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苅部直『丸山眞男』を読みながら思うこと二、三(2) [人]

 丸山は終戦直後の状況を「多様で混沌とした可能性をはらんでいた民主主義の沸騰期」と呼んでいる。丸山はこのころ埴谷雄高や武田泰淳、竹内好と出会い、互いに往き来する仲となった。丸山がおしゃべりで、話しはじめると止まらなかったというのは意外である。この習性はおそらく最晩年までつづいたにちがいない。
 思想の科学研究会などの文化団体結成にもかかわり、三島市のサークルに呼ばれて講義もしている。大学に閉じこもることなく、行動範囲を広げて、生き生きと活動していた様子がうかがえる。
 連合国軍、とりわけ米軍の占領下であったにもかかわらず、この国には奇妙なことに「多様で混沌とした」自由の空間が生まれていた。共産党までもが合法化され、広く人権が認められ、思想統制がなくなり、言論の自由が保証されるというのは、戦時中では考えられない状況だった。丸山自身も解放感を感じていた。
 とはいえ、戦後の自由はあてがわれた自由にちがいなかった。丸山はそれを自主的な自由にまで高めねばならないと主張している。制度の変化に満足するのではなく、それを支える人間の精神を改革しなければならない。とりわけ、政治の場にかぎらず、職場や団体にも民主主義を定着させなければならない。精神の改革こそがポイントである。
 このころ、丸山は健全で民主的なナショナリズムの形成を支持していた。憲法9条については軍事的国防力をもたない国家という新しい国家概念に共鳴している。労働組合の活動にも期待を寄せていた。
 戦後、丸山が注目されたのは、その天皇制批判である。もともと昭和天皇自身には敬意をいだいていた。だが、悩みに悩んだ末に、丸山は天皇制が日本人の自由な人格形成に致命的な障害をもたらしているとの結論に達する。こうして、1946年5月号の『世界』に代表論文「超国家主義の論理と心理」が発表された。
 この論文で、丸山は日本では国家が人間の内面へ無限に介入するいっぽう、「私的利害」が国家権力をたやすく動かすこと、そしてより上位の者へと随順する「権威への依存症」が上から下まで日本人全体に浸透していることを指摘した。まるで、現在の森友・加計の構図があてはまるかのようだ。
 権力の偏重が日本の宿痾だった。ここで、蛇足ながら、ぼく自身の思いつきのセオリーをもちだすと、日本では、政治家は支持者に弱く、役所は政治家に弱く、民間は役所に弱いというじゃんけんのような関係が成り立っている。民間が役所に便宜をはかってもらおうとすれば、政治家を動かすのがいちばんだ。役所は政治家と昵懇の民間業者をけっして邪険にせず、政治家から具体的な指示がなくても積極的に便宜をはかる。日本では、こうした図式で利権構造がつくられてきた。森友・加計問題は、たまたま安倍首相がらみで目立つだけで、日本の利権構造のなかでは、ほんの氷山の一角のできごとだともいえる。
 おそらく戦後直後は、こうした日本の政治構造、利権構造が変わると期待された「空白」の時代だった。
「超国家主義」とは別の論文で、丸山は政治家や軍人、官僚にみられる「無責任の体系」を指摘している。これも、現在とまるで同じ光景ではないだろうか。口先はともかく、ほんとうに責任をとろうとする政治家や官僚がいないのが、日本の政治世界である。丸山は、昭和天皇も政治責任は免れないと論じた。だが、その先は急に弱腰になる。日本社会の病理をただすには各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」を育てるほかない、というのが丸山の考え方だった。
 丸山は日本人の倫理性と主体性の欠如を指摘しつづけた。それはわかりにくく、しばしば誤解を生んだこともたしかだ、と著者は指摘する。倫理性や主体性の問題では片づかないと思う人も多かっただろう。しかし、戦後たてつづけに発表された丸山の論考が、日本人の無意識にまで踏みこむことで、マルクス主義などではみられないユニークな視点を提示したのはまちがいないだろう。
 だが、そもそも倫理性と主体性とは何を意味するのか。それは前に述べたように、自由と平和と正義の理念を指すのだろうか。大衆社会状況のなかで、そうした古典的理念はすでに失われつつあった。
 人びとはすでに情報の渦に巻きこまれ、政治よりも娯楽やスポーツなどに関心をもつようになっている。自主的判断といっても、それはマスメディアによってすり込まれた見解をなぞっているだけかもしれない。大衆社会のなかで、人はむしろ情緒や欲望に突き動かされ、政治権力はそうした流れを統合するものとして機能していた。
 カール・シュミットがいうように、敵と味方を区別し、味方を結集し敵を排除しようとする努力が「政治的なるもの」だとすれば、政治はこの世界のどこにも遍在する。こうしたせめぎあいを最終的に調整し統合する権力が政治権力なのである。政治権力によって構成される国家は、かつてないほど強力な存在となった。にもかかわらず、その権力を行使する意志の中心が見当たらない空虚な制度体になってしまっている。そのようななかで、はたして個人は倫理性と主体性を保つことができるのか、と丸山は問わざるをえなかったという。
 だが、それは難問だった。
 戦後の解放の時代はそう長くつづかなかった。いわゆる「逆コース」がはじまる。朝鮮戦争の勃発、警察予備隊の発足、レッド・パージ、日の丸・君が代の復活と、事態は急速に展開する。講和条約をめぐる論争が盛んになるころ、「恐怖の時代」の到来を感じた丸山は「平和問題談話会」に参加し、リベラリストの立場から、平和共存と非武装中立の立場を唱えた。
