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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(3) [人]

 戦後、山本七平は出版界のなかで生きてきた。いくつかの出版社を渡り歩いたあと、1950年代半ばに自分の出版社、山本書店を立ち上げた。聖書学の本をだすのが念願だったという。
 本を刊行するかたわら、古本屋で江戸時代の思想書をみつけては読みふけっていた。その蓄積があったからこそ、1979年にカッパ・ブックス(光文社)から『日本資本主義の精神』を刊行することができたのである。この本では儒教や仏教、さらには鈴木正三(しょうさん)や石田梅岩の考え方が紹介されていた。
 七平は、経済学者の考える日本経済が、大企業中心のかなりゆがんだもので、その実態とはかけ離れたものであることをあきらかにした。
 日本の会社は合理的な計算だけで成り立っているわけではない。古くからの家族的ないし共同体的な性格が会社を支えている。それはけっして西洋にくらべて遅れていることを意味するわけではない。あくまでも日本社会の特徴なのだ、と七平は論じていた。
 その思想的ルーツを、七平は石田梅岩(1685-1744)に求めている。士農工商の身分秩序で商がいやしまれるなか、梅岩は商人に存在意義があるとし、「倹約」と「奉仕」の心構えこそが商人の道だと説いていた。ここから、いわゆる「石門心学」が生まれる。商人が売買するのは天下の助けになる、商人が売買によって利益を得るのは商人としての役割をはたすためである、と梅岩は論じた。
 さらに七平は江戸時代の藩に注目する。藩こそが日本企業の原型だったと述べている。藩は擬似的な「家」だった。
 江戸時代、財政逼迫により藩の運営は困難をきわめた。倹約とリストラによる改革を実行するのは簡単なようにみえる。だが、そうではなかった。
 藩主と家臣が一体となって苦労を重ね、それによって国を次の世代に伝えていくという心づもりがなければ、藩はつづかないのだ。それは商家でも同じである。現代の企業でもそうだろう。
 この独特の家意識、共同体意識が日本の企業、ひいては日本資本主義を支えてきた。
 だが、七平は単にそれを絶賛するわけではない。同時に、こうした共同体意識の強い日本企業が一歩誤れば、逆説的な結果を招くことも自覚していた、と著者の東谷はいう。
 共同体意識は、会社至上主義や甘え、無意味な競争意識、見かけだけの忠誠心をも生みだす。そのことは、バブル崩壊後、とりわけあらわになった傾向である。
 七平自身、こう書いている。

〈長所とは裏返せば短所であり、美点は同時に欠点である。このことは、日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されていることは「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展をもたらすが、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」という破綻をも、もたらしうるからである。〉

 ここには日本社会の特質をさぐるとともに、その長所と欠点を認識することで、自覚的な判断の必要性を説く七平ならではの発想がみられる。

 もうひとつ、次の代表作にもふれておこう。
 戦争中、フィリピンの戦場で、七平は日本人とは何かという疑問につきあたった。なかでも、「現人神(あらひとがみ)」への疑問が長くつきまとっていた。その謎を解くために書かれたのが1983年に刊行された『現人神の創作者たち』だという。
 その根源をさぐるために、七平は江戸時代の思想家、とりわけ山崎闇斎(1619-82)とその学派、崎門(きもん)派までさかのぼっている。
 学者のあいだでは、闇斎にたいする評価は低かった。せいぜい朱子学に神道思想をとりいれた思想家とみなされているだけだった。
 尊皇思想、言い換えれば「現人神」思想の起源をさぐるうちに、七平は江戸時代初期に日本に亡命した朱舜水(1600-82)という存在に気づく。徳川光圀(みつくに、すなわち水戸黄門)は、朱舜水の影響を受けて、『大日本史』の編纂をはじめたのだった。
 山崎闇斎は、その『大日本史』に心ふるわされた。闇斎にはエキセントリックなところがあり、みずからを絶対とし、いわば力づくで、弟子たちを自分の考え方にしたがわせた。
 しかし、晩年、神道に帰依すると、なかにはついていけなくなる弟子がでてくるようになり、闇斎学派すなわち崎門派は分裂する。この分裂は、朱子学が日本化されるなかで生じたといってもよい。そこに七平は思想のドラマをみた。
 崎門派は、君主とは何か、臣とは何かという問いをめぐって分裂した。儒教には、あやまちを犯した君主は放伐すべしという思想がある。しかし、日本ではどんなことがあっても君主は絶対だという考え方が生まれていた。
 そして、その究極の君主こそ天皇だということになる。天子をおいて君主はなく、臣たる者は天子に尽くさねばならない。激しい論争のなかで、闇斎派からそうした考えが噴出してくる。ここからは幕末の水戸学まで一息である。すなわち絶対忠君の考え方が生まれ、万世一系思想が確立されていく。
 ここで話は脇にそれるけれど、著者の東谷は、丸山眞男による日本政治思想史研究の方法を批判し、尊皇思想の淵源を追求した山本七平のほうに軍配をあげて、こんなふうに述べている。

〈江戸時代は朱子学で始まり、荻生徂徠の「作為」によって近代への道筋を見出したという[丸山眞男の]借り物の構図は、あまりにも無理な議論だったといえる。そもそもこの構図では、七平が『現人神の創作者たち』で示そうとした、日本の近代を実現した主役である、尊皇攘夷思想へと発展した日本的朱子学の役割を無視してしまうことになる。……
 七平は戦場での悲惨な体験を経るなかで、なぜこのような思いをせざるを得なかったのかという激しい疑念を抱き、まったく独力で孤独な探求を二十年余も続けた末に、本来あるべき江戸時代の思想史研究の道筋を日本に取り戻したのである。〉

 おそらく、これはただしい。
 クリスチャンである七平は、現人神の思想に賛同していたわけではない。しかし、多くの知識人のように、現人神の思想を小馬鹿にして、うっぷんを晴らしたりはしなかった。その根は意外と深いとみていたのである。
 現人神の思想は、変動いちじるしい日本の近代社会に一種の秩序意識をもたらした。だが、それは同時に諸刃の剣でもあった。現人神の名のもとに、一千万人以上が戦場に送られ、何百万もの人びとが戦没死したことは否定できないからである。
 戦後、天皇はみずから現人神でないことを宣言した。だが、日本人のなかには、いまも天皇を神のようにあがめる気持ち、そして天皇の国が認める殿上人になりたいという気持ちがまだ根強く残っている。その根源には伝統的な尊皇思想がある。『現人神の創作者たち』は、そのルーツをさぐろうとした作品だったといえるのかもしれない。

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