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ひとつのアンチテーゼ──西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む [人]

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 西部邁は思想の人である。
 2018年1月21日日曜日、多摩川に入水し、自死した。享年78歳。
 かれの思想的自伝ともいえる『ファシスタたらんとした者』を読んでみた。
 英語のサブタイトルがついている。そこにはCeaseless but unsuccessful life of a would-be fascista と記されている。ファシスタ(英語流にいえばファシスト)になろうとして、日々努力しつつも失敗に終わった人生、ということになろうか。
 いまどき、みずからファシスタ(ファシスト)などと名乗れば、世間から白い眼でみられることはわかりきっている。テレビに出演し、さまざまな雑誌に寄稿して、それなりに人気者だったにもかかわらず、この人は孤立無援という立場に自分を追いこむ癖があった。それが思想を担う者の宿命なのかもしれない。
 最大限、好意的に解釈すれば、ファシスタとは思想の力で人を動かし、人と結束して、世界の(国家ならびに社会の)秩序を立て直そうとする者を指している。ファシストといわず、ファシスタと名乗ったのは、みずからをムッソリーニやヒトラーの同類とみなされたくなかったからである。しかし、かれが左翼や近代主義者と対峙する立場を貫こうとしていたことはまちがいない。
 かれは日夜、世界の秩序を立て直すべく日々奮闘努力した。だが、世に受け入れられず、失意のまま人生を終えようとしていた。これ以上老いさらばえ、周囲に迷惑をかけるのは忍びがたい。そのため、自死の道を選ぶというのが、かれの心境だったのだろう。
 とはいえ、ファシスタというのは、あくまでも反語ではなかったのか。かれは発言者であり、表現者であったが、組織者ではなかった。結社や党や軍事組織をつくろうとしたわけではない。人間性や思想にたいし、行動と統制を優先するほんもののファシスタは、もっと残忍な存在である。
 とすれば、ファシスタという自己規定は、さほど意味をなさない。それは国家社会にたいしてという以上に、みずからに突きつけた刃でもあった。
 その人生をたどってみる。

   1 60年安保まで

 西部邁は1939(昭和14)年3月に、北海道の長万部町で生まれた。4歳のときに厚別村(現在は札幌市)に移った。父は長沼町にある浄土真宗末寺の末男として生まれ、産業組合(いまでいう農協)に務めていた。その父が召集されなかったのは、おそらく戦時下の物資供給に必要な人員とみなされていたためだろうという。
 厚別で覚えているのは、5月末か6月はじめに、あらゆる花が一斉に咲き誇っている風景だ。厚別は、西は大都会の札幌、東は野幌(のっぽろ)原生林の境に位置する。かれによれば、その住民は内地からの「移民」もしくは「棄民」のなれの果てで、つまらぬ村だった。
 1人の兄、4人の妹がいた。母の実家は長沼村の農家で、戦時中も戦後もいろいろと援助してくれた。そのおかげで深刻な餓えを知らずに育った。
 小学校前の思い出は、箱からマッチを取りだして、こすったところ、火が障子に燃え移ったことだ。それを見つけた祖母が何とか消し止めた。「この子はオトロシヤ」といわれたことを覚えている。
 1945(昭和20)年、厚別村の小学校にはいった。そのころから記憶は鮮明だ。8月15日、敗北の日がやってくる。「アメリカは吾に仇なすものなり」という感覚が芽生えたという。
 8月末か9月初めに、米軍があらわれた。少年はえらそうな様子をした米軍に敵意を燃やした。兄とともに抗議の投石を実行したという。
 2年生のとき、女の先生から「これからは民主主義」といわれて、反発を覚える。そのころから吃音がはじまる。
 元気な少年で、成績は抜群だった。しかし、戦後なるものに偽善めいたものを感じていた。それが、かれに鬱勃たる気分をもたらす。
 小学4年のころには、長靴を加工して雪の道路を走る「雪スケート」がはやっていて、熱中するが、あるとき足をひねって捻挫をおこしてしまう。それを下手に暖めたものだから、ばい菌がはいって、足首が膨れあがり、札幌の病院に入院するはめになった。
 そのころ父が左遷されて帯広に転勤となり、一家ともども帯広に向かった。小学校ではマーケットの少年やアイヌの少女とも出会った。
 成績はクラスで一番だったが、孤独感のようなものが貼りついていた。吃音を知られるのがいやなために、ほとんど失語症者のように暮らしていた。