 だが、そのころから丸山は結核をわずらい、1951年2月から1年2カ月、1954年1月から1年4カ月、国立中野療養所での入院生活を強いられることになる。ストレプトマイシンによる化学療法はまだ普及していなかった。
 療養生活のなかで、丸山は「他者感覚」の重要性に思い至る。すなわち、安易に同情するのではなく、相手を他者として理解し、対話をつづけていくことがだいじだと考えるようになったという。
 政治的無関心の広がりは政治への無力感のあらわれだ、と丸山はみていた。だが、それは「焦燥と内憤」と背中合わせになっており、いったん政治指導者にあおられると、「権威への盲目的な帰依」に向かっていく。それがファシズム独裁を生むのではないか、と思うようになっていた。
 こうした反動的な動きに対抗するには、「国民ができるだけ自主的なグループを作って公共の問題を討議する機会を少しでも持つこと」がだいじになってくると考えていた。このころ丸山はナショナリズムへの警戒を強めている。政府の動きを監視しなくてはならない。それをおこなうのは政治のアマチュアだ。「政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられる」。そうした経験を積むことによって、人びとは適切な政治的思考力と判断力を身につけていくことができる、と丸山は主張した。
 こうして、丸山は市民のひとりとして、60年安保反対運動に加わる。だが、運動が盛り上がるなか、丸山は大きな不安を感じていた。一時的な盛り上がりのあとには、宿酔いにも似た長い停滞がやってくるのではないかと思っていたという。熱狂的な大衆運動には、どちらかというと懐疑的だった。
 丸山は政治を本来的に保守的(あるいは精神的)なものと考えており、激しい行動によるラディカルな変革へのあこがれを、ファシズム的なものとみて嫌っていたという。
 丸山の手記には、イギリスの政治哲学者マイケル・オークショットの次のようなことばがつづられている。
「政治学とは、恒久に完璧な社会を打立てる技術ではなくて、すでに存在しているある種の伝統的社会を研究してつぎにはどこへ行ったらよいのかを知る術である」
 60年安保闘争のあと、丸山は現実の政治状況から離れて、日本思想史の研究に立ち戻っていく。だが、スランプがつづいた。
 1968年から69年にかけての大学紛争のあと、病気もあって1971年に57歳で東大を退官。悠々自適の生活にはいったあとも、82歳で死去するまで、ほとんど論文らしいものは発表しなかった。
 丸山は日本人の思考様式には、現在の状況を仕方がないとする歴史観、共同体秩序からの離反を罪とみなす倫理意識、上位の人に奉仕するのをよしとする政治意識がまとわりついていると指摘していた。だとすれば、こういう社会のなかで、はたしてありのままの「個」としての自我などというものが芽生えるのか。
 丸山は1960年の「忠誠と反逆」という論文のなかで、徳川時代の武士がみずからの主君をいさめるための「諫争(かんそう)」に注目する。ここには、まさに忠誠と反逆の葛藤が引き起こすエネルギーの噴出がみられる。
 しかし、こうしたダイナミズムは明治以降、次第に失われていく。人びとの自我は内なる相克の意識を失い、陰影を欠く平凡なものになっていった。ばくぜんとした反逆が現代の気分なのである。
 現代人は国家や社会の内部に浸透するイデオロギーや常識によって、世界をはじめから一定の「イメージ」でとらえるようになっている。自分が「逆さの世界」に生きていることも、なかなか気づかない。
 だいじなのは、内と外との境界に自分を置くことだ、と丸山はいう。それ以外に、内側から与えられたイメージを突き崩すことはできない。そして「他者をあくまでも他者としながら、しかも他者をその他在において理解すること」。こうした日々の営みが新たな思索を切り開いていく、と丸山は考えていた。
 丸山は日本思想史の研究を通じて、引き継ぐべき伝統を新たにえがきなおそうとした。そして、それを日本人にあった「型」として抽出した。そのようなこころみのひとつが、1986年に刊行された『「文明論之概略」を読む』に結実している、と著者はいう。そこで強調されたのは庶民の智恵だった。
 1978年に丸山は来日したフランスの哲学者ミシェル・フーコーと会っている。「目の前の現実を見すえながら過去の歴史に沈潜し、史料の森の中をかけめぐって、これまで支配的な伝統と考えられてきたものとは異なる、もうひとつのありえた伝統をくみだし、それを明確な形に描きあげること」──その点で丸山とフーコーの方法は共通していた、と著者はいう。
 1980年の論文「闇斎学と闇斎学派」では、朱子学者たちの激しい論争をふり返りながら、不寛容の悲劇が広がる時代に、「他者感覚」をもちながら「境界」に立ちつづけることを、ぎりぎりの選択肢として示したという。それは新左翼が内ゲバにふける時代への忠告でもあった。
「政治と同じく学問についてもアマチュアによる『在家仏教』を唱えた丸山にとっては、あらゆる人々が広い意味での知の担い手として、対話の相手なのだった」と、著者はしめくくる。
 精神的格闘ということばが思い浮かぶ。晩年の丸山は、大衆社会化する日本のなかで、単純に西洋の知に依拠せず、真にリベラルであるための通路を切り開こうとしていたのかもしれない。

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