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『気の向くままに』から(1) [人]

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 ジョージ・オーウェルは1943年12月から47年4月にかけて、途中1年9カ月の休載をはさみながら、ほぼ毎週、独立左派系の新聞「トリビューン」にコラム「気の向くままに」を連載していた。
 第2次世界大戦末期から戦後にかけてのことである。
 オーウェルは戦争の時代に、みずからをどう保っていたのか。そのことが気になっていた。
 本棚を整理していて、この本をみつけ、いなかと往復する新幹線のなかで読んでみた。
 ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまったのは1939年9月のことである。
 その前、1936年末にオーウェルはPOUM(マルクス主義統一労働党)市民軍の一員としてスペインに渡り、アラゴン戦線でフランコ軍と戦い、首を撃たれ、あやうく死ぬ目にあった。バルセロナでは共和国政府を牛耳るコミンテルンによるPOUM弾圧がはじまっていた。1937年6月、オーウェルは妻のアイリーンとともにバルセロナを脱出する。
 イギリスに戻ったオーウェルは、スペイン内戦でみずから体験したことをありのままにつづった。それが『カタロニア讃歌』である。初版は1500部で、700部しか売れなかった。
 オーウェルは1938年3月に吐血し、ケント州プレストンホールのサナトリウムに送られる。休養が必要だった。
 サナトリウムでは、次の小説の構想を練ったり、短いエッセイを書いたりしてすごした。
 そのころのオーウェルの考え方について、伝記作家のマイクル・シェルダンはこう書いている。

〈当時、彼の戦争観はかなり素朴なものだった──支配階級が戦争を社会変革の引き延ばし策に利用するつもりならば、そのために武器を取って戦っても意味がない。〉

 このころのオーウェルは、独立労働党(ILP)を支持し、戦争反対を唱えていたことがわかる。オーウェルは終生、社会主義者でありつづけた。支配階級と資本家は、戦争の危機をあおることで、労働者の賃上げを認めず、社会変革を引き延ばそうとしていると考えていたのだ。
 オーウェルはさらに療養をつづけるため、妻とともにモロッコのマラケシュに移った。空気が乾燥し、温暖な地を選んだのだ。住み着いたのは郊外にあるオレンジ畑の真ん中にたつ邸宅だった。ここで、オーウェルは次の小説『空気を求めて』を執筆し、さらにエッセイ「マラケシュ」を書く。
 ボロ着を身につけたマラケシュの人びとと、道を行進するフランスの植民地軍を対比的にえがくエッセイはいきなりこう結ばれる。

〈われわれはどれほど長くこれらの人々をだましつづけられるだろうか。どれほどしたら、彼らが銃口をべつの方角にむけるようになるだろうか。〉

 マラケシュで6カ月すごしたあと、オーウェル夫妻は1939年3月末にイギリスに戻った。
 6月には(さして好みではない)ゴランツ社から『空気を求めて』が出版される。初版は2000部で、すぐに再版となり、3000部ほどが売れた。この月、ロンドンの父が82歳で亡くなる。死ぬ前に不和が解消できたのが、なによりも幸いだった。
 オーウェルの自宅は、ロンドンから北に50キロほど離れたハートフォードシャーのいなかウォリントンにあった。ここで、かれはさまざまな文芸エッセイを書きはじめる。「チャールズ・ディケンズ」、「鯨の腹の中で」、「少年週刊誌」など。
 そして、9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、開戦となった。
 それから1週間もたたないうちに、オーウェルは中央登録局にすすんでみずからの名前を登録する。祖国が危機におちいれば、戦うのはとうぜんだと考えていた。
 1940年末に発表されるエッセイ「右であれ左であれわが祖国」では、その心情をこう説明している。

〈愛国心は保守主義となんら関係ない……チェンバレン首相[前内閣]下のイギリスにも明日[いまのチャーチル内閣、そしてその後]のイギリスにも忠誠をつくすのは、日常生活のひとつの確たる現象なのだ〉

 このころオーウェルは、かつてヒトラーを容認し、絶対平和主義を唱えた独立労働党(ILP)から完全に離れ、かれらを「左翼の腰抜けども」とまで呼ぶようになった。
 オーウェルは社会主義者から保守主義者に転向したのだろうか。そうではない。かれは終生、社会主義者だった。資本主義と帝国主義の国家には、ずっと抵抗しつづけた。
 だが、スペイン内戦で、オーウェルはファシズムとコミュニズムの全体主義をまのあたりにしたのだ。全体主義との戦いは、いまや最大の課題と思われた。
 こうして、かれの社会主義は、新社会主義とでもいうべきものに移行する。それは愛国心に根ざしながら、全体主義と戦い、言論の自由を守り、社会的正義と公正を求める社会主義だった。
 1940年春になると、オーウェルは戦火がイギリスにおよぶことを覚悟していた。自宅周辺の畑を耕し、大量のジャガイモを植えた。
 妻のアイリーンはいなかを離れて、ロンドンではたらくようになった。それを追いかけてオーウェルもロンドンに移り、戦争遂行に役立つ仕事を探しはじめた。身体検査にも出頭したが、軍務に不適格と判定された。
 そのため、オーウェルはしばらく雑誌に映画や演劇の批評を書く仕事を引き受けるようになった。絶賛した映画が、チャップリンの『独裁者』だ。大衆文化についてのエッセイも数多く書いた。まさに書きまくったといってよい。
 6月、ドイツ軍はフランスを占領した。軍務につけなかったオーウェルも国土防衛軍に加わる。万一、敵がロンドンに侵入した場合、市街戦を戦う市民兵組織だ。8月には大空襲(ブリッツ)がはじまる。ロンドンのイーストエンド埠頭が炎上し、グリニッジも空襲を受けた。
 大空襲はつづく。ダンケルク撤退戦で兄を失った妻のアイリーンは、このころすっかり落ちこんでいた。
 そんななか、オーウェルは猛烈な勢いでタイプを叩きつづける。書評や映画評に加えて、年末にはアメリカの独立左派の文芸誌『パーティザン・レビュー』から「ロンドン便り」執筆の依頼が届き、それを引き受ける。
 1941年2月にはエッセイ集『ライオンと一角獣』を刊行、1万2000部以上が売れるヒットとなった。オーウェルはマルクス主義に汚染されない社会主義運動、「妥協の伝統と国家の上にある法の信頼」にもとづくイギリス型社会主義を称揚した。
「トリビューン」のコラムはまだはじまらない。
『ライオンと一角獣』で名声を得たオーウェルは、BBC(英国放送協会)から声をかけられ、1941年8月から2年間インド向けのラジオ放送を担当するようになったからである。それは制約の多い、検閲を通さねばならないやっかいな仕事だった。かれなりにファシズムと戦うためにはじめた仕事だったが、枠づけられた戦時放送に縛られている自分に次第にうんざりしてきた。
 オーウェルはBBCに辞表を提出し、やっと解放される。そして、「トリビューン」のスタッフに加わって、まさにその名のとおり、「気の向くままに」(As I Please)というコラムを書くようになるのだ。まだ戦時統制がつづいていたが、これからは書きたいことを書くつもりだった。
 今回は、そのコラム集について紹介しようと思ったのだが、そのとば口でくたびれてしまった。また、気が向けばということにしよう。

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