 父はさらに根室転勤を命じられたため、職場をやめて、肥料販売会社をおこし、一家は厚別に戻った。リンチも経験するが、それをはねのける。小学校の卒業式では、卒業生総代として答辞を読まされることになった。吃音者にとっては恐怖だったが、どういうわけかすらすらと読むことができた。
 春からは札幌の中学に通うことになった。父の会社はうまくいかず、一家は貧乏生活を強いられた。10円のパン代にも事欠き、冬場もコートなしで通学しなければならなかった。
 カネがないので、なにも買えなかった。だが、幸いにもまわりの少年たちが映画代やおやつをおごってくれるのだった。こうして、かれは成績優秀だが、映画好きのいささか不良少年に育っていく。本の万引きをしたことも認めている。
 札幌南高校にはいると、1年生のときに3年分の教科書や参考書を一気に読んでしまった。それを読めば、少しは人生の見通しが開けるかと思ったからだ。2年のはじめに大学入試の模擬試験を受けてみたら、ほとんどの科目でトップに近い成績だった。
 だが、一人の女生徒と出会って、急に勉学意欲を失う。10年後にかれの妻となる人だ。事件がおこる。妹を自転車に乗せていて、けがをさせてしまったのだ。あわや死ぬかというほどの大事故だった。それから1年4カ月、かれは痴呆のようにすごした。
 高校時代の唯一の友人は、「半チョッパリ」(両親のどちらかが朝鮮人)の同級生で、朝鮮人の父はソ連軍によって銃殺されたのだという。その友人は高校を退学して土方になり、そして暴力団員に墜ちていった。
 文学書を読みふけったのもこのころだ。「少年は、世界文学なるものから『人間の不幸』の数々にかんする知識を入手し、それらの不幸の記憶だけを糧にして、いわば蛹(さなぎ)と化した」と、本人が書いている。
 一浪して東大にはいった。浪人中、ズック靴で十勝岳に登り、生爪をはがしたこともある。年末、北大にはいっていた兄の知り合い、唐牛健太郎と出会った。
 東大を受験したときは、ドストエフスキーの『罪と罰』を一睡もせずに読みふけり、かえって頭がさえて、試験に落ちる気がしなかったという。
 東大にはいるとなぜか虚しい気分に襲われた。そこで5月の終わり、自治会室を訪れ、「あの、学生運動というものをやってみたいのですが」と申し出た。
 樺美智子が先輩のお姉さんという風情だった。先輩の坂野潤治(のちの歴史学者)に共産党にはいらないかと誘われた。すぐに「はいります」と返事をしたら、かえってしかられたという。
 駒場細胞会議にもでるようになる。日教組の勤務評定反対闘争を支援するため和歌山にも行った。被差別部落の集会所にも出かけた。
 その年の暮れ、左派の学生組織が共産党から除名されて、「共産主義者同盟」が結成される。いわゆるブントである。かれはそれにもあっさり加入した。
 平和と民主にたいし、革命と自由がブントのめざす方向だった。だが、革命と自由がどんなものか、いささかの見当もついていなかった。
 1959(昭和34)年10月、日比谷野外音楽堂で開かれた安保改定反対の集会では、突然、演説するよう求められた。膝ががくがくしたが、いつもの吃音ではなく、ことばがあふれるように流れでた。以来、安保闘争が終結するまでの8カ月、かれは名アジテーターとして知られるようになる。じっさいは「敗北への予感」と「自滅への願望」がみずからを揺り動かしていたと書いている。
 11月、東大の駒場自治会選挙で、いたしかたなく委員長に立候補し、当選する。ほかの候補者が立候補資格を失っていたためだが、票のねつ造と入れ替えで当選したことを認めている。
 60年の1・16では岸渡米を阻止しようとして、羽田空港で、ブント幹部連とともに逮捕され、起訴される。4・26の国会デモに向けて、駒場ではストが成立した(だが、これも票数を数えた振りをしただけのでっち上げだったと認めている)。6・15、ブントは国会突入を呼号していた。正面からではなく、南通用門からの突入となったが、そのとき樺美智子が死亡した。
 7月3日の全学連大会で逮捕される。6・3事件でも6・15事件でもかれは起訴され、けっきょく3つの裁判で被告人となった。東京拘置所では向かいが帝銀事件の平沢貞道、右隣が雅樹ちゃん誘拐殺人事件の本山茂久だった。
 拘置所を出る11月末までの4カ月半、かれは沈思黙考するほかなかった。差し入れられた『資本論』を読むが、つくり話だとしか感じなかった。「自分は予定通りに一介の襤褸(らんる)と化し独りになって裏町に姿を隠そう」と思っていたという。

   2 革命思想から保守思想へ

 60年安保闘争の終わったあと、ブント書記長の島成郎は、3000人の職業革命家からなる秘密組織をつくろうと叫んでいた。しかし、そんなものは絵空事だと思っていた。政治の季節は終わったのだ。拘置所からでてくると、すでにかつての同志はちりぢりになり、おのれの保身に走りはじめていた。
 家からは勘当を言い渡されていた。それでもいったん北海道に帰り、家に泊めてもらい、つきあっていた彼女にも別れをつげた。
