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滝村国家論をめぐって(まとめ2) [思想・哲学]

   8 国家とは何か

『国家論大綱』には、国家とは国家権力によって組織された社会だという言い方がでてくる。国家権力がないと、国家は存在しない。社会がなくても、国家は存在しない。
 ポイントは国家権力である。国家権力とは何か。それは社会全体、すなわち国家を支配する力だといってよい。
 滝村はこういう言い方をしている。

〈国家権力が、社会全体を法的規範にもとづいて組織化したとき、この法的に総括された〈社会〉は、他の歴史的社会との区別において、〈国家〉と呼ばれる。〉

 論理的には、まず社会があって、次に外部社会との関係で国家が成立し、国家権力が誕生するということになる。
 国家権力と国家とは区別されなければならない。
 というのも、国家権力の形態が変わり、権力が移行しても、国家は存続しうるからである。逆に、国家権力が完全に消滅すれば、国家もまた消滅する。そのとき、かつての国家すなわち社会全体は、植民地ないし新たな領土として、別の国家に組み入れられてしまうことになるだろう。
 国家と社会もまた区別されなければならない。
 国家は社会を包みこむかたちで、国家として成立する。いっぽう、社会が国家を包みこむことはありえない。
 というのも、完全に国家から隔離された部族社会も存在しうるからである。
 また国家権力の正統性が問われるときには、あたかも国家と社会が乖離するような事態が生じてくるかもしれない。
 近代においては、一般に国家は政治を担い、社会は経済を担うと思われている。しかし、国家は「法的に統合・総括された社会」なのであって、社会は国家から分離されているわけではないのである。
 このように国家と国家権力と社会は別の概念なのだが、実際はからみあっているので、その関係をしっかりと押さえておく必要がある、と滝村はいう。
 じつにややこしいが、とりあえず、国家とは国家権力によって法的に組織された社会である、という定義をもう一度頭に入れておこう。
 それでは国家と国家権力は、どのようにして生まれてきたのだろうか。
 国家の成立は国家権力に先行する、と滝村は書いている。
 国家の前は部族社会が存在した。
 部族社会は首長をもつ血縁的共同体である。だが、それはたったひとつしかなかったわけではない。多くの部族社会があったと考えられる。
 ある部族社会が外部の部族社会との関係を有するようになったとしよう。その関係には、戦争や交易が含まれるが、とりわけ緊張が高まるのが戦争の可能性が生じたときである。そのとき、部族社会は外部の脅威に備えるため始原的な国家を形成する。そして、その内部に部族社会全体を統率する国家権力が生まれてくるのである。
 そこで、国家についての滝村の新たな定義が生まれる。

〈〈国家〉は内外危機から〈社会〉全体を維持・遵守するために、〈社会〉を挙げて構成された、統一的で独立的な組織体である。〉

 つまり、国家は共同体が外敵に備える体制をつくる必要に迫られたときに誕生するのだ。
 国家の存立根拠は外敵にたいして社会を守ることだといってよい。しかし、守ることは攻めることでもある。
 国を守ることが、いつの間にか、ほかの国を滅ぼすことへとつながっていく。
 こうして、国家は部族国家から王国、帝国へと発展していくのだ。
 部族国家は始原的な国家である。その部族国家が他の部族国家を吸収したときには王国が成立する。そして、帝国は「特定の王国が、数種の異系文化圏の諸王国や諸部族国家を、その政治的傘下に包摂した」段階で成立するといってよい。
 世界史的にみれば、こうした国家は、アジア的、古代的、中世的といった典型的形態をたどった。いま、それを詳しく述べるのは、やめておくが、近代以前の世界史的国家についていえることは、どの形態の国家においても、国家権力はじゅうぶんに発達していなかったということだ。
 国家権力が社会全体を法的に包摂するまでに発達するのは、近代国家にいたってである。
 近代国家のひとつの特徴は、社会の構成員が社会的活動と精神的活動の自由を国家によって保証されていることだ。
 市民権を付与された個人は、法的には市民と呼ばれ、政治的には国民と呼ばれる。市民権を付与された国民が登場するのは、民主的政治形態のもとにおいてのみである、と滝村は述べている。
 近代国家において、国民は多かれ少なかれ国家意識をもつようになる。それは教育などによって培われたものであるが、いくらコスモポリタンだと思っていても、海外に行けば、たとえば自分が日本人であることは、いやおうなく意識させられるものだ。
 そうしたことをいわば前置きとして、滝村は自分自身もいやおうなく組みこまれている現代の国家とは何かを説き起こしていく。

   9 社会と国家

 社会はなぜ国家を必要とするか、と滝村は書いている。
 これは頭から国家を抑圧・統制機関とする発想とはことなる。
 たしかに、時に国家はいまわしいほどの抑圧・統制機関へと転じる。それでも、なぜ社会は国家を必要とするのだろうか。
 国家とは、国家権力によって政治的に(法的に)組織された社会のことだ、と滝村は定義した。それは内外の危難にたいし、社会全体として対応する(その対応はしばしば攻撃のかたちをとるが)ために形成された。
 すると、内外に危難がなくならないかぎり(あるいは逆に別の国家に統合されないかぎり)、国家は存続するということになる。
 ところで、国家権力を構成するのは公務員と呼ばれる人びとである。中央、地方合わせて、その数は日本では総人口の約7%(米国は約15%、イギリスは17%、フランスは23%)にあたる。かれらは社会的な生産に従事するわけではなく、税金によってその公的活動に当たっている。
 それでは国民はなぜ大きな租税負担に耐えてまで、公務員による国家的活動を容認しているのか、と滝村は問う。
 それはやはり社会が国家を必要としているからではないのか。
 現在の先進国において、社会は近代市民社会の形態をとっている。
 近代市民社会では、個人の経済的・社会的・精神的な活動の自由が認められている。こうした社会が築かれるまでには、長い抵抗と闘争の歴史があったことはいうまでもない。そして、近代市民社会が形成されることによって、専制的国家体制は倒され、ようやく民主主義的国家体制が生まれた。
 とはいえ、滝村によれば、その自由な社会が「ごく一握りの少数者と大多数の一般大衆との間の、かつてない経済的な格差と〈不平等〉をもたらした」ことも事実だった。その社会は自由であるからこそ、常に苛酷な経済的・社会的闘争がくり広げられる、競争と対立の場になった。
 そこで、国家権力は社会において生ずる紛争を処理するためにも必要とされるようになる。
 それ以上に重要なのが、外部の国家との関係だった。その関係は常に交易だけではなく紛争を内在させている。そして、紛争は最悪の場合、戦争へと発展しかねない可能性を秘めている。
「他の歴史的社会は、友好・同盟・対立・競合のすべてを超えて、つねに〈敵国〉へと転化しうるというところに、歴史社会の〈国家〉的構成の必要と必然が、内在している」と滝村は述べている。
 歴史的にみれば、あらゆる部族国家は、部族国家どうしの対立のなかから、王国ないし帝国へと発展する可能性をもっていた。さもなければ、どこかの王国ないし帝国に従属するほかなかった。
 その傾向は近代国家においても変わらない。
「先進諸国相互においては、一方で、かつてない網の目のように緊密な貿易的連関を生み出しながら、同時に他方で、後進諸国を政治的な手中に収めんという世界的覇権をめぐる戦いが、つい半世紀ほど前まで、国民社会の総力を挙げてくり返されてきた」と、滝村は指摘する。
 こうして、国家としては、軍事・防衛が政治上、最大の任務となるのである。
 次に国家に求められるのが、国民の共通利害を守ることである。その筆頭に挙げられるのは、社会秩序を守るための治安活動である。またインフラを整備するための公共土木工事も求められるだろう。最近は、経済政策や社会政策も重要になってきた。
 いっぽう、共通利害が分裂する場合、あるいは特定の利害に国家がかかわることもある。
 たとえば社会的紛争や経済的紛争が当事者間で解決しない場合である。この場合は国家が介入することになる。さらに、突然の自然災害や経済危機など、諸個人や地域社会だけでは対応しきれない事態が生じた場合にも、国家が問題解決に乗りだし、社会的救済にあたらなくてはならない。
 これらは、実際には国家の名において、国家権力によって対応がなされる。
 言い換えれば、どのような国家権力であっても、政治的に組織された社会、すなわち国家の安全を守ることが求められるのである。逆に社会の安全を守れなくなれば、国家権力は解体・変更を余儀なくされる。最悪の場合、国家権力自体の消滅、すなわち国家の崩壊を招くことになるだろう。
 国家と国家権力を区別することは重要だ、と滝村は強調している。国家権力が民主的か専制的かによって、国家のかたちはかなり異なってくる。
 国家はしばしば国家権力と同一視されがちだった。レーニンは国家を暴力装置と規定し、その暴力装置を取り除きさえすれば、国家は消滅するのだと考えた。この規定は、どうみても国家と国家権力を同一視している。
 ところが、どうだろう。レーニンのソヴィエト政権は、それ自体、独裁政権と化し、ソヴィエト政権を守ることがあたかも国家を守ることであり、ソヴィエト政権を対外的に拡張することが、社会主義を広げることだという幻想におちいってしまった。そこでは、近代社会における国民の自由な活動を保証するという、国家としての最低限の役割さえ見失われがちだった。
 いっぽう、アナキズムもまた国家と国家権力を同一視しているとみてもよい。そこでは反権力・反国家がどこまでも追求されることになり、その先の展望はまったく見えなくなってしまうのである。パリの五月革命や日大・東大闘争など、1968年当時の雰囲気が思い出される。
 国家と国家権力の区別と連関をあきらかにした滝村国家論の意義は大きいといわねばならない。

