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商店街の話 [時事]

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 新雅史(あらた・まさふみ)の『商店街はなぜ滅びるのか』を読んだ。著者は1973年生まれで、実家は北九州市の酒屋だったという。著者が東京大学の大学院にはいったころ、両親は酒屋をたたんで、近くにコンビニを開いた。まわりにあった多くの店は次々つぶれていた。

〈わたしの両親は、コンビニを経営できているだけ、恵まれているのだと思う。酒屋を廃業してそのまま行方が知れなくなった者、あるいはコンビニなどの新しい事業に手を出して自殺してしまった者は、わたしの地元だけでも何人もいる。〉

 なんだかせつない。
 でも、いまはほとんどシャッターの下りた商店街も、かつてはにぎやかな時代があったのだ。
 それは1960年代から70年代にかけてのことだ。
 当時、日本ではサラリーマンが増えていた。しかし、自営業者もまだ多かったのだ。農業者も含むと、その数は900万人。その多くが商店の経営主だった。
 そもそも商店街はいつごろできたのだろう。
 著者はその歴史を追っている。
 商店街はけっして古くからあったわけではない。それは20世紀初頭の都市化に応じて「発明」されたものだ。「商店街とは20世紀になって創られた人工物である」と著者はいう。
 第1次世界大戦後、離農者が増えて、都市に出て商売をする者が増えてきた。離農者はかならずしも工場労働者になったわけではない。町でとりあえず商売をしてみようという人が多かったというのだ。もちろん、町には昔からのしにせもあったわけだけれど。
 大正時代終わりには、百貨店や協同組合も生まれている。商店街は百貨店や協同組合と対抗するかたちで誕生した、と著者はみる。家族経営で資力も少ないさまざまな専門店を同じ場所に集めて、通りを整備すれば、客も集まるはずだ。そう考えて、商店街がつくられた。このあたりは、もっと実証研究が必要かもしれないが、商店街はいわば横に広がる百貨店だったという指摘はおもしろい。それは20世紀はじめに生まれた小売りモデルだった。
 商店街は都市の繁華街だけではなく、ちいさな町にもつくられていった。町づくりと商店街がセットになっていた場合もある。
 1935年ころから小売業者の組合は自主規制をはじめる。たとえば酒屋や米屋は一定地域に1軒だけと決められていた。
 1937年には百貨店法が成立し、百貨店の出店が許可制になった。1938年には酒類の販売が免許制になった。
 こうして大型店と商店街、小売店の規制と棲み分けがはじまる。

