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価値と限界費用──マーシャル『経済学原理』を読む(14) [経済学]

 生産物の価値と限界費用の関係を論じるにあたって、マーシャルは正常な状態と長期の結果を前提としている。それを前提とすれば、変則的な状態や短期の場合にも応用がきくからだ。
 まず、一般原則が述べられ、次に農産物の価値(価格)、さらに都市の地価と限界費用の関係が論じられる。
 それを紹介する前に、もう一度商品世界の成り立ちをおさらいしておこう。需要と供給が分離される商品世界においては、商品と貨幣を媒介にして、経済が結合、維持されている。供給は需要なくして実現しないし、需要は供給なくして実現しない。供給と需要の変化は、ごくわずかなものであっても、相互に連動して、全体の供給と需要に影響をおよぼす。供給と需要の流れは、一瞬もとまることなく、いわば潮流をかたちづくっている。
 その流れを切り取って図示すれば、こんなふうになるかもしれない。

  ↓
 供 給(=需要)[総生産]
  ↓
 商 品[直接財]
 (日用品、消耗財、耐久財、公共財、サービスなど)
  ‖
 需 要(=供給)[総所得]
  ↓
 商 品[間接財]
 (労働力、原材料、機械、装備、エネルギーなど)
  ‖
 供 給(=需要)
  ↓

 こうした流れがいわばエンドレスにつづくことによって、現代社会はかろうじて維持されているともいえる。
 マーシャルは、いちおうこうした正常な事態を前提として、生産物の価値(価格)と限界費用の関係を論じているわけである。構造的な不均衡があるとしても、それはとりあえず考慮の外におかれている。
 まず企業家は「だれもまたどんな場合も目的に適合した生産要因を選択しようとする」。この行動をマーシャルは「代替の原理」と呼んでいる。どれほど労働者を雇用するか、新しい機械を増やすか、どんな原材料を選ぶかは、企業家が採算に応じて決定しなければならない。
 念のためにいうと、ここでいう企業家は資本家である場合もあるし、資本家でない場合もある。資本と企業は密接にかかわっているが、マーシャルが重視するのは、あくまでも企業家である。
 企業家はある生産要素を、これ以上投入すれば収益が逓減するぎりぎりまで限界投入すると考えられる。
 マーシャルはいう。

〈企業者はだれでもかれが使用しているすべての生産要素、さらにはそのどれかに代用できる他の生産要素について、その相対的な能率を知ろうとして、その活力と能力のゆるすかぎり、たえず努力を傾けている。かれはどれかの要因を追加投入することによって、どれだけの純生産額(その総生産額にたいする純増分)が得られるかをできるだけ推定しようとする。〉

