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部族国家から帝国へ、そして中世国家のはじまり──滝村隆一『国家論大綱』を読む(17) [思想・哲学]

 ここからは第2巻の歴史的国家論にはいる。ただし、『国家論大綱』には断片的な(といっても膨大だが)論考しか残されていないので、おそらく当初予期されていた全体的考察からはほど遠いものになっている。
「方法としての世界史」において、滝村はヘーゲルとマルクスの方法を踏まえながら、世界史における国家の発展を、原初的、アジア的、古代的、中世的、近代的という段階的区別においてとらえることを提唱していた。それは必然的な歴史的発展というより、あくまでも把握の方法的枠組みだったといってよい。
 国家の起源、すなわち原初的国家は部族国家に求められる。部族は氏族の連合から成り立っているが、その部族が祭祀的・政治的・軍事的指導者として王を立て、貴族層とそれ以外の一般成員、奴隷とを包摂するときに、部族国家が成立する、と滝村は書いている。
 部族の経済基盤は農耕や牧畜である。部族においては、殺人や傷害、姦通や窃盗をはじめとして、さまざまなもめごとが発生する。自然の猛威も日常茶飯事だ。人間の集団には、内部のもめごとを解決したり、祭祀によって安全を祈ったり、死者をほうむったりする手法が不可欠になってくる。首長や長老が、こうした役割を担っていた。
 いっぽうで、部族は他の共同体を略奪したり、逆に他の共同体の侵略を防いだりするために戦争をくり返している。部族の命運のかかる戦争にさいしては、一時的にでも軍事的指導者が必要になってくる。そして、部族が発展し、戦争や防御が日常的に要請されるようになると、当初は一時的だった軍事指導者が、次第に首長の祭祀的・裁判的役割をも吸収して、恒久的な王として擁立されることになる。それが部族国家を成立させる経緯だといってよい。
 こうした部族国家は、ギリシャやローマでも、あるいは古代オリエントやゲルマン人共同体でも、はたまたアジア諸民族のあいだでも全世界的に出現したとみることができる。だが、その形態はかなり異なっていた、と滝村はいう。
 そこでまず取りあげられるのが、部族国家段階のギリシャである。ギリシャでは諸部族が都市に集住して、独自の地域共同体をつくりあげた。そこでは異部族の連合にもとづく王政、ないし貴族政がおこなわれていた。そうした部族国家が必要とされたのは、たえまない戦争と交易の両面に対応するためである。部族的な王は何よりも軍事指導者であり、内部では祭祀長としてふるまい、裁判に関しては民会にしたがっていた。こうした形態は王政時代のローマも同じである。
 だが、ギリシャでもローマでも、王政ないし貴族政は、下層の平民層によってくつがえされることになる。こうして、都市が発展するにつれて、法と共同機関を備えた市民の都市共同体が次第に誕生してくる。それを一般的に古典古代的段階の都市国家と呼ぶ。
 次に滝村はマケドニアの場合を紹介している。マケドニアといえば、またたく間に世界帝国を築いたアレクサンドロス大王(BC356-BC323)の名が思い浮かぶ。もともとちいさな部族国家だったマケドニアでは、軍事的、政治的、祭祀的に最高の権能をもつ王が、ヘタイロイと呼ばれる騎士たちを親衛組織としてかかえていた。
 アレクサンドロス大王のとき、このヘタイロイは8部隊に分かれ、それぞれが300騎から形成されていた。そして、8名の親衛隊長が、軍の最高幹部として王に仕えていた。従来の血統による貴族とは別に、王はこうした騎士階級をみずからに服属する新貴族として育て、その功績に応じて、かれらに所領を与えた。ここに部族国家が王国、帝国へと転じ、その中心に国家権力が形成されていく契機をみることができる、と滝村はいう。
 アレクサンドロスの帝国を、滝村はギリシャ的というよりオリエント的、ないしアジア的[ヨーロッパからみてエーゲ海の東を意味する]なものととらえている。
 帝国とは中心共同体が異系文化圏の共同体を従属的に支配する国家体制を意味する。帝国の形成は征服にもとづき、それによって従属共同体から貢納、租税、賦役を徴収する。その体制を維持するには、帝国は強大な軍事組織と行政機構を保持するとともに、それを指揮する帝権を必要とした。
 父親のフィリッポス2世から軍事国家マケドニアを引き継いだアレクサンドロスは、強大な軍事力によって、次々と領土を拡張し、エジプト、ペルシャを征服した。広大な領土はすべて王のものとされたが、実質的には貴族層である将軍に下賜された。将軍たちは下賜された領地にたいする地租・地代徴収権と裁判権をもち、その治安維持にあたった。だが、アレクサンドロスの死により、その帝国はたちまち崩壊していく。
 ローマ帝国もまたアレクサンドロスの帝国支配方式を受け継ぐ。共和政時代(BC509-BC27)のローマの政治体制は、元老院と上級政務官(執政官と法務官)、民会の三者によってかたちづくられていた。三者の関係は複雑で重層的である。とはいえ、滝村によれば、共和政ローマは、元老院が大きな役割をはたしながら、実質的には上級政務官が支配していたという。
 ローマは外部世界への拡張によって発展した。宣戦や和平は元老院の決定にもとづく。だが、戦争の遂行にあたったのは上級政務官の執政官(コンスル)である。さらに属州が拡大するにつれて、属州統治の総督には、前執政官(プロコンスル)が任命された。民会はそれらの決定を承認するにすぎない。とはいえ、古代ローマの政治が、貴族層だけでなく平民層によってもかたちづくられていたのは、それが騎士と重装歩兵からなる戦士共同体の性格をもっていたからである。
 しかし、第2次ポエニ戦争(BC219-BC201)以降、領土が飛躍的に拡大するなかで、ローマ帝国の政治体制は次第に変質していく。貴族が大土地所有者になるいっぽうで、自由農民が没落し、無産市民が生まれ、貴族の庇護民となっていく。民会は有名無実の存在に変わっていく。属州にたいする元老院の形式的権限(命令権)は強化されたが、軍事・裁判・徴税を掌握した上級政務官の属州統治権はそれ以上に強大化していった。そのなかでも、とりわけ注目すべきは、イタリア内を統治する執政官(コンスル)と属州を統治する前執政官(プロコンスル)の権限が分化していったことだ、と滝村は指摘している。