   10 統治と行政

 国家活動をおこなうのは、いうまでもなく国家権力である。
 国家活動は大きく対外的活動と対内的活動に分けられる。前者を外政、後者を内政と呼ぶことができる。
 しかし、より本質的にいうなら、国家の活動は統治と行政から成り立っている、と滝村はいう。
 統治は国家の根幹を保持するための対外的な政治活動である。対外的というのは、外部国家の動きに、国家がどう応じるかという問題にほかならない。それは、具体的には、外交、軍事、通商、治安、金融などへの対応を意味している。
 これにたいし、行政は国民に向けられた、いわば対内的な政治的対応である。滝村によれば、行政とは「国家権力による当該社会の内部的な統制・支配の全般的活動」と定義されている。
 具体的には財政政策や公共土木工事、労働政策、社会保障、警察活動などが含まれるだろう。教育や宗教政策も行政の分野にちがいないが、それは統治にもかかわる問題である。
 統治と行政はいちおう区分けできる。しかし、たとえば行政レベルで問題が解決できず、それが国家の根幹を揺るがす事態になれば、問題はとうぜん統治レベルへと格上げされる。また対外的な政策が、国内に影響をもたらすこともたしかである。その点、統治と行政は密接にからんでいる。
 それでも、滝村国家論が特徴的なのは、国家権力による国家的活動を、統治と行政に区分けしたところである。統治なき行政、行政なき統治はともに国家の存立をあやうくするだろう。
 そこで、まず統治について、見ていくことにしよう。
 ここでもっとも重要なのは対外政策(外交・軍事)である。対外政策には国家の存亡と興廃がかかっている。
 現実世界では、主要な敵国を念頭において、政治的同盟政策が展開されている。それは軍事同盟の性格をもつから、対外政策は軍備力をともなう軍事政策と関連していく。
 現実世界において、はたして非武装中立、あるいは武装中立はありうるんだろうか。
 国際政治の世界は、「力の均衡」によって成り立っている、と滝村はいう。その均衡は、「自国の現状に飽き足らない諸国」が「飛躍的な発展」を遂げることによって崩れやすい。
 そのために「均衡」政策は、「新興政策による『秩序』の革命的破壊を未然に封殺し、局地での紛争が『秩序』破壊にまで拡大しないよう、強力に制御すること」をめざすという。
 しかし、それが抑えられず、国際世界の政治秩序が大きく破壊されるときには、世界戦争が勃発する可能性がある。
 国家権力が外交と軍事を掌握するのは、端的にいって、国家を守るためである、と滝村はいう。国際政治の現実は無視できない。外交と軍事にたいする、しっかりした自主性があってこそ、国家は守られるのだ、と滝村は考えている。賢い選択が必要だろう。
 滝村はさらに対外政策としての通商問題にも触れている。通商政策はけっきょく自由貿易か保護貿易かの選択に帰着する。具体的にいえば、通商政策は関税や自由化、国内産業の保護育成、輸出奨励などの問題にかかわる。
 通商政策は、外交や軍事といちおう切り離すことができる。たとえ政治的に敵対関係にあったとしても、通商関係は経済問題として扱える。だが、いくら経済的に切り離せるといっても、経済関係の対立が深まれば、それは容易に外交問題、さらには軍事問題へと発展する可能性を内在している。
 もちろん外交関係の樹立なくして、通商関係がありえないことはいうまでもない。
 さらに滝村は、統治にかかわる重要課題として、治安活動に触れ、それが二重に分化するとして、こう述べている。

〈それは、当該社会全体を直接震撼させる、大規模な組織的違法[犯罪]活動を制圧し、また未然に制御するための特殊〈治安警察〉活動と、その他の個別的違法[犯罪]活動に実践的に対応する、一般〈行政警察〉活動との分離である。〉

 つまり、治安活動は、治安警察活動と行政警察活動にわけて考えることができる。そして、ここから政府に直属する治安警察と、地方の管轄する行政警察とがわかれることになる。
 これはあたりまえのように思えるが、そうではない。軍と警察の分離、治安部門と行政部門への警察の分離と二重化は、きわめて近代的な現象なのである。
 言い換えれば、近代以前においては、軍と警察が一体化しており、それはすべて国家権力のための治安活動に向けられており、国民の安寧はほぼ無視されていたといってよい。
 次に論じられるのは行政である。
 行政は資本主義的生産様式と議会制民主主義とがセットになった近代国家において、はじめて発現する、と滝村は書いている。
 行政のなかでも、とりわけ重要なのが経済政策である。
 経済政策は財政政策と金融政策に分類することができる。
 基本的に国家の財政は、国民から強制的に徴集された租税によって成り立っている。国家財政は予算にもとづいて運営される。その予算は議会において審議され、承認される。
 国家予算は外交・軍事・治安など統治にかかわる部分と、公共事業・社会保障・医療・文教・環境・公害防止など行政にかかわる部分から成り立っている。
 財政政策が登場するのは1930年代以降である。それによって、予算は社会に還元されるようになった。それまで財政は専制的国家を維持するためにのみ運用されていた。
 いっぽうの金融政策は、中央銀行が金融の流れを調節することによって、金融制度全体の維持・安定をはかることを目的としている。
 とりわけ1930年以降は通貨が兌換制から管理体制へと移行するなかで、金融政策の重要性が高まってきた。金融政策は景気循環を調整し、とりわけ恐慌を防止する手段として、広く活用されるようになった。
 社会政策はもっとも新しい分野である。滝村によれば、社会政策が本格的に展開されるようになったのは第2次世界大戦後であって、「社会的な弱者・貧困者への国家的保護・救済の必要」が高まったためである。
 その背景には、普通選挙制度を通じて議会制民主主義が定着し、それによって労働組合が大きな勢力として登場したことがあるという。
 とはいえ、社会政策には長い前史がある。それは治安維持と結びついた救貧行政からはじまって、失業者対策などの労働政策、さらに社会保険の導入へとつづき、現在では医療・失業・年金の社会保険に加えて、生活保護の公的扶助が加わるようになった。
 滝村によれば、社会政策は「個別資本による労働者への際限なき苛酷な搾取と抑圧に、国家権力が〈平均的な必要労働[つまり雇用]の保障〉という、一定の歯止めをかけるもの」であったという。
 つまり、社会政策には、労働者の生活を改善することで、労働者階級の反乱を防ぐとともに、消費市場を拡大するねらいがあった。
 そして、最後が公教育である。滝村は、公教育とは単に国家による教育を指すのではないという。それは国民教育でもあって、「国家権力が社会構成員[国民]の全子弟に対して、一定期間明確な目的をもって行なう学校教育」であり、義務教育としての性格をもっている。
 さらに滝村は、「〈公教育〉とは、国家権力による目的的な人間形成であり、とりもなおさず〈近代社会〉に対応した社会的人間を、目的的につくりあげるためのものであった」と述べている。
 そのため、公教育においては、読み書きそろばんに加えて、自然科学の知識や道徳・倫理、社会・歴史の知識が生徒に注入される。それは、国民になるための「思想的・イデオロギー的教育」の性格をもっている。
 以上で、統治と行政からなる、国家権力の実質的構成が概観された。
 滝村国家論はいかにもぶっきらぼうである。
 しかし、それは国家嫌いの左翼の幻想を打ち破るとともに、国家至上主義の思想を振りまく右翼にも痛棒をくらわす性格をもっているのである。