 生産費をかけて、ある生産要素を追加し、追加供給が得られるとして、それが正常な利潤を得られるなら、需要が供給を上回っていることになる。その場合、企業家は生産費の追加投入をいとわない。企業家は純収益が得られなくなる限界まで、投資(原料であれ、労働力、機械、広告、あるいは土地、建物であれ)をすすめていくことになる。
 ただし、土地、建物、機械などの固定資本の投入については、その回収期間が長くなることを考えれば、細心の注意が必要だ、とマーシャルはいう。
 さらにいえば土地の場合は、より長く固定されるのにたいし、機械の場合はいわば際限なく増加できるかわりに、新しい発明や流行の変化によって陳腐化する危険性がある。
 そのため機械などについては、その消耗にたいする償却費を考慮したうえで、生産費にたいする正常な利潤を確保することに気を配らなければならない。そして、純収益は利潤から利子(準地代)、言い換えれば出資者の取り分を引いたものとなることも念頭においておかねばならない、とマーシャルはいう。
 上に挙げた図との関係でいえば、ここでマーシャルが論じているのは、マルクスのいう拡大再生産と同じである。なぜ拡大した経済循環が生じうるかが説明されている。ただ、マルクスと異なるのは、マーシャルが均衡分析にしたがって、限界費用投入の決断を前提としなければ、需要供給の増大は生じないと考えていることである。
 つぎにマーシャルが論じるのは、租税の影響についてである。単純にいえば、この場合は、逆に需要供給の循環にマイナスの影響をもたらす。
 たとえば出版物に重い税をかけると、出版物の値段が上がるので、その影響は直接消費者におよぶ。しかし、出版物の需要はたちまち減り、それにより印刷所は大きな打撃をこうむることになる。また、その従業員の賃金も低く抑えられることになるだろう。出版物の売り上げが減ると、出版社や著者、書店も打撃をうけることはいうまでもない。
 つぎに税をかけるのが出版物ではなく、印刷機械だとしよう。この場足、直接影響を受けるのは印刷業者である。出版物の生産量や価格にすぐさま影響はでない。業者の稼得がいくらか減る程度である。流動資本にたいする利潤率も低下するわけではない。しかし、業者にとっては経費が増大することになるから、新しい印刷機械の導入は控えられるだろう。「新しい印刷機はただ、印刷業者が一般に租税を支払っても経費にたいし正常な利潤が得られると判断するような限界のところまでしか導入されないことになろう」。その結果、新しい印刷機を導入せず、旧来の印刷機を昼夜二交代でフル稼働させる事態も生じる。さらに、ついに印刷費が上昇すれば、出版物にたいする需要が減ることになる。
 つまり、こういうことだ。出版物という直接商品に税をかければ、その影響はまず消費者におよび、つぎに業者にはねかえるのにたいし、たとえば印刷機という間接商品に税をかければ、その影響はまず業者におよび、つぎに消費者にはねかえってくるということになる。これは課税が需要供給のサイクルを冷やす要因になるということにほかならない。
 さらに、ある地域にストックのかぎられた画期的な資源が発見されたケースについても、マーシャルは論じている。まず発見者は、その新資源にたいする需要の大きさによって、多額の生産者余剰を獲得することだろう。
 新資源を購入した製造業者もそれによって大きな利潤を得る。だが、これに味をしめた製造業者この限られた資源を再取得して、さらなる増産をめざすのにちがいない。
 もっとも、その商品にたいする需要によって価格が変化するため、製造業者の得る所得はことなってくる。製造業者は利潤が得られる限界費用まで、その資源の購入をめざしていく。いっぽう発見者も製造業者の需要があるかぎり、コストを増やしてもその資源を開発しつづけていくことになる。
 ここでえがかれているのは、新資源の発見によって、需要供給のサイクルが拡大していく局面である。
 だが、その資源の量がほんとうに限られているとすれば、どうなるか(思わず笑ってしまうのだが、マーシャルは大きなダイアモンドの隕石が空から落ちてくるといった場合を想定している)。
 くり返し使用できるものだとすれば、この貴重資源は新たな使途がみつかれば、すでに使われている部分から引き抜いて利用するほかない。そのさい資源に支払われる価格は、あらたな用役の価値によって定められるだろう。
 いっぽう、その資源の供給が徐々に増加しうるものである場合はどうか。労力と資本の投下に見合う所得が期待されるかぎり、資源の探索はつづけられる。そして資源の価値は、その需要と供給のバランスを維持するような高さに決まってくる。
 また、その資源が無尽蔵で、1回しか使用できないにもかかわらず、確実に補給できるものだとすれば、資源の価値(価格)は費用に対応し、そこから得られる所得は生産費に利子を加えたものとほとんど変わらなくなる。需要の変動もその価格にほとんど影響を与えないだろう、とマーシャルは書いている。
 こうしたさまざまなケースを並べながら、マーシャルは資源、ひいては商品からは、その形態、あるいは需給関係に応じて、地代、利潤、利子、ないしはその混合からなる余剰が生じると述べている。地代(差額地代と稀少地代)、企業の利潤、資本の利子とは、カシの木とリンゴの木がちがうように区別されなければならないが、いずれも賃金やその他の経費を除いた余剰が、それぞれの形態をとったものと理解されねばならないと示唆している。
 マーシャルにとって重要なのは、需要と供給の流路から生じる余剰なのだ。この余剰が生まれなくなれば、経済は定常状態に近づいていく。そして余剰が、一方的ではない新たな供給と需要を生みだしていくならば、経済は成長していくことになる。
 長くなってしまった。農産物価格や都市の地価の問題については、次回、論じることにしよう。

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