 日本各地で商店街がつくられるのは、どちらかというと戦後になってからだ。著者は1946年から73年にかけてが商店街の安定期としている。
 戦後、政府は零細小売商の保護政策に乗りだした。GHQによっていったん廃止された百貨店法は1956年に復活し、百貨店の新増設や営業時間に規制が設けられるようになった。
 1957年には中小企業団体法がつくられ、中小企業の権益が強化され、中小企業が大企業と交渉することも可能になった。消費者の利益を守るため消費者団体連絡会も結成されている。
 1959年には小売商業調整特別措置法(商調法)がつくられる。生協や購買会(企業が従業員の福利厚生のために設けた小売事業)の活動を規制し、零細小売商を守るための法律だといってよい。
 1962年には商店街振興組合法が施行され、政府から商店街に無利子融資や補助金が交付されることになった。これによってアーケードをつくったり、道幅を広くしたりする商店街の整備が進んだ。
 このころ登場したのが流通革命論だ。流通のムダを省いて、小売業の合理化をはかるため、スーパーマーケットを推進すべきだと訴えていた。
 その波に乗って登場したのが、ダイエーの中内㓛だ。1957年に大阪で創業したダイエーは、1972年には三越の売り上げを抜くところまで成長していく。価格破壊と流通革命が、かれのキャッチフレーズだった。
 中内は商店街の既得権破壊をめざしていた。スーパーの進出に危機感をいだいた商店街は反発し、政府にはたらきかけ、1973年に大規模小売店舗法(大店法)制定にこぎつける(百貨店法は廃止)。スーパーなど大型小売店の出店を規制するのが目的だった。
 とはいえ、スーパーは次第に増え、徐々に商店街の牙城を切り崩していた。
 1974年以降を著者は商店街の崩壊期ととらえている。
 セブンイレブンが第1号店をだしたのが1974年だった。それ以降、コンビニは全国津々浦々に広がり、その数は2016年段階で5万6000店以上にのぼる。フランチャイズ方式でコンビニを運営したのは大半が元小売業者だった。コンビニが増加するとともに、商店街の崩壊が加速されていったのは不思議でもなんでもない、と著者はいう。
 商店街を崩壊させたのは、もちろんコンビニだけが原因ではない。
 前に述べたように、1973年の大店法は、スーパーなど大型小売店の出店、増築を規制するものだった。大型店は地元の商工会議所の了解を得なければ、地域への出店を認められなかった。その大店法は1978年に改正され、規制の範囲は大規模店舗だけではなく中規模店舗にまで広げられた。
 にもかかわらず、流通戦争はむしろ活発化し、既得権を主張する商店街はその戦争に敗れていったのだといえる。商店街はけっきょく進出してくるスーパーに太刀打ちできなかった。零細小売商にできる対応策は、スーパーのなかに自分の店をもつくらいのものだった。
 日米間の大きな動きも、日本の流通に激しい変化をもたらした。
 1973年のオイル・ショックは高度経済成長を終わらせるきっかけとなったが、日本はオイル・ショックを貿易攻勢によってうまく乗り越え、強固な経済体制と福祉社会を維持しているかのようにみえた。
 だが、貿易赤字に苦しむアメリカはこれに反発し、1980年代半ばにいわゆる日米構造協議を開始する。
 アメリカ側はまず日本の流通システムが非効率だと指摘し、流通の規制緩和を求めた。とりわけ、ターゲットにされたのが酒類の輸入規制である。
 それまでウィスキーやブランデー、ビールなどの輸入酒には高い関税がかけられていた。アメリカ側はその関税を引き下げるよう求めるとともに、スーパーやデパートでも酒の販売を解禁するよう主張した。
 さらにアメリカは日本の社会資本を整備するよう求めた。具体的には、道路や空港などにもっと公共事業費をつぎ込み、その事業にアメリカ企業を参入させようとしたのだ。
 アメリカの主張する内需拡大の呼び声のもと、財政投融資が増大するのは1990年ごろからである。この資金が、地方では中心街から離れた国道アクセス道路に投入された。
 政府の資金は商店街のアーケードやコミュニティ・ホールなどにも投入された。だが、こうした融資は返済されなければならないものだった。その結果、それはかえって商店街の体力を奪うものになっていった。
 バブルのころからの公共事業は、小売業の環境を変化させてしまったという。
 かつての商店街は徒歩圏内に形成されていた。商店街の問題は、商店街が広い通りに面しておらず、駐車場も整備されていなかったことである。
 1980年代からは規制緩和が進んだ。
 大規模な小売チェーンが地方に進出しやすくなった。加えて、地方都市の商圏が郊外化していった。
 これは公共事業の拡大によって、地方の道路事業がすすんだためである。道路沿いの土地開発も進んだ。そこに収まったのが、大規模なショッピングモールだった。郊外なら大規模なショッピングモールも大店法の規制対象とはならない。
 商店街に大きな打撃を与えたのは、車での買い物を前提とした郊外のショッピングモールだけではない。著者はコンビニ化という生き残り戦略こそが、商店街を内側から崩壊させたと指摘している。
 1970年代の終わりからコンビニが急速に増えた理由は、イトーヨーカドーやダイエーといった大手小売資本が、大店法の規制にかからない小型店を増やそうとしたためだという。しかも、それを自力で展開するのではなく、フランチャイズ方式でおこなおうとした。本部にロイヤリティを払う方式のもとで、コンビニのオーナーとなったのは、地元の零細小売商、とりわけ酒屋が多かったという。
 小売商はコンビニを営むことで、新しい店舗を手に入れ、昔からの念願だった店舗と住居の分離をはたすこともできた。跡継ぎが店を継ぎたがらなくなり、店の売り上げも落ちてくるなかで、酒屋などの零細小売商にとって、コンビニの経営は絶好の選択であるように思えた。若者や主婦のアルバイトやパートを導入し24時間態勢でのぞめば、スーパーに対抗できるのも魅力だった。
 大店法は1983年、91年、93年と改正され、ますます規制緩和が進んでいた。大型スーパーはこれまで扱えなかった酒や米、魚介類なども売れるようになった。それに危機感をいだいた小売業者がコンビニに興味をいだくようになるのはとうぜんだったといえる。
 コンビニの登場によって、たばこ屋、酒屋、米屋、八百屋などの古い専門店はその存在意義を失っていった。
 コンビニは地域のよろず屋だった、と著者は書いている。車で買い物をする時代に、駐車場も整備されていない古くさい商店街は、かえって不便な存在となった。商店街が内部崩壊していくのもとうぜんだったといえる。
 ここで、著者はいささかコメントをはさんでいる。
 日本の労働形態が大きく変化したのは、バブル崩壊前後である。
 1985年のプラザ合意以降、日本の製造業は円高不況によって、その多くが工場を海外に移転するようになった。そのころ、自営業者層も規制緩和により分解しかかっていた。
 政府は製造業の労働人口が減るなか、雇用を確保するため、地方の公共事業を増やし、スーパーやコンビニの地方進出をいっそう促した。それによって増えたのが、建設業と小売・サービス業の非正規雇用者だったという。
 大店法などで規制しても、家族経営からなる商店街の排他的権益を守りつづけるにはしょせん無理があった、と著者はいう。
 かつては雇用と自営が労働力の両翼を支えていたが、いまは男性サラリーマンと主婦が労働力の中心となった。自営業が掘り崩されるなか、人びとは正社員に安定を求めた。だが、増えたのはアルバイト、パート、派遣社員といった非正規雇用だった。
 商店街の崩壊とともに、多くの地方が疲弊してしまったようにみえる。
 はたして地方を再生する道はあるのだろうか。
 著者は規制と給付を組み合わせることがだいじだという。社会保障などの給付だけでだめで、地域への規制も必要だという。地域を活性化するためには、地域社会の自律につながる規制を導入すべきではないかという。
 新しい商店街をつくることを考えてもいい。たとえば協同組合がみずから店舗を開くとともに、空き店舗を管理し、それを意欲のある若者に貸し出すこと。それによって、若者に起業の機会を提供することもできるのではないかという。
 コンビニやバーチャルな空間だけで地域社会の生活をささえることはできない。
「わたしたちは、地域をケアするためにどのようなコントロールが必要なのか、その点についてみんなで議論する時期がきているように思う」と、著者はいう。
 やはり元気な商店街がなければ町は活気づかない。そのためには、これまでとはまったくちがう発想が必要なのだろう。

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