 ブントは事実上、解散となる。青木昌彦(のちの経済学者)は組織を離れ、清水丈夫と(京大の)北小路敏、(北大の)唐牛健太郎は革共同(革命的共産主義者同盟)に合流することになった。かれは「戦線逃亡する」とつげて、ひとりになった。 下宿を見つけ、家庭教師をし、パチンコではほとんどパチプロの領域に達した。たまに大学に出ると、共産党員からリンチをうけた。
 被告人として3つの裁判所に通うので、けっこう忙しい毎日だった。西部邁はなぜ安保条約改定に反対したのかとふり返る。それは「日米の軍事協力」そのものに異を唱えるためだ。双務性といっても、それは見せかけのもので、日本がアメリカの下請けになるのが目に見えていたからだという。その後も、反米姿勢は崩れない。
 ブランキストめいた行動主義の熱狂の裏には空無感が貼りついていた。その罰を受けるのはとうぜんだと思っていた。それから20年、かれは政治向きの問題についてはいっさい沈黙を守りつづけることになる。
 経済学の勉強がはじまる。まずマルクス経済学の書物を読みあさったが、すぐに失望する。1年ほどたって気づいたのは、文明の基礎は経済にあるわけではないということだった。だが、文明について知るには、あらゆる学問を習得しなければならないと感じていた。
 1963(昭和38)年の夏、元ブントの青木昌彦と生田浩二に誘われて、通産省の外郭団体でのアルバイトにありついた。データ整理と解析の仕事だった。それは玉野井芳郎ゼミの請負仕事で、おかげで多少なりとも喰いつなぐことができた。そのころ、別れをつげたはずの北海道の彼女がやってくる。けっきょく、いっしょに暮らす成り行きとなった。
 青木昌彦はかれに近代経済学で大学院に行くことを勧めた。そこで、10冊ほど近経の本を読んで、論文を提出したところ、みごと合格。東大の大学院にはいることになった。
 大学院では数理経済学を専攻した。いくつかの経済動学モデルをつくり、それまで解けなかった数学の応用問題の解法もみつけた。それが宇沢弘文に評価されて、横浜国立大学に助教授として迎えられることになった。裁判のほうは、1967年に執行猶予つき温情判決がでていた。
 1970年4月から73年3月まで横浜国大で近代経済学を教えた。そのころ新左翼は内ゲバで自壊しはじめていた。大学の講義は平均並みにこなしていたが、どこか方向性を失っていると感じていた。あのころは「尋常ならざる遊び癖と異様なまでの子育てへの熱中」が同居していたという。
 そんなとき東大の内田忠夫教授から、東大の教養学部にこないかと誘われた。社会科学方法論のようないささか哲学的なこともやれると聞いて、喜んでそれに応じた。
 1972年2月に連合赤軍による浅間山荘事件が発生していた。事件後、榛名山リンチ殺人事件が発覚したことで驚愕を覚える。10年前、組織を離れたときに、このまま組織にいると、訳のわからぬ仲間殺しがはじまるという予感があたったことに慄然としたという。
 東大に移ってから、遊びをやめて猛勉強をはじめる。哲学、社会学、政治学、心理学、歴史学、文化人類学、記号論などの本を浅く広く渉猟した。
 そして1年半後、経済学の基礎は物質や技術そのものにあるのではなく、経済を意味づける過程にあると考え、『ソシオ・エコノミックス』という書物を上梓した。評判はあまりよくなかった。
 外国には行ったことがなかった。そんなとき、インド、アフガニスタン、トルコ、イラク、エジプト、アルジェリア、モロッコの貧民窟を回るという旅行企画がもちあがり、それに乗ったりもした。
 かれはスペシャリストではなくジェネラリストをめざそうとしていた。いわば社会全体をえがいて、そのなかに経済を位置づけようとしたのだ。すべてをコスト・ベネフィットで組み立てる分析的な経済学の思考には、ついていけなくなっていた。マル経もひどいものだが、近経も大同小異だと思った。
 アメリカ知らずのアメリカ批判と評されるのもしゃくなので、36歳になってからカリフォルニア大学に行き、一家は1年間バークレーで暮らした。アメリカは精神的にも物質的にも貧しい国だと感じた。左翼思想はいうまでもなく、大衆化路線の近代主義にも薄っぺらなものしか感じられなかった。
 カリフォルニアではこんなことを考えた。科学は仮説を立て命題を検証するというふたつの手続きのうえに成り立っている。仮説は経験世界にもとづいて立てられるが、それは感覚によって選びだされ、ことばによって表現されるほかない。問題は科学ではなく、思想だという気がした。
 経験論の国イギリスに渡ったのは、そのためだ。イギリスで保守思想を学ぼうとしたのだ。保守思想とは伝統にもとづく考察であり、言い換えれば「歴史の英知」だと思っていた。革命思想から保守思想への転換ということになる。