   11 三権分立論

 滝村は、国家権力は一般的に専制的な形態をとると述べている。民主主義が採用されるのは、短期間の例外を除いて、近代以降であるにすぎない。
 なぜ近代国家は民主主義的な形態をとるのだろうか。
 近代国家の特徴は、巨大な国家組織を備えていることだ。自由な社会に対応するためには、それだけの組織が必要になってくるからである。
 しかし、その巨大組織が時の支配者や官僚によって恣意的に運営されたとしたら、どうなるだろう。かつてない専制国家の暗黒が到来するにちがいない。
 そうした危惧が、議会制民主主義を生んだ、と滝村はいう。
 議会制民主主義は、三権分立の上に成り立っている。
 三権分立とは、司法、行政、立法がそれぞれ機関として分離、独立し、牽制しあう権力のありかたをさす、というのが一般的な理解である。
 三権分立を唱えたのは、18世紀フランスの思想家モンテスキューだ。かれが三権分立を提起したのは、絶対王政による専制に対抗するためである。そのこと自体、議会制民主主義とは直接関係がなかった。にもかかわらず、その後の議会制民主主義の発達によって、三権分立は近代国家の組織原理として欠かせないものになった。
 議会、政府、裁判所は、かならずしも立法、行政、司法と直接対応しているわけではない、と滝村はいう。
 議会は法律の裁可と決定をおこなうだけではない。政府の行政裁量を監視したり査問したりする国政調査権も有している。裁判官の違法行為を裁く弾劾裁判権ももっている。
 いっぽう政府は、法律にもとづいた執行をおこなうだけではない。その行政的執行が、法解釈の変更をともなってなされることもある。それが、実質的な法的執行につながることもある。また国によっては、執行機関が官庁職員にたいする内部的な行政裁判権を有することもあるという。
 さらに裁判所もまた司法権を有するだけではない。裁判の判決を通じて、実質的な法的規範の定立をおこなうこともある。
 このようにみると、議会、政府、裁判所も、単純に立法、行政、司法をおこなっているわけではない。したがって、三権分立は単なる議会、政府、裁判所の役割分担を意味するわけではない、と滝村はいう。
 滝村によれば、重要なのは法律が国民に適用されることだけではなく、その法律を執行している国家権力自体が違法行為を犯していないかがチェックされること、それが三権分立の核心なのである。
 したがって、三権分立の意味は、滝村によると、こうである。

〈具体的にいうと、直接には三大機関の分立としてあらわれる、三権分立制の制度的根拠は、規範としての意志の形成[立法]と、定立された規範にもとづく実践的遂行[執行]、それにこの規範としての意思の形成・支配の全過程が、定立された規範の規定にもとづいて、正しく実践されているか否かをたえず厳しく監視し、違法行為があった場合には、規範にもとづいて審査し処罰する[司法]。〉

 平たくいうと、法をつくる議会、法を執行する政府、そして法を監査する裁判所が、正しく法をつくっているか、正しく法を執行しているか、正しく法を監査しているかを互いにチェックしあう仕組みが三権分立ということになる。こうした仕組みができるのは近代以降である。
 専制的国家においては、専制的支配者があらゆる国家意志の決定権を握り、三権は未分化ないし形式上のものにとどまっていた。
 しかし、そこから議会が分離独立すると、民主主義のもと国民の総意が法律として形成されるようになる。さらに専制的支配者がもっていた裁判権が司法として独立すると、形式的には司法権が最高の権力となって、法治国家が成立するのである。
 三権分立において、もっとも重要なのは、議会制民主主義によって、議会が立法権を独占的に掌握することである。しかし、政府の強大化が進むと、議会が形骸化され、挙げ句の果てに、行政府の長が自分は立法府の長でもあると宣言するような奇妙な事態も生じてくる。これは三権分立の実質的解体を意味する。
 こうした事態を避けるためには、国民が中央ならびに地方の議員を直接選出するだけではなく、中央ならびに地方の首長をも直接選出できるようにしなければならない、というのが滝村の考え方である。すなわち、あいまいな議員内閣制を避け、大統領制と議会の組み合わせにもとづく、行政府と立法府の分離こそが、近代法治国家のあり方だということになる。
 三権分立にもとづく近代国家においても、国家権力の中心が実質的には行政権にあることはまちがいない。しかし、民主的な法治国家においては、独立した立法権と司法権が行政権の暴走をチェックする役割を果たす。
 そうした政治形態が可能になるのは、民主制のもとにおいてでしかない。民主制の根本は、国家意志の形成に国民が直接・間接に関与し、参画しうるところにある。
 逆に国民が国家意志の形成にかかわれない場合、そこでは専制が敷かれているということになる。専制のもとでは、諸個人の現実的・精神的な自由が大幅に制限されている。近代以降に登場した、ファシズム国家や社会主義国家は、そうした専制国家の典型だったといえる。

