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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(1) [人]

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 このところ、ずっと体調が悪かった。
 ひどい花粉症で、つらい咳と喉の痛みがつづくなか、転倒して顔をしたたか地面にぶつけ、そのあと胃腸をこわし、すっかり弱った。
 どこにもでかけず、近くのレンタルショップで借りた韓流ドラマをみている。だいぶ流行遅れだが、『善徳女王』が、このところのお気に入り。とくに悪役のミシルが好きだ。
 元気な人をみると、うらやましくなるが、体力と気力の衰えは、いかんともしがたい。終日、ぼんやりすごすことが多くなった。歳だなと思う。
 しかし、あんまりぼんやりしていても、ますますぼけてしまいそうなので、読み残しの本を本棚からとりだしてみることにした。
 今回、読むのは東谷暁の『山本七平の思想』である。

 プロローグにこうある。

〈本書は、運命的な人生を歩むことで日本の未来を透視した、山本七平[1921-1991]という人間の生涯をたどりながら、私たちに残してくれた日本人および日本についての鋭い分析を、いまの時点で振り返りつつ読み直すことを目的としている。〉

 山本七平の著書は膨大にある。ぼくはこれまでほとんど読んだことがないので、このようなガイドブックはありがたい。
 そのデビュー作は1970年にイザヤ・ベンダサンの名前で、みずから経営する山本書店から出した『ユダヤ人と日本人』だった。七平は最後まで自分がイザヤ・ベンダサンだと認めることはなかった。だが、かれこそベンダサンだということは、なんとなく知れ渡っていく。
 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの作品は、日本文化の特色をユダヤ文化との対比で軽妙にえがきだしたものである。七平が実際のユダヤ人とその文化をよく知っていたわけではない。かれが知り尽くしていたのは聖書である。とりわけユダヤ教の原典でもある旧約聖書の思想こそが、日本文化の奇妙な特徴をあぶりだす手品のたねとなっていた。
 先にたねあかしをしてしまうと、『ユダヤ人と日本人』のおもしろさを半減してしまうことになる。この本は、いわばユダヤ人をだしにして、日本人があたりまえとして疑わぬことに疑問を投げかけ、それがいかに特異なことかをあぶりだしたところにユニークさがあった。
 たとえば、日本人は、安全と水は無料で手にはいると思いこんでいる。あるいは、日本人はユダヤ人とちがって、全員一致の決議がよいことと思いこんでいる。日本人はコメの文化をあたりまえと思っているが、牧畜文化を基層とする世界の大勢からすれば、それはじつにめずらしい文化なのだ、というように。
 日本の文化は、全員一致で同一行動をするのをよしとする。そのため、独裁者を必要としない。古来、祭儀権と行政権を分立して、独裁者を生みださない工夫がこらされていた。
 また、日本人には理屈を超えた「理外の理」というようなものがあって、なるべく皆が損をしないような仕組みがはかられている。日本には「日本教」とでもいうべき独自の宗教があって、「世間」と結びついた規範や規律が人びとのあいだに行き渡っている。
 この本は、作者が謎ということもあって、単行本だけでも75万部以上売れたという。
 著者はこう書いている。

〈『日本人とユダヤ人』の「日本人は世界的な視野でみると、異質だといわれているユダヤ人と比べても、もっと異質な存在なのだ」というメッセージは、まさに知りたいこと、知らねばならないことが書いてあると思わせるに十分だった。〉

 たしかに、それもこの本が売れた要因のひとつだろう。
 しかし、より重要なのは、この本が山本七平の暗黙のデビュー作として、その後の活躍を支えるジャンピング・ボードになったことだ。
 これ以降、山本七平は、日本人とは何か、日本社会とは何かというテーマを終生にわたって追求していくことになる。
 著者のいうように、七平がこうしたテーマに固執するようになった理由は、その出自と関係している。七平自身が「私は生まれながらのクリスチャンなので、もの心のついたときすでに教会の中にいた」と書いている。
 日本のキリスト教徒はカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教のすべてを合わせて100万人そこそこ、全人口のわずか1%だ。七平はクリスチャン共同体のなかで、少数派であることを自覚しながら育った。
 さらに、その親戚のなかに、トリさまと呼ばれる人がいた。父の叔父にあたり、大逆事件で幸徳秋水とともに処刑された大石誠之助の実兄だった。トリさまは、口癖のように「怒りを抑える者は、城を攻めとる者に勝る」と話していたという。
 著者はこう書いている。

〈少数派であるキリスト教徒という立場は、それだけなら必ずしも逆境ではなかったかもしれない。しかし、戦前において天皇の弑逆(しぎゃく)を試みた人間の係累であるという境遇は、社会生活のなかで肩身を狭くする理由でありえた。ましてや、戦争遂行のために天皇崇拝が強く鼓吹されている時代にあっては、迫害に至ってもおかしくなかった。〉

 七平は大逆事件について、ほとんど論じなかった。むしろ避けて通っている。怒りを抑える道を選んだのだろう。耐えることが習い性になっていたともいえる。
 七平は少年のころから無類の読書好きだった。マルクスやクロポトキン、バクーニン、幸徳秋水の本も読んでいた。聖書の研究書も読みあさった。そうしたなかで、七平はいまさらながらに日本が神仏習合の国であることに気づく。それがのちに、かれを徳川時代の思想の研究をうながすことになったという。
 青山学院高等商業学部に進学した七平は、相変わらず読書の日々を送り、ドストエフスキーやカント、それにコーランや古代エジプトの歴史書まで読書範囲を広げていた。
 1941年12月8日、日米開戦の日がやってくる。翌年6月、七平は徴兵検査を受けた。そして、その10月に入営して、1年半後の1944年5月に下関からの輸送船でフィリピンの戦場へと向かう。
 そして、フィリピンでの絶望的な戦いと収容所での経験が、日本軍と日本人について、さらに深く考えさせることになるのだが、それについてはまた次回述べることにしよう。

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