 当時はハロルド・ウィルソンの労働党に代わって、マーガレット・サッチャーの保守党が政権を奪還しようとしている時代だった。日本とちがい党首どうしの論戦は知的で迫力があったという。
 サッチャーの考え方はフリードリヒ・フォン・ハイエクに依拠していた。かれはハイエクの「自生的秩序」という考え方に賛同を覚えた。しかし、経済の自由競争が秩序ある市場社会をつくるという主張には納得できなかった。
 歴史は危険に満ちたものである。そのなかでバランスをとっていく知恵だけが伝統の名に値すると考えるようになっていた。エドマンド・バークの保守思想もそのようなものだと思われた。
 大学はケンブリッジにあったが、一家が暮らしたのはフォックストンという小さな村だった。スコットランドにも足を伸ばし、旧東欧圏やトルコ、ギリシャも旅してみた。社会主義のひどさに慄然とし、歴史の栄光を失った国の悲惨さに心が痛んだ。
 多数派の世論を正しいとする民主主義の考え方や、通常、大衆社会と訳されるマス・ソサエティにも批判をいだくようになった。民主主義と大衆社会は、愚劣きわまる政治と社会を生みだす可能性があることに気づいたという。
 近代への懐疑も芽生えはじめる。大衆社会を批判したフリードリヒ・ニーチェやホセ・オルテガ・イ・ガセットに共感をいだくようになった。
 1979(昭和54)年暮れ、一家は日本に帰国する。そこでみたのは「経済大国」日本の狂乱と愚劣にあふれた光景だった。
 帰国してからの最初の仕事は、世にはびこる相対主義への反撃だった。相対主義は、他人の意見を認めるとか、だいじにするといいながら、その実、それを無視して、対話のないまま自己の考えを押し通そうとする。しかし、ほんとうはどちらの考え方がただしいかという絶対的基準があるはずだ。その基準を模索することこそがだいじなのだと論じた。
 流行のポストモダニズムも阿呆としか思えなかった。差異化を求めて、自由に進めという考え方は、あまりに軽薄で、ついて行けなかった。
 保守とは現状維持を意味するのではない。それは歴史を踏まえながら、先を見据える態度を指していると考えるようになった。
 ケインズとヴェブレンについての評伝を書いた。両者ともマルクス主義には批判的で、現代資本主義を混迷に導くのは拝金主義とマス(世間)の心性と行動だと見抜いていた。
 ふたりの評伝を書いたのは、なにもかれらの経済学をもちあげるためではなかった。かれらがいかに時代と格闘したかを示したかったからだという。科学の論理と検証の前に、感性と理性にもとづく総合が存在する。ケインズとヴェブレンは、その体現者だった。
『大衆の反逆』を書いたオルテガについての評伝も書き、そのタイトルをあえて『大衆への反逆』とした。それによって、かれは日本の高度大衆(マス)社会を正面から批判しようとした。
 かれはマスのことを「大衆」というよりも「大量人」としている。この区別はいささかわかりにくい。マスは政界にも経済界にも学界にも存在している。また左翼もマスだという。戦後日本をアメリカ化した連中もマスだという。経済大国自体がマス社会だ。しかし、人びとはホンネではマスであることにうんざりしているはずだとも書いている。「大衆」をもちだして、そのうえに思想と行動を組み立てる態度は、自己を正当化するだけの反省なき傲慢だと感じていたのだろう。
 45歳のとき、親友の唐牛健太郎が亡くなった。ブントとは何だったかについて書く。その年、父も72歳で亡くなる。子どもたちは日教組の教師からいやがらせを受けていた。それはかれが大平正芳首相のブレイン集団に名をつらねたせいだった。
 そのころ、かれは保守の立場を鮮明にしている。「ブラウン神父」シリーズなどで知られるチェスタトンを読み、「平凡の非凡」を理解した。保守の真髄をもとめて、福田恆存の評論を読みあさり、「勇気と節制」、「正義と思慮」のあいだで精神の均衡を保つことの重要さを学んだ。田中美知太郎とも出会った。
 そして、保守思想がきわめて繊細なものであることを悟った。自称保守は、中国や韓国・北朝鮮、さらには民主党や共産党のことをあしざまにののしるが、それはほんらいの保守思想ではない。保守はみずからの主張も「間違いを犯す可能性を持つ」ことを自覚している者を指すという。
 世論や民主主義を金科玉条として、時の政権に罵声をあびせる自称左翼の態度も受け入れがたいものだった。民衆が常に正しいとはかぎらないと思っていた。
 ヘイト・スピーチはかれのもっとも嫌う作法だった。ルール、マナー、エチケットこそが、保守精神の要なのだった。それを無視して、権力をごり押しする者は、右翼であろうが、左翼であろうが、けっして認めないというのが、かれのいう保守の真髄だった。

   3 アカデミズムから評論の世界へ

 東大教養学部では「相関社会科学」に向けての機構改革が具体化されようとしていた。それは狭い学問領域を超えて、相互の学問分野の交流をはかろうとする構想だったといってよい。