   12 政府と議会

 専制的形態をとる国家権力から議会が分化していくまでには、長い歴史的な闘いを要した、と滝村は書いている。政府と議会が分離され、一般に政府が統治権力を、議会が行政権力を代表するようになるのは、その結果である。といっても、それは政府が行政とは無関係で、議会が統治と無関係だということではない。
 政府の行政活動が進展するのは、歴史的にみれば、ずっとあとになってからである。滝村は、統治に関する政府機関を外務・国防・通商などの外政部門と、内務・法務・財政などの内政部門にわけている。いっぽう、行政にかかわるのは、農政・産業・建設・郵政・運輸・福祉・文教などの部門である。
 民主主義が未発達の段階においては、政府内ではとりわけ内務省が大きな権力を握っていた。国防省が軍隊を統率するのにたいし、内務省は警察を掌握していた。とりわけ治安警察が大きな権限を有している国は、専制の度合いが強く、逆にそうでない国は民主化が進んでいる、と滝村は指摘する。
 軍が外的国家(戦争)にかかわるとすれば、警察は内的国家(治安)にかかわっている。加えて、国防や治安に関する動きを察知するために、情報・諜報機関がもうけられる。その行動はしばしば人権の無視・圧殺をもたらす。
 議会(国会)では「国民から選出された政治的代表が一堂に会して、〈法律〉形態をとった国家意志の裁可・決定をおこなう」。そのため、議会は国家にたいしては国民を代表し、国民にたいしては国家を表示する二重の性格を有することになる。
 議会は一般に二院制の形態をとるが、それは歴史上生みだされたものである。第一院(上院)は貴族院、ないし参議院であり、第二院(下院)は衆議院、ないし庶民院である。歴史上、最初に登場したのは、王の直属機関としての封臣会議であり、それが身分制議会へと転身していった。これにたいし、第二院の発生は遅く、封建制の解体にともなって、下級貴族や市民階層が台頭した結果だったといってよい。
 そのため、議会においては第一院が統治に関する責任を担い、第二院が行政に関する意志決定をおこなうようになった。だが、大衆化の進展とともに「第一院として出発した貴族院(ないし参議院)が、第二院の衆議院(ないし庶民院)によって、その実権を徐々に剥奪され、完全に形骸化されて」いく。
 立法機関たる議会は、議長、副議長、理事会によって指揮される。議会における意志決定は、形式上、最高機関である本会議でなされるが、実際の審議は委員会(常任委員会と特別委員会)でおこなわれる。国家の諸活動が拡大するにつれて、議会での立法活動が飛躍的に増大したためである。
 近代以降の国民国家においては、三権分立にもとづいて、政府、議会、裁判所はそれぞれが独立した機関となっている。政治的民主主義を前提とすれば、その一般的政治形態は大統領=共和制をとるほかはない、と滝村はいう。
 イギリスを典型とする議院内閣制は、特異な形態といわねばならない。イギリスでは、総選挙で第1党となった党首が、自動的に首相となる(この点は、連立政権が誕生する日本と異なる)。問題は、議会と政府が融合していることで、そのため議院内閣制においては、実質的に三権分立制が否定されている。
 滝村は、歴史的にみて、国家は近代にいたるまで、何よりも統治権力であり、行政活動はごくかぎられていたと指摘している。議会制民主主義が定着するのは、国家における行政的要素が拡大するにつれてである。
 だが、議会制民主主義が全面的に発展した国においても、統治活動がなくなるわけではない。そのため、政府はとりわけ統治権に関する問題については、意志決定を一元的に集中化せざるをえない。行政と立法とが完全に分離された大統領制のもとでは、そうした傾向が強まる。
 滝村は議会制民主主義と政党との関係についても論じている。立法機関としての議会は、国民諸層の意志を、法律というかたちで国家意志に転成させる役割を担う。
 近代民主政治は、政党政治のかたちで展開される。国会議員は各地域社会から選出された地方代表である。だが、地方といっても、そこには国民社会としての一般性も含まれている。そのため地方代表といっても、そこには国民代表としての一般性が含まれている。議員が地方的利害を代表するだけではなく、国家的利害を代表するのはそのためだ、と滝村はいう。
 ここで念のためにつけ加えると、地方的利害とは、中央からの財政上・税制上の保護・援助を指し、さらには公共土木事業や大企業誘致なども含まれる。そのため、各地方は議員に地方と中央との政治的パイプ役を期待することになる。
 いっぽう、国家的利害とは、国民社会全体の維持・発展にかかわる事象で、外交、治安、文教、経済、社会政策などを指す。ここでは、個々の議員は、地方的利害にとどまらず、国家的利害をも担うことになる。
 こうした地方的利害と国家的利害は、迅速に法律や政策に転化されねばならない。その意味で、議会は「統治・行政的意志決定機関」だということができる。
 とはいえ、個々の議員がばらばらに集まって、さまざまなテーマについて国家意志を確定していては、たいへんな手間と時間がかかる。そのため、議員たちがあらかじめ政治意志の共通性において大きく結集するほうが好都合である。政党が必要になるのはそのためだ。
 政党は経済・社会政策、および根本的政治理念を提示することによって議員の組織的結集をはかる。とりわけ、政治理念と基本政策、言い換えれば綱領が、政党の柱をかたちづくる。
 近代国民国家においては、国家の現状を肯定するか否かによって、政党が少なくとも二つに分かれる。つまり、支配階級に有利な政策を進めるか、それとも被支配階級に有利な政策を進めるかによって、政党は分立するといってよい。ただし、議会制民主主義=資本主義経済を否定する政党がめざすのは、プロレタリア独裁=社会主義経済や、一党独裁=コーポラティズムであり、いずれにせよ全体主義の方向である。
 二大政党制が登場しやすいのは、小選挙区制が採用される場合である。これにたいし、比例代表制は、多党乱立状態を生みやすい。小選挙区制のもとでは死票が多く生まれ、民意を反映するという面では、小選挙区制は不完全なものである。しかし、比例代表制のもとでは深刻な政治的混乱が発生する恐れもある。
 いっぽう滝村は、外政に重点をおき統治を重視するか、それとも内政に重点をおき行政を重視するかによっても、政党の性格がことなってくると指摘する。
 二大政党による政権交替には意味がある。ある政党が国家の威信と栄光を求めて、政権を運営しても、それによって実益を得るのが一部支配層であるとわかったとしよう。そのとき、犠牲を強いられた国民が疲弊しきった内政に大がかりな行政的てこいれを求めて、別の政党を支持することは大いにありうる。そして、さらに「内政面での建て直しが完了すれば、また統治党による本格的な外政が展開される」。こうして、二大政党による政権交替が現実のものとなるのだ。
 戦後の特徴は、実質的な社会民主主義政党が(労働党や社会党と名乗っているとしても)、二大政党の一翼を担うようになるまで成長したことだ、と滝村は指摘する。社会民主主義政党は、革命政党ではないが、議会政党である。力強い外交政策は展開できないにせよ、社会民主主義政党は、社会政策を積極的に展開する。政権担当能力をもった、責任政党としての「社会民主党」が、内政を中心とした行政政党として登場したことを、滝村はそれなりに評価している。
 加えて、近年の特徴は、マスメディアを媒介とした世論が、政治に大きな影響を与えていることである。「マスメディアは、ときどきの社会的・経済的・政治的権力に対する〈人民の護民官〉ならぬ、国民の側からの監察官であり、国民の抵抗権の代弁と組織化を担う、思想的・観念的権力である」と、滝村は論じる。
 とりわけ重要なのはマスメディアにおいて、国民の政治的意志や感情が政治的世論として形成されることである。とりわけテレビや新聞は大きな役割を果たす。それを規制しようとする動きもとうぜん生じるが、メディアを完全に規制できるのはファシズムや社会主義などの専制国家だけだ。
 政治家が世論を無視できないのは、世論が選挙に影響を与えるからである。しかし、いっぽうでマスメディアはみずから積極的に政治的意志を発することはない。それはあくまでも受け身の存在である。したがって、「世論を実質主導し、世論によって大きく支えられた政府は万能である」と、滝村は述べる。
 テレビの登場はまた、政治家のイメージを大衆に浸透させる役割を果たしている。そのため政治家はテレビを前に、大衆に好感度をもたれるよう演技するよう求められる。滝村は「知名度の高いメディア・スターやとくにテレビ・タレントは、日々選挙運動をしているようなものであるから、有権者が直接間接に選出する政治家としての各級議員や行政首長へと転じやすい」とも述べている。これもまた現代政治の特徴なのかもしれない。

