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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(4) [人]

 山本七平は昭和天皇のことをどうみていたのだろうか。
 それをうかがうことができるのが1989年に刊行された『昭和天皇の研究』である。
 昭和天皇は3つの事例を例外として、立憲君主の枠からはみださなかった、と七平はみる。憲法を順守すること、きわめて厳密だったという。
 戦前、戦中においても、国務に関しては、国務大臣に権限をゆだね、その意志決定に容喙(ようかい)することはなかった。美濃部達吉の天皇機関説を支持していた。天皇自身が統帥権をふりまわして政府を批判したことは一度もない。
 ただし、例外がある。そのひとつが二・二六事件にさいして、昭和天皇が青年将校を暴徒と呼び、反乱鎮圧を指示したことである。
 もうひとつの例外。それは開戦が近づくなか、1941年9月の御前会議で、明治天皇の御製を詠みあげたことだ。「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という歌だ。明治天皇が内心、日露戦争に反対していたように、昭和天皇も日米開戦に懐疑的だった。しかし、軍部はそれを天皇が開戦を是認したと解釈した。
 さらに、第3の例外が終戦の「聖断」である。終戦を決断できない重臣たちにかわって、昭和天皇がポツダム宣言受諾による終戦を決断した。
 そのほかにも天皇がみずから「ご意向」を述べることがなかったわけではない。だが、それは通ることもあったし、通らないこともあったという。
 著者の東谷はこう書いている。

〈七平が指摘するように昭和天皇が立憲君主としての「自己規定」を守り続け、そしてもし重臣たちや軍部もまた立憲政治の「自己規定」を貫いて責任を自覚すれば、戦前・戦中の日本は違ったものになったかもしれない。〉

 日本の政治は戦争の空気に流され、無責任ないけいけ精神によって、無謀な戦争に突入してしまった。
 以前の現人神思想批判の激しさからすれば、昭和天皇を立憲君主としてとらえようとした七平の視点は、意外なほどあまいようにみえる。しかし、それは、天皇に過剰な幻想を加えることなく、天皇を立憲君主としてとらえる姿勢がだいじだと七平が考えていたからだ、と著者はいう。
 おそらく、七平は日本に大統領制はなじまないと考えていただろう。

 晩年の七平はイエス伝を書こうと思っていた。
 みずから経営する山本書店からは、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』を出版している。これは紀元66年から70年にかけてのローマへの抵抗を記録したものだ。そこでは奇しくもイエス・キリストの実在が証言されている。
 七平の方法は、歴史を通じてイエスを見るというものだ。とうぜん、ユダヤ人の物語にもふれることになる。
 著者の東谷は、不幸に不幸を重ねながらも神と対峙するヨブの姿勢が、戦争中の七平の姿と似ているという。七平は聖書の『ヨブ記』を、みずからの卑小性を認めながら、神に訴えて撥ねつけられ、それでも神に訴えつづける男の物語として読み解いていた。
 七平の父親は内村鑑三の弟子だった。だが、七平自身は内村に相矛盾する感情をいだいていた。
 こんなふうに書いている。

〈言うまでもなく内村は、その前半生において、日本の社会に徹底的にもまれ、叩かれ、再起不能なまでに叩き付された人間である。そしてこの経験は否応なく彼に、「日本なる一種の怪物」を凝視させる目を与え、これに対処する道を教えたといえる。〉

 これはまるで七平自身の自画像のようにみえる。七平もまた「日本なる一種の怪物」とぶつかっていた。
 遠藤周作が『沈黙』や『深い河』などでえがいた日本的なキリスト教に、七平は懐疑的だった。それは日本の「空気」にのみこまれたキリスト教なのだと思われた。
 生前最後の作品『禁忌の聖書学』は未完のまま残された。
「イエス伝は僕のライフ・ワークになるだろうが、それを書いたとき、僕は命を吸い取られるかもしれない」と、七平は語っていたという。
 七平は日本民族の永遠性の保証を、日本教、すなわち日本的自然の象徴である天皇制にみていたように思える、と著者は書いている。しかし、天皇制がはたしていつまでつづくかに疑問ももっていた。
「七平は最期まで聖書の世界と日本教の世界を行き来していた」と著者はいう。

〈七平は「現人神」に対して強い憎悪を抱いていたし、それを生みだした「日本教」に対しても戦いを挑んできた。七平説では、この「日本教」は「空気」を生みだすアニミズム的な文化なのだから文句なしに「敵」だといってよい。
 ところが、そのいっぽうで日本を継続させるためには天皇制が必要だという説には同意を示し、また、昭和天皇には立憲君主としての自己規定を貫いた見事な君主として高い評価を与えているのである。〉

 そこには一歩踏み外せば破綻しかねない矛盾した論理があったが、その矛盾に耐えながら、常に緊張を忘れず、現実にありうる狭いエッジのうえで考え抜くところに七平の真骨頂があったのかもしれない。
 1991年12月10日、山本七平はがんのため69歳で亡くなっている。もともと病弱な人なのに、20年あまりの評論活動で、200冊以上の本を残した。

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