 新任教授に人類学者の中沢新一を迎えようという提案があり、西部邁はそのときの人事担当者として、折衝にあたった。教授会はもめるにもめて、中沢人事はけっきょくつぶされる。いやけの差したかれは1988年に東大をやめてしまい、評論家になった。49歳のことである。
 それから八面六臂の活躍がはじまる。出演した「朝まで生テレビ!」は大評判となり、「週刊文春」のエッセイもはじまり、地方講演などでも引っ張りだこになった。時局評論が中心の仕事になる。政界やマスコミにも名前が知られ、一躍人気者になる。世間は粋のいい保守思想家の登場を歓迎したのだ。
 かれはいたるところで天皇制を擁護した。天皇制は日本の誇るべき「国柄」であり、国家の非常事態においては国民共同体の基礎となると主張した。そのため一時、左翼過激派からつけ狙われる。
 だが、大学を離れて評論家になったのはただしかったと感じていた。「公衆に直接語りかける」ことで政治にかかわるのは人の本分だと思っていたし、自分の働きで稼ぎ、家庭を守ることにも生き甲斐を覚えていた。決まりきった学説など脇目において、「世間からの毀誉褒貶を一身で受けて、自分の思ったことを開陳してみせる」ことが、自分にとっての自由であったと記している。
 東大を辞めて、最初に書いた評論が三島由紀夫論だった。三島とは天皇観がちがっていた。三島は天皇を恋闕(れんけつ)の次元でとらえていたが、かれは天皇を伝統にもとづく文化的・制度的な装置とみていた。「楯の会」のようなものをつくって、集団の力学で、みずからを死の側に追いこんでいくやり方にはなじめなかった。
 とはいえ、かれは「三島を論じることを通じて、自己の人生に自裁をもって幕を閉じる決意がほぼ固まった」と書いている。つまり、五十代半ばから、最期は自殺することに決めていたというのだ。その理由は家族や周囲に過大な迷惑をかけるのを避けるためだという。延命には価値をみいだせなかった。だが、すぐ死ぬわけにはいかなかった。全力を挙げて妻を守ることを自己の使命と考えていたからである。
 1990年代前半は、政治改革という名の改悪がなされ、衆愚政治がまかりとおった時代だったと書いている。自民党の汚職が誇大妄想ふうに暴露され、中選挙区制や日本的経営が悪とみなされるようになった。そのことにかれは違和感をいだいた。アメリカに主導される構造改革なるものは伝統の破壊にほかならず、そんなものと妥協したくないと思った。
 そこで、かれは真性保守の立場から1994年に『発言者』という雑誌を発刊する。『発言者』は10年ほどつづく(その後、『表現者』と雑誌名を変えて存続)。同時に事務経費をまかなうため、「塾」の活動もはじめた。雑誌の発行は経済的には苦労の連続だったようだ。そのためMXテレビに出演したり、秀明大学で教えたりもしている。しかし、この雑誌があったおかげで、みずからの発言と表現の砦を守ることができた(もちろん『正論』や『諸君!』の常連執筆者ではあったのだが)。
 真性保守をうたう『発言者』は単なる反左翼の商業右翼雑誌とは異なるという。保守は理想と現実とのバランスを重視する。保守とは「活力、公正、節度、常識」という根本規範を守る態度をさすという。
 オウム真理教の麻原彰晃から対談の誘いがあったが、返事をしないでほうっておいたら、地下鉄サリン事件が発生して、あやうく難を逃れたこともあった。屋山太郎と古森義久にバッシングされた榊原英資を雑誌『正論』で擁護したこともある。ともかく、評論家に転じてからの活動はなかなか冒険に満ちていた。
 60歳のころ福澤諭吉論を書き、福澤の「報国心」や「武士の心」を高く評価した。丸山眞男など進歩的文化人による解釈のゆがみをただそうとしたのだという。
 幕末以来の「百年戦争」についても、日本軍のふるまいは「自衛度が侵略度を上回る」と考えるようになった。大東亜戦争は「負けを覚悟の偉大な祖国防衛戦争」であり、「日本は果敢に戦って無残に敗北した」というのが、かれのとらえ方だった。
 そのころかれは東南アジアを回り、グローバリズムの惨状を目にする。ビルマ(ミャンマー)のマンダレーまで足を伸ばし、インパールの地を訪れ、歴史の運命に殉じた兵士たちをとむらった。
 それから何年かしてパラオのペリリュー島も訪れ、戦争の犠牲者をとむらった。しばらくして硫黄島を訪問した。知覧や沖縄にも足を運んだ。沖縄に米軍基地があるのは、日本がアメリカの保護領であるに近い、との感慨をいだいた。
 それぞれの戦跡を訪れてよかった、とかれは書いている。200年にわたる西洋のアジア植民地化に昂然と抗したのは大日本帝国だけだったという。アメリカが正義で、日本が不正義だなどというのはちゃんちゃらおかしい。その意味で、かれにとっては戦後の平和、民主、進歩、ヒューマニズム、自由、人権、幸福、福祉などの観念はとても受け入れられないのだった。
