとはそこでホップを買い、北部に産する羊毛と毛織物を売った。ネーデルランドやバルト海地方からきた貿易商やロンドンの大商人は、ここで毛織物、羊毛、塩漬けの魚、穀物の大きな取引をした。商人が注文取りに旅行してまわる時代のくるまでは、この種の定期市は商業にとって不可欠であった〉

 この時代、手工業は徒弟制度によって支えられていた。イングランドの主な輸出品は羊毛と毛織物である。だが、インドやアメリカに交易が広がると、次第に綿製品やたばこなどもはいってくるようになり、イングランドはそれを転売することで富を蓄積していくことになる。
 ところで、本稿の著者サラ・ペネルがユニークなのは、17世紀の家庭での消費に焦点をあてていることだ。以下にそれを要約しておこう。
 サラ・ペネルによると、18世紀とちがって、17世紀の消費については、ほとんど研究されていないのが実情だという。それでも少しずつ、いろんなことがわかりつつある。
 この時代の特徴は、石炭が燃料として用いられるようになったことだという。森林を伐採しすぎたため、燃料用の薪が少なくなっていたのだ。
 石炭の利用が進んだのは首都だけではない。炭鉱に近い場所や運搬しやすい港などでも、石炭が次第に利用されるようになった。
 しかし、燃料としての石炭は、かならずしも歓迎されたわけでもない。というのも、石炭を燃やすと、有毒な煙やガスがでる。そのため室内で快適にすごすには、石や煉瓦でできた暖炉や煙突、金属製の台などを準備しなければならなかった。問題はいかに汚染を少なくし、燃焼効率のいい暖炉をつくるかにかかっていた。
 石炭の暖炉ができると、それまで薪の暖炉の上にかけていた大釜やそれを支える台などはいらなくなり、それに代わってシチュー鍋などが登場した。
 石炭は燃料として用いられただけではない。鋳物や真鍮(しんちゅう)製品、たとえばやかんやフライパン、ブリキ板などをつくるさいにも利用されるようになった。
 17世紀にはいると、家庭のなかでもふだん使いの金属製品が増え、料理のレパートリーも広がっていった。皿に温かい料理を盛って食卓に並べる習慣も根づいてきた。
 健康被害を防ぐには、石炭からでる有毒なすすやガスをできるだけ取り除くことが必要だった。銅や鉛の容器は鋳直さねばならなかった。新しい商品が生まれたからといって、消費者はそれにすっかり満足するわけにはいかなかった。
 ロンドンの富裕層やエリートの贅沢な消費が、近世イングランドを変える原動力になったことは否定しがたい。しかし、王政復古時代以前から、一般庶民のあいだでもこれまでとは異なる消費習慣が生まれようとしていた。たとえば、手袋や毛皮の帽子、ハンカチーフ、軽い洋服がはやりはじめたのもこのころからである。
 しかし、ステュアート時代の交易で特徴的なのは、アメリカやカリブ海の植民地からタバコがはいってきたことかもしれない。タバコは庶民のあいだにも、喫煙習慣を生みだした。ジェイムズ1世とチャールズ1世、2世の時代にタバコが大西洋交易にもたらした影響はけっしてちいさくない。
 喫煙が容易にできるようになったのは素焼き陶製パイプのおかげである。こうしたパイプがウェストミンスターでつくられたのは1619年のことで、タバコがはじめてイングランドに到来してから50年もたっていない。首都や港町では、一挙に喫煙の習慣が広まった。イングランド、スコットランド、ウェールズ、海外植民地にも、パイプ製造所が次々つくられていった。
 喫煙のためには、たばこ入れなどの道具も必要だった。17世紀にタバコがどこまで広がっていたかを確かめるすべはない。とはいえ、タバコが大量生産され大量消費された最初の商品だったことはまちがいない。毎年、どのくらいパイプが製造されたかを知るのは不可能だが、少なくとも数十万本にのぼったと思われる。それは非常に安価だった。
 当時のパイプは消耗品で、短い期間しか使わず、いわば使い捨てだった。たばこを吸ったあとは、割るか捨てるかするのが普通だった。それでもたばこ消費が広がる妨げにはならなかった。こうして喫煙は17世紀イギリスの日常光景となっていく。
 ほかにも日常的な品物が大量につくられるようになった。たとえば飲み物のカップ。暖炉や台所用に多くの金属製品がつくられている。