   13 国家の空間的構成

 国家の空間といえば、まず領土を思い浮かべるだろう。国家は大地を領土として構成せざるをえない。それに領海や領空が加わる。この領域では他国からの侵入が排除され、自国の支配権が確立される。
 領土は一定の広さを必要とする。自然条件はともかくとして、国家にとって、一般に領土は広ければ広いほうがよいとされる。そのため、国家の領土はけっして固定されることがなく、近隣諸国間では領土をめぐる紛争がたえまなく生じる。
 ちなみに滝村は「領土とは、外的諸関係のなかで、国家権力によって排他独占的に囲い込まれた、社会的生存圏としての特定地域[土地空間]である」と規定している。
 領土を確定することによって、国家的支配圏が成立する。その領土は統治領といってもよいだろう。領土は、平和的であれ、暴力的であれ、近隣諸国との政治的な力関係によって確定される。国家は自国領土を近隣諸国に認めさせるとともに、国内的にもその支配権を了承させる必要がある。それによって、領土内の国民にたいする保護と統制がなされることはいうまでもない。
 領土的支配権は、私的な土地所有権とはまったく異質の原理にもとづいている。とはいえ、よく似かよった部分もある。排他独占的な土地所有という点では、領土も私有地も同じである。しかし、私有地が社会によって承認されるのにたいし、領土の場合は外的国家レベルで国際的に承認されなければならない。
 他国への領土拡張は帝国を生みだす。滝村によれば、帝国とは「特定の国家による、数種の異系文化圏世界への政治的支配と組織的包摂」を指している。植民地もまた帝国の領土に属するといえるだろう。植民地においては、植民地自体の統治権は剥奪されている。保護領は、本国によってその外政権を奪われた状態を指す。自治領は、内政上の自治権を付与され、さらに外政権をも獲得して、国家として独立するにいたる過渡的な状況にあるといってよい。
 国家連合は特異な国家形態である。国家連合のもとでは、諸国家の独立を前提としながら、国家の連合が模索される。連合は同盟よりも一歩進んだ国家形態ということができる。
 同盟の場合は、条約によって軍事を中心とした共同行動を定めることによって、敵対する特定国家との有事に備える。だが、同盟を結んだとしても、それぞれの国家は政治、外交、経済にわたって独自の意志決定権を有している。
 これにたいし、国家連合の場合は、主権国家の意志は大幅に制限され、諸国家の上に立つ機関が統治上の意志を決定し、諸国家はそれに従わなければならない。国家連合が統一的連合国家へと発展し、さらには世界国家へと転成するのがむずかしいのは、現在の欧州連合(EU)の現状をみてもわかる。
 さらに、滝村は民族と国家の関係について、「国家ぬきの民族など絶対にありえない」と断言する。「民族的な意識と感情は、国家を構成した歴史社会としての、確固たる一定の歴史的な発展を前提ないし土台としてのみ形成され、維持されていく」
 したがって、ある民族が新たに国家をつくるとしても、それは突然に生まれるわけではない。その民族が絶滅をまぬかれ、さらに、少なくとも数世紀におよぶ王国としての歴史的過去をもっていることが必要だ、と滝村はいう。
 ここで、滝村は国家の内的な空間的構成についても触れている。統一体としての国家は、中央と地方によって構成される。中央を統制するのは中央権力であり、地方を統制するのは地方権力である。
 地方権力は住民に関する社会的事柄を管掌する。その内容としては、交通・通信手段の建設・整備、電気、ガス、水道、医療、福祉、ゴミ処理などの生活基盤の確保、警察などの治安活動、さらには学校、図書館、博物館、スポーツ施設などの教育・文化活動などが挙げられるだろう。
 しかし、それは地方的な活動であるとしても、中央によって統率されている。いずれも地方的な特徴をもちつつも、大きくは中央権力による国家的枠組みのなかに位置づけられている。
 中央集権制か地方分権制かのちがいについて、滝村はこう述べている。

〈いずれの場合でも、国家権力中枢としての中央権力が、統治権力を独占的に掌握し、各地方権力は、中央行政権力の法的・制度的裁可と枠組みにおいて、各地域社会に即した行政的公務を担掌するにすぎない。両者のちがいは、各地域社会が日々切実に必要とする、行政的公務の裁可・決定権の過半を、中央権力が掌握するか、それとも地方権力が直接手にしているか、といところにしかない。いうまでもなく前者が中央集権制であり、後者が地方分権制である。〉

 地方政治の目的は「各地域に固有の行政的公務の処理と解決にある」。そのため、地方政治には、本来政党色が弱く、むしろ政党色を強くだすと、住民から嫌われるという側面もある、と滝村はいう。
 しかし、たとえば軍事基地や原子力発電所のように、地方自治体だけでは手に負えない問題が発生する場合もある。これは、一種「政治公害」のようなものである。その解決は、国家の統治・行政活動においてなされなければならない。
 国民社会は政治的にみれば、統治と行政という二重性のもとに組織されている。 こうした二重の組織化は、現実的には中央と地方の権力構成のもとになされている。中央権力は国家の統治にあたりながら、地方権力の行政能力を統制する。その意味では、中央権力は中央行政権力でもある。いっぽう、地方権力は中央権力の裁可と枠組みのもとで、地方の実際の行政にあたる。
 近代社会においては、市民は主権者としての国民として登場し、代議制民主主義によって国政に直接、間接にかかわる。国家権力中枢は、市民によって選出された政治的代表として、国政にかかわる活動をおこなう。いっぽう、市民は地域住民として、各地域の行政に直接、間接に関与し、各級の地方権力は、市民の意向にもとづいて、地域社会の管理と問題解決にあたる。といっても「地域住民自治」などというのは幻想にほかならず、実際には地方権力が中央権力に統制されていることを忘れてはならない、と滝村はコメントしている。

