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ビルマのエリック・ブレア [人]

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[ビルマ時代のブレア。後列中央]
 世の中が不安になってくると、なぜかこの人のことが気になる。
 エリック・ブレア。1903年に生まれ、1950年1月に46歳で亡くなった人だ。
 その伝記を読んでみた。
 19歳のブレアがイギリス人警察官としてビルマ(現ミャンマー)に赴任したのは1922年11月のことだ。当時のビルマはイギリスの植民地で、インド帝国に属していた。
 ブレアはイギリスの名門、イートン校を卒業したのに、オックスフォード大学やケンブリッジ大学(日本なら一高から東大に行くようなもの)に進まず、植民地の警察官になった。たぶんに家庭の事情がある。
 家は裕福でなかった。高校での成績も悪く、大学の奨学金をもらえそうになかったことが、進学を断念したひとつの理由だろう。イートンでのエリート教育にもうんざりしていた。
 仕事先にビルマを選んだのは、たぶんわけがある。エリックの父は定年でイギリスに戻るまで、インドのアヘン局に務めていた。ベンガル地方で生産されるアヘンを管理するのが、その仕事だった。
 フランス人とイギリス人のあいだに生まれたエリックの母は、ロンドンで生まれ、ビルマ第3の都市、モーラミャインで育った。その実家は材木業と造船業を営んでいた。
 つまり両親はインドで出会ったのだ。
 エリックは1903年にネパールとの国境に近いインドのちいさな町モティハリで生まれた。だが、1歳になるかならないかで、母親は父親を単身インドに残したままイギリスに引き揚げてくる。
 幼年期から少年期をすごしたのはテムズ川のほとりにあるヘンリー・オン・テムズ(オクスフォードシャー)である。有名私立に入学できたのは、頭がよくて、奨学金をもらえたからだ。
 エリック・ブレアにとって、ビルマはなじみのない土地ではなかった。かれが就職するころ、父はすでに定年を迎え、イギリスに戻ってきていたが、一家にとって、ビルマを含むインド地域は、いわば第二のふるさとだったといってよい。
 植民地のイギリス人警官は、いわば行政官で、現場に出動して、犯人を逮捕するような危険な仕事に従事したわけではない。各地に分散した駐在地で、数千人にのぼる現場の巡査を指揮するのがおもな仕事である。それでも、警官になるというのは、ちょっとびっくりする。
 若いブレアにとって、遠いビルマはみずからの冒険心と好奇心を満たす絶好の場所と思えたのかもしれない。だが、じつはそこは決して安全な地ではなかった。イギリスの支配にたいする反発は強かったし、ダコイツと呼ばれるギャング団も横行していた。
 そんなことも知らないままインド帝国警察警視補見習としてビルマに着任したブレアは、まずラングーン(現ヤンゴン)から北部のマンダレーに向かい、州警察訓練学校で、ほんものの植民地警察官になるため2年間の訓練を受けることになった。
 異国情緒に満ちていたにもかかわらず、マンダレーはブレアの心を引きつけなかった。
「マンダレーはどちらかといえば不愉快な街である」と書いている。そこは5つのPからなる町、すなわち、パゴダ、パリア(不可触民)、ピッグ(ブタ)、プリースト(僧侶)、プロスティチュート(売春婦)の町だった。そして、なによりも、かれ自身、その地を支配するイギリス人であることに罪悪感と自己嫌悪を覚えるようになった。
 ブレアは丸5年、ビルマで警察官として勤務した。訓練学校を出てからは、5つの地区を転々と回った。最初の任地はラングーン(現ヤンゴン)の西130キロほどにあるイラワジ川デルタのミャウンミャだった。勤務成績は優秀だった。
 半年後、その勤務ぶりが認められ、ラングーンにほどちかいトゥワンテという分署の警察隊をまかせられる。まだ二十歳そこそこなのに、召使いにかしづかれる生活だったという。
 さらに半年後、こんどはラングーン北郊のインセインに異動となる。ここには2500人以上の囚人を収容する大きな刑務所があり、数多くの死刑が執行されていた。
 しかし、イギリス人警察官は死刑の立ち会いを求められていたわけではなかった。当時を知るあるビルマ人は、ブレアが死刑に立ち会ったのは、インセインではなく、次の勤務地下ビルマ、モールミェンの刑務所で、しかもそれを志願したのではないかと推測している。モールミェンはビルマ第3の都市で、かれはその分署で、あらゆる警察活動の責任を担っていた。
 のちにブレアは、死刑執行のディテールをエッセイにえがくことになる。
 その囚人はヒンズー教徒で、はだけた褐色の背中を見せながら、両腕をしばられたまま、ぎこちない足どりで絞首台に向かっていた。濡れた砂利のうえに残された足跡、ひょいと水たまりを避けた瞬間が、目にきざみついた。