 1991年には湾岸戦争があった。イラクによるクウェート侵攻を容認してしまえば、世界が弱肉強食のジャングルになってしまうという観点から、かれはアメリカによる介入を容認する。日本がそれに協力するいわれはないと考えていた。アメリカによる世界支配に反対していたからである。しかし、その後、アメリカが主導するグローバリズムに日本も巻き込まれていった。
 2001年には9・11事件があった。世界の中心を自称するアメリカにテロがおこるのは何の不思議もないと思った。革命と同様、テロには反対だった。しかし、ビン・ラディンにはひかれるものがあった。アメリカが戦争という「国家テロ」を仕掛けるなら、それに「不法の武力行使」としてのテロで対抗する者がでてくるのも自然の成り行きと考えていた。
 翌年のブッシュ・ジュニアによるイラク侵攻を、かれは「侵略」とみなした。イラクが大量破壊兵器を所有しているという証拠など、どこにもなかったからである。難癖をつけてでも、フセインを倒したいという、アメリカの暴力的な姿勢がみえみえだった。そのアメリカの「国家テロ」に加担する日本は卑屈だと思った。かれは孤立をも恐れず言論戦を展開する。
 自由民主主義というアメリカニズムがグローバルに広がっていくことに反対するというのが保守派としての立場である。
 そうした輿論を喚起しようと努めるが、それがしょせんむなしいものだともわかっていた。技術主義と拝金教、世論にもとづく多数決制が近代文明の原理なのだ。
 2002(平成14)年の秋、母がなくなる。しあわせな自然死だった。だが、自分にはこんなしあわせが訪れることはぜったいにおこりえない、と肝に銘じていたという。「世界破壊の際限なき深刻化、それが世界の未来にかんする唯一の展望」であり、「今はその大戦の『前哨戦』が長く尾を引く時期」なのだ、と書いている。

   4 反資本主義、反社会主義、反米主義

 西部邁は経済を発展させるのはイノベーションだという考え方に疑問をいだいていた。イノベーションは資本をより機能的にし、労働をより節約する方向にはたらき、その結果、労働分配率の減少をもたらす。その結果、所得格差が広がり、国内の購買力が低下するのは目に見えていたからだ。
 イノベーションはまた現在の資本収益率を未来にも想定することによって、デリバティブ(派生証券)をつくりだしていた。それがいずれ金融パニックにつながることもわかりきっていた。
 イノベーションが伝統の破壊をもたらすことも気に入らなかった。また、競争といっても、それは力をもつ者どうしによる価格の調整にすぎないこともわかっていた。
 かれはデモクラシーを絶対的な社会正義とする現代の風潮に一石を投じようとした。とりわけ、有権者に政策を選択してもらおうという民主党の「マニフェスト政治」にあきれた。思いつきの政策で人をたぶらかすのは衆愚政治にほかならないと思った。そこには議会で少数派が多数派の意見を検証し、修正していこうという議会制民主主義の真摯な姿勢もみられない、とかれは怒る。
「小さな政府」論なども信じない。公共活動があって、はじめて市場の安定性が保たれると考えていた。財政赤字の大半は、将来世代のためのインフラ投資であり、その点では子孫からの借り入れにならないと思っていた。
 民主党は偽善をばらまくことによって、選挙民をたぶらかしたという。その矢先に2011年の3・11東北大地震と福島第一原発事故が発生した。民主党はすっかり腰砕けになり、あとは漂流する以外になかった。
 だが、自民党を支持するわけでもない。自民党は社会主義者をやっつけて、「アメリカ流の純粋近代主義としての戦後レジーム」を完成させることにはげんでいるだけだ、と批判している。
 2014(平成26)年に、かれは妻に先立たれる。これが大きな打撃となった。もう生きていても仕方がないと思った。だが、当面、評論活動をやめるわけにはいかなかった。
 そのころはじまったのがTPPと安保法制をめぐる議論である。その議論を聞いていて、かれは日本がやはりアメリカの保護領にほかならぬと感じた。アメリカは自己の自由民主主義という個別性を普遍原理として他国に押しつける侵略国家であり、それを牛耳っているのが「巨大金融資本と軍産複合体」だと論じている。そのアメリカは中国と対立しているようにみえて、両国が手を結ぶ可能性は強いとみていた。
 アメリカの束縛から抜けだすには、「日本自身が軍事に始まって外交や政治を経て文化に至るまでのパワー(力量)を身につける必要がある」。そのパワーがあってこそ、アメリカの協力も得られるのであって、最初に集団的自衛権をもちだす安倍首相の考え方はまさに属国の思考法だ、とかれは批判する。そして、日本が自力防衛をかちとるには、核武装の道を検討するほかないというのだ。
 憲法についてはイギリスにならって、不文法のほうがいいと思っていた。改憲より廃憲の立場なのである。だから立憲主義などちゃんちゃらおかしいということになる。万機公論に決すべし、でじゅうぶんなのだ。