   14 国家と法、宗教、人権

 国家の支配は、法にもとづいておこなわれる。法は公的・社会的な規範であり、個人にたいする圧倒的な強制力をもっている。そして、国家のいかなる活動も法的規範にもとづいてなされるのが、近代の特徴だといえる。逆にいえば、いかなる国家機関も法を逸脱して行動することは許されない。
 諸法の頂点に位置づけられるのが憲法である。憲法においては、まず国家権力全体の構成、つまり国家がどのような機関によって成り立っているかが規定される。これを補うのが行政法であり、そこでは個々の行政機関の組織と活動がこまかく規定される。行政法には、内閣法や国家公務員法、地方自治法、国防関連諸法、警察関連諸法などが含まれる。
 憲法が規定するのは国家権力の構成だけではない。そこには社会体制の規定もある。さらに、国民の権利と義務も規定されている。憲法の前文では、国全体の考え方や方向性が示されている。その意味で、憲法は国家の基本的骨格を法的に表現したものといえる。
 これにたいし、刑法、民法、商法などの社会法は、これまでの社会的規律や習俗、慣行などを、近代的な国民国家に対応するよう編成しなおし、国家として国民のあいだのルールを定めたものである。
 一般に法律は統治関連の法と、行政関連の法に区別することができる。統治関連の法としては、憲法や行政法、刑法、国際法などが挙げられる。また行政関連の法には、民法や商法、経済法、社会法などがある。
 統治関連の法は公法、行政関連の法は私法と分類されることもある。歴史的にみれば、公法が私法に先行するのはいうまでもない。またアジア諸国は公法を中心に発達し、西欧諸国は公法に負けず劣らず私法が発展したことを、滝村は指摘している。
 法は新たな発生した事態に対応しなければならない。しかし、社会的変化への対応にはしばしばタイムラグがともなう。そのため、時代遅れの法律が改正されることなく、いつまでも存続することがありうる。とりわけ公法の分野においては、その傾向が強いという。
 国民国家においては、行政活動の活発化にともない、私法関連の法が飛躍的に増大していく。ただし、近代においても、戦時国家体制が形成される場合は、国民の市民権が制限されることはいうまでもない。
 諸法の上に君臨する特殊な公法としての憲法がつくられたのは、近代になってからである。それによって国民国家が成立した。近代憲法においては、国家権力の組織形態と、市民権(人権)が規定され、それをつなぐものとして、普通選挙権にもとづく政治的民主主義がかかげられた。
 しかし、20世紀における社会主義革命は、プロレタリア独裁思想にもとづく、きわめて特異な専制国家体制をつくりだした、と滝村はいう。社会主義国家の「憲法」には人権規定がなく、そこでは財産権も自由な政治活動も経済活動も言論活動も認められていない。
「社会主義憲法における、市民としての自由と権利は、社会主義・共産主義の思想と政治・経済体制に同意し服従しているかぎりでの諸個人に付与された、紙のうえのものでしかない」と、滝村はいう。
 さらに社会主義憲法には、プロレタリア独裁権力の中枢に陣取る共産党についての法的規定がなく、共産党は事実上、憲法外的な存在となっている。
 それによって、「専制的国家権力中枢のすべての政治的意志決定が、共産党中枢によって独占的に掌握される」。
 国家権力の中央から地方にいたる各種機関の指揮中枢は、共産党員によって独占される。こうして、社会主義国家では、トップを占めるのは共産党書記長であり、首相(大統領)や議会議長はその下に位置するという変則的な事態が生じる。
  社会主義憲法は、20世紀以降における「最悪の専制国家憲法」だとまで、滝村は断言している。
 滝村はさらに日本国憲法の特異性についても述べる。
 日本国憲法は、第9条において、戦争と軍事力の放棄を規定しているが、そのこと自体、国家主権を実質的に放棄したものだ、と滝村はいう。それによって、戦後の日本国家は「実質的に米国政治的傘下の、統治能力をもたない『自治行政権力』へと、貶められた」。
 第9条を廃棄しないかぎり、日本の主権は回復されないというのが、滝村の主張である。そこには、日本がこれからもアメリカの属国として、「平和と民主主義」を享受していけるのかという疑問が横たわっている。アメリカがいつまでも覇者として、世界に君臨するとはかぎらない。日米安保条約もいつか廃棄されるときがやってくる。そのときに備えて、日本は独立の気構えをもち、主権国家として自立する道を探るべきだというのが、滝村のメッセージだといってよい。
 次に国家と宗教の関係について。
 近代以前において、国家と宗教はメダルの表裏のように密接不可分に結びついていた、と滝村はいう。というのも、国家の専制的支配は神的・宗教的ベールを必要としていたからである。そこでは支配者はあたかも万能の神のごとく神格化されるか、そうでない場合も宗教権力によって裁可され承認されていた。
 とりわけ西欧諸国では、ローマ帝国が解体していくなかで、ゲルマン諸族が王国や帝国を形成するさいに、ローマ法王による承認を必要とした。
 ところが、近代において国民国家が成立するようになると、宗教的権威による国家の承認は必要でなくなる。議会制民主主義が発達し、国民は政治的代理人を通じて、みずからの政治的意志を国家的意志へと転成していくようになる。
 こうして社会とは無縁の外部的な政治意志が、国民に押しつけられることはなくなる。それにつれて、政教は分離され、国民は信仰の自由を認められるいっぽうで、国家権力が特定の宗教(宗派)を国教として選び、その宗教(宗派)に特権的な地位を与えることは許されなくなった。
 こうして、宗教は政治過程から分離されて、諸個人の精神的世界にのみ関係するようになり、社会関係においては、国家の法的規範が、宗教的規範よりも優先されるようになる。
 滝村は、最後に国民国家と人権の関係についてもふれている。
 国民国家においては、他者の生命や財産を侵害しないかぎり、原則的に市民的権利が認められる。そうした権利のなかには、職業と営業の自由、思想の自由、政治活動や文化活動の自由、言論や集会の自由、信仰の自由などが含まれる。しかし、こうした自由も、戦争など社会全体の危機が発生したさいには、制限されることもありうる。
 とはいえ、近代以降の国民国家の原理が人権論を基本にしていることはまちがいない。人権論とは、人が天賦の神聖な自然権をもつという考え方である。
 人権の基本は自由と平等である。人は法に違反しないかぎり、自由にすべてをおこなうことができる。ただし、自由の濫用については、責任を負わなければならない。
 いっぽう、人は法の前での平等を保証される。いかなる支配者も法にしたがわなくてはならない。「職業や貧富、生まれ育ちや思想・信条などのいかんで、人間を法的に差別してはならない」と滝村は論じる。
 さらに自由、平等を軸とした人権論からは、民主政と国民主権の考えが導かれる。
 とはいえ、滝村によれば、国民国家の原理は、単なる市民主義ではない。それは、市民—国家主義というべきものである。
 人権論はけっして反国家主義ではない。人権論は「〈国家権力による社会の国家的構成〉の必要と必然、という意味での〈国家主義〉を、当然の思想的また論理的な前提としていた」と、滝村は論じている。その意味で、人権の拡充は、国家権力の拡充とも同時的に結びついているのだった。

   15 ファシズム国家論

 ファシズム国家は近代に登場した特異な専制国家である。その内実は、世界帝国建設をめざす戦時国家体制だったということができる。
 ファシズム体制のもと、社会は軍事的に組織される。国民皆兵制が敷かれ、国家総力戦体制がつくられ、産業は軍事中心に再編成される。さらに国民は個人としての自由や独立性を否定され、国家・社会への寄与と献身を義務づけられる。
 戦時国家においては、膨大な軍事力が創出されなければならない。武器や兵器が大量生産されるだけではない。国民皆兵の原則にしたがい、国民には軍事訓練が課され、いつ戦場に送られても文句を言えない状況がつくられる。そのために、国家権力は学校やマスメディアを通じて、戦争勝利に向けて、徹底した大衆思想教育をおこなう。
 武器や兵器の製造は全産業にからんでおり、とりわけ軍事産業の規模は一挙に拡大される。衣服、食糧、建物、医薬品などの生産も、すべて戦時に応じて、体制が再編されていく。つまり、社会全体に国家的経済統制が敷かれるのだ。それは価格統制から企業利潤への課税にまでおよぶ。統制されるのは企業だけではない。労働者も同じで、賃金は規制され、ストライキは犯罪として禁圧され、労使の協調が求められた。さらに戦時においては、通常の税金だけでは間に合わず、戦時国債が乱発される。
 ファシズム体制はいうまでもなく民主的ではなく、専制的な形態をとる。そこでは、国家権力はほとんど何ものにも掣肘されない独自性と独立性を強める。戦時体制下では、議会は実質的に閉鎖され、政府と官僚機構が、首班とその側近の指示にもとづいて、政策をすみやかに実施する。それによって、ファシズム社会革命が遂行される。
 経済面でのファシズムの特徴は、国家権力による強力な資本統制だ、と滝村はいう。資本は廃止されるわけではなく、もっぱら軍需産業に投入される。そのため、巨大独占資本は、ファシズム体制下では、むしろ業績を伸ばし、寡占化していく。ただし、その場合も、企業に自由な経済決定権はなく、企業はあくまでも国家の経済計画にしたがわなければならない。
 ファシストは「資本家を最小限の利潤とひきかえに、『軍需生産』というオリの中に閉じ込めることによって、世界征服にむけた国家総力戦という国家的大目的のために、徹底してこき使おうとした」と滝村は記している。
 ただし、同じファシズムといっても、イタリアとドイツ、日本とでは、そのイデオロギー的特質が少しずつ異なる、と滝村はいう。
 ファシズムはもともと、強力な国家体制の創出をめざしていた。したがって、最初から強烈な侵略主義と民族排外主義への可能性を秘めていたといえる。それだけではない。ファシズムには、国家のために社会を改造し、個人を国家に奉仕せしめるという強烈な考え方があった。
 それを最初に唱えたのが、イタリアのムッソリーニだった。とはいえ、ムッソリーニには世界戦争というほど大胆な発想はなく、国内を強固にまとめ上げ、世界の列強の一角に食いこめれば、もっけの幸いというあたりがホンネだった。
 これにたいし、ヒトラーはドイツ民族(アーリア民族)による世界制覇を本気で考えていた。そこに、それをおびやかすユダヤ人は抹殺しなければならないという妄想が加わった。
 ヒトラーによれば、民衆は英雄的指導者の専制的支配を忠実に受け入れて、その命令に絶対的にしたがわなければならない。各級の機関は、指導者の指示・命令を忠実に実践するだけである。議会はもちろん廃止される。
 親裁体制は戦時下では、一定の効力を発揮した。
 だが、親裁につきものの欠陥を、滝村はこう指摘する。