〈その瞬間まで私は、健康かつ冷静な人間の一命を断つのがいったいどういうことなのかついぞ考えたためしがなかった……その頭脳は依然として記憶し、予知し、判断をくだしていた──水たまりについてさえ判断をくだしていたのである。死刑囚とわれわれはともども歩く一団の人間であり、おなじ世界をその目で見、耳で聞き、肌で感じ、理解していた。するとわずか2分間で、突如ガタンという音とともにわれわれのひとりが消え失せてしまうのだ──ひとつの精神が断たれ、ひとつの世界が断たれる。〉

 この描写は何度もくり返し、読まれるべきだろう。
 モールミェン管区でブレアは、もうひとつの大きな出来事を体験する。
「私は大勢の人からにくまれていた──わが人生のなかで、そのようなことがわが身に起こるほど重要人物だったのは、この時期だけである」と、皮肉っぽく書いている。
 大勢の人からにくまれていたのは、ブレアがイギリス人のエリート警察官だったからである。だが、かれもにくんでいたのだ。支配者と被支配者を、そして、自分自身も。心の奥底には、不条理な感情が渦巻いていた。
「心の片隅ではイギリスの統治を難攻不落の暴政だと思った……もうひとつの片隅ではこの世に最高の喜びがあるとすれば、仏教僧のどてっ腹に銃剣を突き刺してやることだと思った」
 そんなとき事件が発生する。
 モールミェンのチーク材置き場では、木材を運ぶのに何十頭もの象が使われていた。そのうち一頭の象が、群れを離れて、とつぜん町なかをふらふらしはじめたのだ。
 暴走して、人を傷つけたわけではない。通報を受けて、ブレアが駆けつけたときには、迷い象はのんびり水田にたたずみ、口もとに草をつめこんでいた。象使いが連れて帰れば、それで事は収まったはずである。
 しかし、そうはならなかった。ぞくぞくと集まってきた人たちは、もっと派手な始末を期待したのだ。人のいうことをきかない迷い象には、処罰が与えられなければならない。ビルマの群衆は、象が撃たれて倒れるシーンをわくわくしながら待ち望んでいた。

〈白人(サーヒア)の旦那は白人の旦那らしくふるまわなくてはならないのだ。決然とした態度を見せ、はっきりした意思のもとに物事をしかとやってのけなければならない。〉

 ブレアは「ただまぬけに見えるのをさけたいばかりに」象を撃ち殺す。これは、かれにとっても一生忘れられない思い出となった。
 最後の勤務地となったのはマンダレーの北220キロほどにある上ビルマのカターという町だった。イラワジ川上流にあるこの辺境の湿潤な地で、ブレアはデング熱にかかった。高熱がでて、首筋や肩のあたりに発疹ができ、それが直るまで数週間を要した。もうろうとした鬱状態のなかで、かれはビルマの日々をふり返り、大英帝国の実態を見直していた。
 仕事柄、ビルマでは何十人となく殺された男たちの死体を見てきた。しかし、そうした犯罪による殺人よりも、公的な処刑ほど残虐なものはないと感じていた。のちにこう書いている。

〈私はいちどだけ絞首刑に処せられる男を見たことがある。千の殺人よりずっとひどいように思われた。〉

 ブレアは長期休暇を申請し、それが認められて、本国に戻る。ビルマには帰らないと決意していた。もちろん、インド帝国警察もやめる。それでどうするのか。子どものころからあこがれていた作家になろうと思っていたのである。
 ビルマのことを書くつもりだった。だが、いきなりは無理だった。作家としてデビューするまでに、5年の歳月を要した。
 1932年に最初の作品『パリ・ロンドン放浪記』がロンドンのゴランツ社から出版されるときにペンネームが必要になった。本が刊行されるわずか7週間前、ようやく名前を決めた。それ以降、エリック・ブレアはジョージ・オーウェルと呼ばれるようになるのである。

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