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苅部直『丸山眞男』を読みながら思うこと二、三(1) [人]

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 読み残しの本から取り出して、ぱらぱらとめくってみる。
 丸山眞男(1914−1996)については、学生時代から気になりながら、これまであまりまじめに読んでこなかった。そのくせ、主要著作は買っている。『日本政治思想史研究』、『現代政治の思想と行動』、『日本の思想』、『戦中と戦後の間』、『反逆と忠誠』、『「文明論之概略」を読む』、それに「講義録」。
 買っただけで、満足してしまうのが、昔からの悪い癖だ。おそらく買った当初はぱらぱらとめくったのかもしれないが、いまとなってはほとんど中身を覚えていない。たぶんむずかしすぎて理解できなかったのだろう。
 いちばんおもしろかったのは『日本政治思想史研究』だ。この本で、ぼくは荻生徂徠のことを知った。
 ぼくの学生時代にはすでに象牙の塔の人だった。東大闘争のときに、学生たちが丸山の資料室を占拠し、それにたいし丸山が「ファシストもこんなことはやらなかった」と憤激したといううわさが、ぼくの近辺にも伝わってきた。よほどだいじな資料があったのだろう。
 1968年のころ、丸山はすでに学生運動はおろか、ベトナムにも成田にも興味をもっていなかったようにみえた。学生たちにしてみれば、60年安保の思想的リーダーと思われた丸山が、政治学者でありながら、なぜ現実の戦争や大学問題に無関心を決め込んでいるのかが不思議でならなかった。
 それから3年後の1971年、丸山は定年まで3年を残して、57歳で東京大学を退官する。そのあとは、社会的に活躍することなく、残りの25年を隠居のように暮らした(という印象を、すくなくともぼくはもっている)。
 ぼくは丸山眞男のよい読者ではない。それどころか吉本隆明や滝村隆一の影響を受けているせいか、どちらかというと丸山をずっと毛嫌いしてきた。にもかかわらず、いまでも丸山の熱烈な愛好者は多い。逆にこの年になって、ぼく自身、丸山のことをよくわかっていなかったのではないかと思うようになってきた。
 本書を読んでみることにした。
 丸山は1914(大正3)年に大阪で生まれた。父の幹治はリベラルな新聞記者で、長谷川如是閑と親しかった。丸山は自由な中流家庭で、のびのび育ったようにみえる。
 一高に入学した年、満州事変が勃発した。その後、日本は急速に軍国主義化していく。
 印象的なのは、高校3年生になった1933(昭和8)年4月に、丸山が警察に引っぱられ、取り調べを受けたことである。丸山自身は共産党員でもなんでもなく、むしろノンポリだった。たまたま貼り紙で長谷川如是閑の名前をみて、その講演会に出席したところ、警察に目をつけられて、連行されたのである。
 特高による取り調べは苛烈だった。その経験が、精神の内側にまで踏み込んでくる国家権力の姿を丸山に思い知らせた、と著者は書いている。
 見えないところからじっと監視されつづける恐怖というものは、じっさいにそれを味わった者しか、わからないものだろう。当時、国民は官憲による無気味な弾圧の実態をほとんど知らなかった。
 逮捕の翌年、1934年に東京帝国大学法学部政治学科に入学した。卒業後は法学部の助手に採用され、研究者の道を歩むことになる。
 国家が社会や経済を統制する「政治化」の時代がはじまっていた。美濃部達吉をはじめ、矢内原忠雄、河合栄治郎などリベラル派の大学人が、政府に目をつけられ、大学を追われていた。
 大学時代、丸山は数多くのマルクス主義文献を読んでいる。だが、党やコミンテルンに魅力を感じたことはなかった。マルクス主義には革命思想はあっても政治学がなかったからである。日本の政治体制を分析するという学問上の動機のほうがまさっていた。
 丸山が評価したのが、いわゆる「講座派」である。日本では農村部における封建的生産様式と都市部における資本主義的生産様式が不均衡なかたちで共存し、そのうえに絶対主義的な天皇制が成り立っている──これが講座派のとらえ方である。その考え方に丸山はひかれた。
 戦前の丸山は、みずからも述懐するとおり「ムード的左翼」だったという。戦前の知識人がそうだったように、天皇中心の「国体」思想など信じていない。一般国民が国体を素朴に信奉している社会の実情こそが問題だと思われた。