〈親裁体制は、いつでもどこでも気がついたら、ただの特殊的技能者に、総合的な政治的技倆を要する重大な権限が与えられていたり、自分をおびやかさないぶんだけ仕事はさっぱりの、無能な茶坊主ばかりにとりまかれていたというのが、むしろふつうであった。ナチ・ドイツもその例外でなかったことは、まだ記憶に新しい。〉

 ここでは、ドイツ・ファシズム(ナチズム)の特徴が、ヒトラー親裁体制にあったことを、とりあえず押さえておけばよいだろう。
 これにたいし日本の場合はどうだろう。
 滝村は日本の特徴として、天皇制と国体論を挙げている。
 明治国家において、重要国家意志の実質的決定権は、元勲や元老によって握られていた。帝国憲法の公布によって完成する明治体制の特徴を、滝村はアジア的デスポティズム(専制)に天皇制イデオロギーが加わったものとみなす。それは名目上、現人神による神権的支配という形態をとっていた。
「しかし、天皇制国家の近代的デスポティズムとしての特質は、天皇親裁という建前にもかかわらず、実質的には名目的デスポティズムとして、構成されるほかなかった点にある」と、滝村は指摘する。
 つまり、明治期においては、元勲、そしてその後を継いだ元老が、実質的な政治的実権を握っていたのである。
 大正期にはいると、議会の政治的役割が高まり、政府はその意向を無視できなくなってくる。しかし、それまで実権を握っていた元老が、大正末にほぼ死亡すると、統帥権を主張する軍部が、それに代わって台頭し、暴走するようになっていった。
 滝村は天皇を名目的デスポットとする軍部の暴走と政治的支配に、日本のファシズムの特徴をとらえている。
 ところで、日本ファシズム論というと、丸山眞男の名前を思い浮かべるだろう。滝村はそれがどのようなものであったかを紹介しながら、その徹底批判をこころみている。
 丸山はファシズムとは「20世紀における反革命」だという。つまり、下からであれ、上からであれ、ファシズムは革命に対抗するかたちで登場し、革命組織を破壊し、解体する方向へと進む。そして、帝国主義戦争を断行するために、国民を強制的に同質化していくのだという。
 丸山は革命を社会主義革命と理解し、それに対抗して、反動的な専制国家を打ち立てようとするのがファシズムだと理解している。滝村によると、これでは社会主義についても、ファシズムについても、まったくわかっていないことになる。丸山はまるで社会主義が進歩的で、ファシズムが反動的(保守的)であるかのようにとらえているかのようだ。
 民主的な国家体制(たとえばワイマール体制)のもとでは、ファシズムは国家権力をめざす、ひとつの政治活動として発現する。その過程で、別の国家権力をめざす左派勢力とぶつかるというのは、大いにありうることである。
 いっぽうで、専制的な国家体制(たとえば日本)のもとでは、国家権力があらかじめ左派勢力を弾圧し、解体してしまうこともありうる。
 だとしても、丸山は単に革命にたいする「反革命」というだけで、まったくファシズム国家とは何かを説明していない。国家と社会を一元的に再編成するファシズム国家の歴史的特質に丸山は迫っていない、と滝村は批判する。
 丸山はファシズム運動を、革命的勢力を暴力やテロによって粉砕するものとだけしかとらえていない。したがって、暴力行動の背後にある、独自の思想やイデオロギーを見落としてしまう。あまつさえ、ファシズムには独自の体系的な思想や理論は存在しないとまで言い切る。これは、そもそもファシズムを小馬鹿にして悦に入る知識人の傲慢な態度といわねばならない。
 丸山はファシズムの傾向と発想を列挙するが、けっしてファシズムの本質に斬りこんでいない、と滝村は指摘する。
 1920年代から40年代にかけての日本ファシズムの歴史的発展に関しても、丸山は日本では上からのファッショ化が進展したと述べるいっぽう、ファシズムを支持したのは中間層だといい、とりわけ「小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商の店主、大工棟梁、小地主、ないし自作農上層、学校教員、ことに小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層」だと指摘している。
 だが、この分類もおかしい。滝村は、国家機関の末端につながる「小地主、学校教員、ことに小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官」と、「小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商の店主、大工棟梁、自作農上層」などの一般庶民大衆とは分けられてしかるべきだという。中間層の庶民はむしろ積極的に宣伝される「国体論」の素朴な受け手であり、かれらが堕落と腐敗に満ちた現状を突破するために、専制国家づくりの宣伝に乗せられてもやむをえない側面もあった。
 丸山は日本のファシズムを担ったのは中間層、すなわち庶民であって、「インテリは日本においてはむろん明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹した」と語っている。「ファッショのお先棒をかついだ学者もありましたが、まず普通は表面はともかく、腹の中では馬鹿馬鹿しいという感じの方が強かったよう」だとも述べている。
 これは大嘘だ、と滝村は論じる。腹の中で馬鹿馬鹿しいと思っていたかどうかはともかく、インテリもまた戦時国家体制に黙々としたがっていたからである。
 日本ファシズムを推進したのは、いうまでもなく軍事官僚や革新官僚であり、その理論を支えたのは東京帝大や京都帝大の教授たち、さらには左翼転向者にほかならなかった、と滝村はいう。「天皇制イデオロギーとしての『国体論』自体の、『ファシズム』的改作を断行[とくに『臣民の道』をみよ]したのも、通俗マルクス主義の影響をうけた革新官僚や『左翼転向者』であった」。
 滝村にいわせれば、丸山は「近代天皇制国家の理論的解明ぬきで、もっぱら国家機構の外の民間ファシズム運動を中心にとりあげて、[中途半端に]追究した」にすぎなかった。それは日本では上からのファッショ化が進展したとする自身の分析に反する姿勢でもあった。そこからは、ファシズム国家論が生まれるわけもなかった、と滝村は指摘する。
 ファシズムという場合、丸山は主に青年将校と民間右翼勢力の思想をとりあげ、その特徴を家族主義、農本主義、大アジア主義と並べるだけで、近代天皇制国家そのものの思想をまったく取りあげていない。そもそも名目的専制形態をとる近代天皇制と、国体論を抜きにして、日本のファシズムは語れない、と滝村は丸山を批判する。これはもっともな批判だろう。

   16 国家の死滅をめぐって

 いつの日か、国家は死滅するのだろうか。
 マルクス主義には国家死滅論が存在する。しかし、それは「まったくの空想的妄想」にすぎなかった、と滝村は断言する。
 それなら、いつか世界帝国が生まれるのだろうか。生まれるとしても、それは全体主義的な国家になりそうだ。
 あるいは、それぞれの国が平和裏に結びつき、国際連合やEUのような連合体が発展し、やがては世界共和国が誕生するのだろうか。
 先のことはわからない。しかし、国家はなかなかなくなりそうにない。
 せめて、思考だけでも、国家の枠を超えてはばたきたいものだが、現実はそうはいかないようだ。
 ここで滝村がとりわけ批判するのは、マルクス主義の国家死滅論である。
 マルクス主義は最終的に共産主義社会の実現をめざしている。共産主義社会になれば、人間は解放され、あらゆる搾取と抑圧が消滅し、国家なき無階級社会が実現するのだという。そこでは生産と分配が社会的に調整され、公教育と福祉が行き渡り、住宅や食事も共同で与えられる。まるで、ユートピアのような共同体が生まれるのだ。
 そこには、人を縛りつける国家もない。国家は支配階級が被支配階級を抑圧するための暴力装置である。したがって、支配階級が存在しなくなれば、国家権力は必要ではなくなり、国家もまた死滅する、とマルクスは考えた。
 だが、ここには大きな錯誤がある、と滝村はいう。
 共産主義社会になれば、人間は解放されるというが、それは幻想にほかならない。むしろ、人はそれぞれの意志と利害をすべて捨てて、自己を社会に融合させ、公共的活動にみずからの身命をささげなければならない。個人はすべて社会のものであり、配置された組織にしたがわねばならない。
 共産主義のもとで、個人は自由と独立性を奪われる。いっぽう、巨大で絶対化した公的権力が人間を支配する。歴史上、考えられないほどの専制的な体制が生まれる、と滝村はいう。共産主義は社会あっての個人という考え方にもとづいており、そこでは個人は社会に還元されてしまう。
 しかし、「自由と人権の存在しないところに、個人としての人間の幸福はない」と滝村は断言する。
 マルクス主義は、人間解放の問題を社会的解放の問題にすりかえてしまう。
「この意味で、人間解放を掲げた『社会主義』専制国家が、この半世紀以上もの間ただ一つの例外もなく、人民大衆の個人的自由と独立性を一切認めず、彼らを幾重にも張りめぐらされた政治的監視網の下に閉塞させてきたのも、決してたんなる偶然ではない」と、滝村はいう。
 マルクス、エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』には、社会的分業の廃止というテーゼがかかげられている。
 それはこんな一節だ。