 戦後の日本国憲法は敗戦直後の混乱期に押しつけられたもので、その条項をかれはことごとく批判している。不文法の立場だが、もし憲法が必要なら、憲法制定議会を開いて、伝統にもとづく新しい憲法を制定すべきだと主張した。
 かれがみずからファシスタと称するのは、自由、民主、平和を金科玉条とせず、反資本主義、反社会主義、反米主義の立場をとるからである。とはいえ、ヒトラーやムッソリーニとちがうのは、みずからの立場を戦争や暴力によって表現するのではなく、あくまでも言論によって主張するところである。
 現在の戦争は、アメリカニズムで世界を塗りつぶそうとするアメリカの侵略行為と、それに抵抗するイスラムのテロとの武力衝突の様相を呈している、とみていた。いっぽう、中国は東シナ海や南シナ海に進出し、アジアを勢力圏にいれようとしている。第三次世界大戦の前哨戦がはじまっているとみてよい、とかれは断言する。そのなかで、日本はどうすればよいのか。自衛を強固なものにすることがだいじだ、とかれは論じる。
 かれはファシスタを自認するが、それは「国民性の保持」を第一と考えるからだ。状況に対応しながら、自衛を強固なものにしつつ、国民性を維持・進化させていくというのが、その考え方だといってよい。
 イノベーションがつづく現代は、リスク社会どころかクライシス社会に突入している、とかれはいう。その象徴がバブルと詐欺だ。さまざまな事故や災害も発生している。テロと戦争が結びついている。先制攻撃は報復攻撃を招いて、事態は戦争とならざるを得ない。
 こうした危機においては、政府による舵取りが重要になってくる。とはいえ、軍事力なき外交力など空語にすぎないのだから、軍事力を含むパワーの維持強化をめざすのはとうぜんである。
 国家は自由・平等・友愛・合理という近代主義に代えて、活力・公正・節度・良識の規範を国民に示していかねばならない。国家の改革は漸進的にしかなしえない。革命は地獄(ディストピア)を招くだけである。国民社会の伝統にももとづく統合がなされなければならない、とかれはいう。
 ところが、実情はマス化した人びとが高度情報化(技術)社会のなかで、ひたすらロボット化、ないしサービス化の道を歩んでいる。つまり、みずからがつくりだした情報や技術にもてあそばれているのだ。
 そんなことを思いながら、言論人であるかれはほとんど何の収穫もないまま、死が近づいていることを感じていた。他人による看取りが長期におよぶことには堪えられなかった。
 雑誌の編集や妻の看病、講演、テレビ出演などで、日々の仕事は忙しかった。それでも、死の影は容赦なく迫ってきた。かれは「自死の具体的なやり方」を検討するにいたる。妻が亡くなってからは、こんな時代に生きるのでは生きた心地がしないと思うようになっていた。
 このままいけば虚無への転落が待っているような気がした。それを避けるにはまだ気力のあるうちに自決するほかないと決意した。あとは社会や周囲に迷惑をかけないシンプル・デス(簡便死)を選ぶだけである。「死は束の間の生の最後のほんの一環にすぎぬと心の底から思わないわけにはいかない」と書いている。

   5 人生をふり返って

 西部邁にとって、2014(平成26)年3月の妻の死は、まるで半身をもがれるようなショックを与えた。自分は生と死のあわいにある「半死者」になったと感じた。
 左翼の学者、知識人、ジャーナリストはばかだと思いつづけてきた。民主主義、高度情報社会、したり顔をしたインテリや解説者が気にくわなかった。それでも自分の無力を感じていた。酒を飲んで世間話をするのは楽しいが、それにも飽きがきた。世間は煉獄なのだと思った。
 発行する雑誌も世間から孤立していて、自分もこの世からおさらばする潮時が近づいていると感じていた。もうろくと病気にどう対処するかだけが課題となった。安楽死や尊厳死などもばかげている。かれは55歳以来、シンプル・デス(簡便死)を選ぶと公言していた。最初、友人の暴力団員からピストルを入手しようとしたが、うまくいかない。そして、ついに妻に先立たれてしまった。自分のこの先を考えると、家族や社会に迷惑をかけたくなかった。さりげなくけりをつけたいと思っていた。
 これまでの人生をふり返ってみた。
 人間の時間(歴史)と空間(社会)はあまりにも複雑、広大だ。それにたいし全知を得ることなど不可能である。人間にできるのは、そのなかで、決断し、実践し、何かの規準を選び取ることだけだ。総合知に向けての努力を、かれはエッセイのかたちで表現しようとした。
 人間の意識は「総合への欲動」に突き動かされている。人は一回切りの人生で、ひとつの「物語」をつくろうとするのだ。かれは他者との連帯を求めて、エッセイをつづった。それはひとつの幻想にすぎなかったが、それでも人は幻想を生き、死んでいくしかない。