 このころ丸山は、発表論文で、市民社会や個人主義はブルジョアジーのイデオロギーであり、それは乗り越えられなければならないと述べていた。だからといって、ファシズムやマルクス主義にくみしたわけではない。国家権力を制御する必要についてもふれている。
 丸山は強靱かつ柔軟な自由主義に、みずからの思想的立場を置くようになった。それは自由と平和と正義を普遍とする立場である。マルクス主義とはおおいにことなる。
 1940年10月8日に昭和天皇が東京帝国大学に行幸したとき、丸山は法学部助教授になっていた。
 そのころ刊行された福沢諭吉の『文明論之概略』を読んで、その自由な物言いに感銘を受けている。そこには当時の軍国主義時代の風潮にたいする痛烈な批判が隠されていた。個人が独立して自主的人格を形成し、政治社会にかかわっていく姿を福沢がえがいていることを、丸山は高く評価した。それこそが近代のあり方だと思われたのである。
 助教授になった丸山は、大学で「東洋政治思想史」の講座を担当するようになる。さまざまな文献を読みあさったすえ、徳川時代の思想家では荻生徂徠がいちばんだと思った。
 徂徠の独創性は、儒教を道徳の学ではなく、政治の学として再解釈したことである。徂徠における「政治の発見」は、新たな政治的地平を開いた。それは丸山が徂徠や諭吉を西洋政治哲学の文脈で読み込んだことと関係している。
「[丸山は]全体を管制する政治権力のもとで『私的』な活動がさまざまに展開するという『寛容』の体制を『近代的なもの』と呼んだ」と、著者はいう。
 すなわち、道徳と政治の分離、社会と政治の分離といってもよい。政治は個人道徳や社会秩序に恣意的に干渉してはならない。いっぽう個人の自由の確保と、政治権力にたいする批判が認められなければならない。
 著者によると「ありのままの個人と、倫理を内面化した『主体』がおりなす『人間仲間』と、政治秩序との3つの層」を、丸山は近代の「秩序原理」ととらえるようになっていたという。
 ばくぜんとマルクス主義に共感をいだいていた丸山は、内外の政治哲学を学ぶなかで、ここではっきりと「近代の理念」すなわちリベラリズムに軸足を移すことになる。
 丸山を近代主義者、リベラリストと呼ぶのは、けっしてまちがいではない。問題はそういうレッテル貼りをして丸山を葬り去る側が、はたして近代やリベラリズムについて、どれだけ深く理解しているかである。丸山からみれば、日本の現実は、近代やリベラリズムからはるかに遠かったのである。
 丸山は1944年3月、30歳で結婚し、その直後の7月に軍隊にとられた。東京帝国大学の助教授が徴兵されることはめずらしく、まして陸軍二等兵としての召集は例がなかったという。一種の懲罰だった。
 丸山は松本の連隊に入隊し、そのまま朝鮮の平壌に送られた。皇民化教育を受けた朝鮮人の一等兵から、意地の悪い仕打ちを受けたという。植民地朝鮮での軍隊経験は、丸山に生涯忘れられない記憶を刻んだ。
 11月、丸山は病気にかかり、いったん東京に戻った。政府の上層部では、すでに戦争終結の構想が練られはじめていた。
 1945年3月、丸山はふたたび召集を受ける。こんど配属されたのは広島市宇品町の陸軍船舶司令部だった。平壌にくらべれば苛酷な環境ではなかった。与えられた任務は船舶情報と国際情報の収集。
 7月にはポツダム宣言を新聞で読み、「言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重」というくだりに、むしろ感動を覚えていた。しかし、軍隊のなかで、そんな思いを口にするわけにはいかなかった。
 そして8月6日、広島に原爆が投下される。宇品の司令部にいた丸山は閃光を目にしたものの、建物の陰にいたため、熱や爆風の直撃を受けることはなかった。しばらくして、重傷を負い、助けを求めてやってきた市民の群れで司令部は埋めつくされることになる。
 8月15日、ラジオの玉音放送で日本が無条件降伏したことを知る。「やっと救われた」というのが、そのときの正直な気持ちだったという。9月になり、丸山は焼け野原の東京に戻ってきた。玉音放送があった日に母は病気で亡くなっていた。
 軍隊経験をへて、リベラリズムの立場はさらに確乎たるものになっていた。
 著者はこう書いている。

〈どんな状況でも自由の価値の普遍性を信じ、リベラルであること、とりわけこの日本でリベラルであること。1945年8月15日は、希望と悲哀をたずさえながら、この課題を追求していく営みの、原点となったのである。〉

 次回は戦後の丸山眞男の歩みを見ていくことにしよう。

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