〈[共産主義社会では]私はまったく気のむくままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫、牧人または批判家になることはない。〉

 これではまるで年金暮らしの退職者のような生活である。
 あまり生き生きとした暮らしとは思えない。社会的分業が廃止されれば、個人は専門的職業に貼りつけられることがなくなるという。だが、専門をもたない全的人間というのは、実際には人の抜け殻なのではないか。
 だれもが『ドイツ・イデオロギー』に描かれる全的人間のようになれば、それこそ社会の生産力はたちまち急落してしまうだろう、と滝村は断言する。
 さらにマルクス主義がかかげるのが世界革命である。この世界革命によって、国家は消滅するのだという。だが、ほんとうに世界革命がおこれば、それこそ収拾がつかなくなって、世界戦争に直結するかもしれない。
 それに、現にこの世界に存在するのは、緊張関係をはらんだ諸国家の対立であって、ロマンに満ちた世界革命がこの緊張関係を解消するとはとても思えない、と滝村はいう。
 国家が解体するのは、「他の歴史社会による、より拡大された国家としての政治的併合と包摂か、解体的な吸収」によってでしかありえない。
 滝村はプロレタリア独裁が階級を止揚し、したがって国家権力の自然消滅をもたらすという主張もまたペテンにすぎないという。なぜなら、革命的な荒療治には、強力で革命的な専制的国家権力を必要とするからである。
 それにいったんつくりだされた専制的国家権力は、肥大し、増殖することはあっても、けっして自然消滅することはないという。それが消滅するのは、戦争で惨敗したときだけである。
 こうして国家死滅論は否定される。国家は他の国家と対峙しながら、ひとつの社会を国家として組織していくことを運命づけられている。そのかぎりにおいて、国家はけっして消滅することはない、と滝村は論じる。
 それではソ連邦を中心とした社会主義体制はなぜ崩壊したのだろうか。
 1989年に東欧革命をもたらしたのは、ゴルバチョフのペレストロイカにほかならない、と滝村はいう。
 ペレストロイカにより、ワルシャワ条約機構は弛緩し、かつてのようにソ連が軍事介入する可能性はなくなった。そのため、ソ連帝国からの、各国、諸民族の分離、独立傾向が高まった。
 社会主義は強力な専制のもとでしか成立しない。しかし、ゴルバチョフは社会主義を欧米化し、そこに市場経済体制をもちこもうとした。
 ペレストロイカは共産党と軍、警察(KGB)を刷新し、それまでの一元的監視・管理体制を民主化しようとした。だが、社会主義が専制でなくなれば、社会主義国家もなくなることに、ゴルバチョフは気づいていなかった。
 ペレストロイカは、複数候補者による代議員の選出、情報公開(グラスノスチ)、思想の自由(マルクス・レーニン主義批判の容認)を促進した。それによって、共産党の一元的支配(一党独裁)が崩れていった。
 経済が破綻し、民族独立運動が高まるなか、ゴルバチョフは90年に大統領制を導入する。それは絶対権力をめざす動きだったが、すでに時遅し。
 その時点で、民主化を求める声と民族独立運動は押さえきれなくなっていた。そこにエリツィンが登場すると、ソ連邦からの共和国の離脱が促進され、いっぽうで保守派がクーデターをおこす。だが、それがあえなく失敗に終わると、ソ連はたちまち崩壊し、15の独立国家へと分解していった。
 ここからは、ひとつの歴史的皮肉を読み解くことができる。
 それは、国家の消滅を唱えた社会主義国家が、実際は史上最悪の専制国家であったこと、そして国家は消滅せず、消滅したのは社会主義国家であったということである。
 世界帝国や世界共和国は、現時点では問題外だろう。それでも、まだ、国家の統合をめざした欧州連合(EU)の試みは無視することができない。そこで、滝村はEUにみられるような国家連合がはたして可能なのかを問うことになる。
 EU成立の前段階としては、まずソ連と対抗するためにNATOがつくられ、次に日米の経済進出に対抗するためにECが形成され、それがヨーロッパの政治統合をめざすEUへと進んでいったことは周知の通りである。
 しかし、滝村にいわせれば、統一的国家としてのEUは、夢のまた夢にすぎない。問題は歴史的にさまざまなちがいをもつヨーロッパ諸国が、はたして統一的なEU政府を確立できるのかという点にある。そのとき、各国ははたしてその主権をEU政府に委譲することができるのだろうか。
 これまで、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、オランダ、イタリアなどのヨーロッパ各国が世界の覇権をめざして争ってきたことは、だれもが知っている。これらの国々は、はたして今後、軍事・外交政策で完全に一致した行動をとれるのだろうか。
 湾岸戦争(さらに最近では中東紛争)に際してのバラバラの対応をみても、それははなはだ疑問だ、と滝村はいう。それは通商貿易政策や財政政策、統一通貨に関しても同じで、EU域内でそれを共通のものにしようとしても、どこかにひずみがでてくるのはまちがいなく、現にそのきしみがギリシャ危機などを招いている。
 滝村がEUの将来に悲観的な見通しを示したのは1996年のことで、そのときすでにイギリスはフランス、ドイツ中心のEUに距離をおこうとしていた。さらに2000年以降は、移民問題や失業問題が深刻化し、ヨーロッパ各国ではインターナショナリズムに代わって、古色蒼然たるナショナリズムがわきだしてきた。
『国家論大綱』第1巻が出版された2003年の段階で、滝村は、統一通貨ユーロの導入にもかかわらず、EUは依然、解体と停滞の危機に立ちつづけているとみていた。
 EUの存続をかろうじて可能にしているのは、農業や産業、環境、交通、治安などの面で、参加各国に共通項がみられるからである。
 しかし、国家連合とはいえ、EU各国は主権を放棄したわけではない。たとえEUが統一的な外交政策や安全保障政策をかかげたとしても、歴史的前提が大きく変わるなら、各国はそれぞれの主権にもとづいて、独自の行動を開始することはまちがない。そのときは、英仏独の主導権争いが盛んになるだろう、と滝村は考えていた。その予想を待つまでもなく、2016年の国民投票でイギリスはEU離脱を宣言することになった。
 2003年の時点で、滝村はEUが統一的国家へと進むには、よほどの外的な政治危機が到来せねばならないとみていた。だが、それは実現性の薄い政治的難事業となるというのが、滝村の考え方だった。
 現在EUが分解の危機を迎えていることをみれば、当時はあまりにも悲観的と思えた滝村の見通しのほうがずっと正解だったことがわかる。
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