 真鍮(しんちゅう)の指ぬきなどもそうだ。イングランドで、その製造が機械化されるのは17世紀後半のこと。指ぬき自体は昔からあったが、イングランドでそれが使われるようになるのは15世紀からだ。製造工程が機械化されるまでは、手作りだった。
 その機械化に成功したのは、そのころイングランドに移住したオランダの職人ジョン・ロフティングである。彼はバッキンガムシャーのマーローに工場をつくり、大量に指ぬき製品を生みだした。指ぬきには大量の需要があると見込んでいたのだ。
 裁縫に指ぬきはかならずしも必要ないかもしれないが、使ってみれば、その便利さは圧倒的だった。しかも値段が安く、商品としても簡単に持ち運べたから、各地に広がっていく。女性にとっては、なくてはならない小物で、それぞれお気に入りの指ぬきを選ぶことができた。
 17世紀の家庭のなかで品物の保存や修繕はどのようにおこなわれていたのだろう。たんすのなかの衣服にも注目してみなければならない。消費者にとって大きな課題は、衣服からティーカップにいたるまで買い入れた品物をどうやって長持ちさせるかだった。しかし、17世紀以降は、これまでなかったものを取り入れるという傾向も強まってくる。
 18世紀になってからも、消費者が重点を置いたのは、品物の見かけよりも耐久性だった。簡単に商品の取り替えや補給がきかなかったからである。質素倹約と品物をだいじに取り扱うことが求められていた。修繕と中古利用の文化が行き渡っていたといえる。
 使い古しのリネンはそのまま捨てるのではなく、刻んで雑巾やハンカチーフにしたり、ボロとして売られたりした。錫(すず)のポットがへこんだときは、修繕屋に直してもらうか、とかしてつくりなおすかした。舶来物も捨てることはせず、何かにうまく利用するのがふつうだった。
 17世紀には中古の家具や台所用品、農業用道具などを売るマーケットもできている。そうした品物を売るのは、破産や困窮、資産の処分、移住などが原因だったかもしれないが、マーケットの開催はなかなか手にはいらないものを手に入れる絶好の機会を与えてくれたはずである。
 17世紀の多様な生活は、新しい商品に加えて、メインテナンスや修繕のうえに成り立っている。生地によって洗濯の仕方をどう変えるかとか、布地にポケットをどうやってつけるかという知識も普及するようになった。
 ここにあるのは、手に入れたものをできるだけ長持ちさせ、新しいものにみせる工夫だった。新しい品物にはやはりかなわなかった。しかし、まだ使えるものは、とっておいて、できるだけほかのものとして利用するというのが、この時代の考え方である。こうした姿勢は近代になってからも長くつづいた。とはいえ、ものをだいじにするという姿勢は17世紀にはそれ以降よりもずっと強かったと思われる。
 壊れたグラスの修理法は、すでに16世紀終わりの本に紹介されている。しかし、陶器の修理法が紹介されるのは、やっと1670年になってからである。
 ロンドン近辺で染めた更紗(さらさ)がつくられるようになるのは17世紀後半になってからだ。このころから染めがおこなわれていたことがわかる。当初は洗濯すると色落ちしたが、だんだん工夫されて丈夫で多彩な更紗ができ、その値段も下がっていった。
 更紗は当初、リネンに代わるものとしてベッドカバーやカーテンに用いられ、しだいにペチコートや洋服にも使われるようになった。染めがしっかりしていて鮮やかなこと、それに乾きやすいことが喜ばれた。関心が寄せられたのは、その耐久性だった。18世紀にはいると、下層階級のあいだにもカラフルな洋服があふれてくるようになる。こうしてイギリスの日常生活も次第にはなやかなものとなっていった。
 こんなふうに著者の研究を抜粋していると、徳川時代の日本、とりわけ元禄時代との比較もしてみたくなるのだが、東と西は遠いようにみえて、意外に近くつながっているようにも思えてくる。
 日本人の衣服が、麻から木綿に変わりはじめるのも元禄時代だ。藍染めの伝統は古くからあった。タバコをのむ習慣が広がったのもイギリスと同じく17世紀半ば以降ではないか。炭焼きと囲炉裏の文化も定着した。
 いろいろ想像はふくらんでくるが、本日はとりあえずこんなところでおしまいにしよう。消費の文化はなかなかおもしろい。



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