 自分の生は芽も出ず花も咲かず実も成らなかった、とかれは絶望した。自分の考えは穏健な思想だから、かえって世間の支持を得られなかったのかと思ってみる。しょせんはアウトサイダーだったとの自嘲も湧く。
 自分はこれまでエッセイのかたちで人間と社会の全体像をせめて輪郭だけでもえがこうとしてきた、とかれは書いている。仕事の中心となったのは人性論と実践論、大衆社会・マスメディア・アメリカニズム批判、保守思想の普及だった。
 かれは仮説を体系化して理論化しようとするいわゆる社会科学にうんざりし、エッセイストに転じた。体験にもとづいて知の発露をこころみようとしたのだ。ケインズやヴェブレン、オルテガ、福田恆存、福澤諭吉、中江兆民などの評伝を書いた。亡き友人たちを顕彰するためにも一文を草した。書くことはしゃべることと同じなので、テレビや講演会にでたり、塾を開いたりもした。
 状況のただなかに身を置くと、生のアクチュアリティが実感されるように思えた。それはじゅうぶんに満足できる人生だった。
 かれがとりわけ力を入れたのが大衆批判である。というより、人を大衆として扱い、それにもとづいて、あるいはそれにおもねって、自己の思想と行動を正当化する風潮への批判である。それは知識人やマスメディア、大量情報社会やアメリカニズムへの批判につながった。だが、日々発生する果てしなき戦いにもくたびれはてた。妻の死が人生の幕引きを決意させたのだという。
 現在、世界は混迷状態にあり、第三次世界大戦の前哨戦がはじまっている、とかれは感じている。だからこそ、日本はアメリカの道具となるのではなく、みずから身を守らなければならず、そのためには核武装もやむなしと主張した。しかし、それもどうにもならないと思うようになった。
 天皇制は「半聖半俗」の虚構だと考えていた。それは日本の伝統として、長くつづく安定した文化制度だった。国家による政策決定には、宗教的儀式が必要になってくる。その点、天皇はカトリックでいう法王と同じ位置にいる。現人神ではないし、普通人ではない。
 国家がつづくためには、伝統が継承されなければならない。そのことを象徴するのが皇位の世襲なのだ。天皇は国家の歴史に時代の刻印を押す存在である。かれは女帝を否定しない。むしろ国民を統合する能力としては女帝のほうがすぐれていると考えている。
 そのいっぽうかれは天皇が平和主義や民主主義に同調する言動をすることに反対している。むしろ、日本の漂流を防ぎ、伝統を守るために、天皇と皇室はなくてはならぬ存在だと感じていた。
 神仏は信じなかった。俗世から隠遁しようとも思わなかった。信心なるものは、現世利益への執着を延長したものにすぎない。良心をつらぬいて、恬澹(てんたん)として生き、そして死ぬことだけが残された課題となった。
 世の中はアメリカにへつらう現実主義保守とグローバル資本主義に支配される時代になっている。かれの「真性保守」思想は、右翼を喜ばせ左翼を怒らせ、また左翼を喜ばせ右翼を怒らせた。だが、よく戦ったというべきだろう。
 あえてファシスタの名を借りて、フェスタのうちにアンチテーゼを打ちこみつづけたかれの姿勢は、けっして奇矯なものではない。これからも、それはひとつの率直なアンチテーゼとして、対話と議論の深化を促す窓口を提供しつづけることになるだろう。
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沢目健介

西部氏の自死に至る「生」の一貫性を一気呵成に読みました。従来であれば、雑誌などを購入して読むべき作品を、ブログで読める時代に功罪を含め、ある種の感謝も感じます。西部氏が僕のふるさと室蘭に近く生まれで長万部もなじみ深い土地です。その後の厚別も、関わりのある土地です。西部氏が北海道出は知っていましたが不思議な感情をもちました。僕は皇室中心主義を標榜した徳富蘇峰を読み続け、その勉強の過程で、「政治おける殺人」という視点で暗殺やテロリズムを調べています。「2001年には9・11事件があった。世界の中心を自称するアメリカにテロがおこるのは何の不思議もないと思った。革命と同様、テロには反対だった。しかし、ビン・ラディンにはひかれるものがあった。アメリカが戦争という「国家テロ」を仕掛けるなら、それに「不法の武力行使」としてのテロで対抗する者がでてくるのも自然の成り行きと考えていた。」の部分は、テロに対するテロの対抗手段がある種必然なのかということです。とするならば、テロを引き起こす条件の排除こそが必要であろうと考えます。僕は蘇峰的な思想、また西部氏の思想とは異なった立場ですが、そこに学ぶべきことがあることをあらためて知りました。

by 沢目健介 (2018-03-22 06:20) 

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