〈このような元老院の形式的かつ名目的強大化と、上級政務官権力の独立的強大化および民会の衰退という、共和政諸権力の実質的変形の下で、やがて共和政末期の長期にわたる内乱、すなわち強大な属州クリエンテス[庇護民]を抱える、有力政治家=武将間の血みどろの権力闘争が、展開される。それは、支配共同体の政治的共同体としての実質的解体を証示するものであるとともに、帝国支配としての一元制と統一性を実現するための、新たな政治的共同体としての統一的再編成への、胎動と飛躍の道であった。〉

 ローマ帝国が共和政から帝政にいたる道筋をたどるのは必至だった。カエサルが独裁政権を樹立したあと、武将間の権力闘争と内乱に勝ち残ったのはオクタヴィアヌス(BC63-AD14)である。オクタヴィアヌスは初代ローマ皇帝となり、アウグストゥス[元首]の称号を得る。
 オクタヴィアヌスは元老院へのかぎりなき忠誠と尊重を誓いながら、その権限を巧妙に奪いつつ、みずからの実質的支配権を確立した。帝国の属州全体への支配権と指揮統帥権を得たオクタヴィアヌスは、さらに元老院の議決権や裁判権を骨抜きにし、元首直属の軍事・官僚組織を確立していった。
 いっぽう、帝国の周辺では、ゲルマン人の動きが次第に活発になっていた。紀元前50年ごろに書かれたカエサルの『ガリア戦記』には、ゲルマン人が農耕を嫌って、常に移動しながら、戦争と略奪をくり返していること、その生活様式が狩猟と粗野な牧畜にもとづくきわめて原始的なものであることが記されている。ところが、それから150年後、紀元100年くらいに書かれたタキトゥスの『ゲルマーニア』によると、ゲルマン人はすでに牧畜と農耕を主とする定着民族だとされている。カエサルとタキトゥスのちがいについては多くの論争がある。
 だが、それはともかく、滝村が注目するのは、カエサルの記述に、ゲルマン人が戦時には戦争指揮者として首領を選び、首領のいない平時には長老が裁判でもめごとを収めるとされているところだ。いっぽう、タキトゥスは、すでにゲルマン人の多くの部族が王をもち、長老とともに村落を治める体制がつくられつつあると記している。ちいさなもめごとは長老によって処理されるが、宗教上・政治上の犯罪については、王と長老が民会を開き、裁判をおこなっていた。
 滝村は次のようにとらえる。ゲルマン人の共同体において、軍事指揮者はもともと戦時においてのみ選出されていた。しかし、外部世界との緊張関係が常態化するにつれて、非日常的だった軍事指揮者が、祭祀の主催者たる地位を包摂することで超越的な部族王へと転成し、それによって萌芽的な部族国家が形成されたのだ、と。
 もっとも、宗主権をもつ帝国の強制下で、部族を治めるために王が選出されるケースもないわけではない。この場合、王は帝国の手先ないし代官という性格をもつことになる。だが、帝国の苛酷な支配にたいする部族の抵抗や反発が強まったときには、傀儡首長が追放され、統一部族の首長のもとで独立戦争が戦われ、それが勝利したあかつきには、新たな部族国家が誕生するのである。
 滝村は次のように書いている。

〈相次ぐ戦争と征服の只中から、典型的な部族国家を形成させた部族では、部族的・王が……とりもなおさず最高軍事指揮者として、下級の軍事指揮者たる各首長ないし長老を統率し……最高祭祀者として登場した。……そうして、この部族的・王および首長・長老層の、指導的ないし支配的な政治的地位は、直接富裕かつ筆頭的な経済的地位を、決定し保障する。〉

 タキトゥスが指摘するように、ゲルマン人の生活は戦争と略奪を中心に回っていた。そして、勇敢に戦うことこそが、戦士としての権威と名誉、褒賞を保証したのである。
 日常的な戦時体制によって、ゲルマン人は部族国家を形成し、王と貴族層(首長・長老)、従士を生みだした。とはいえ、「生まれたばかりの王権は、いぜん部族制度のおしめのなかにくるまって」いた、と滝村はいう。
 そして、ゲルマン民族は4世紀の民族移動期をへて、部族国家から王国の段階へと突き進む。ローマ帝国が滅亡し、分裂する過程で、いわば戦国の覇者となったのは、ゲルマン民族の一族、フランク人だった。フランク人は5世紀後半にフランク王国を築くことになる。中世国家のはじまりである。
 部族国家はどのようにして中世国家に転じていったのだろうか。
 民族大移動と戦争は、王のもとに直属従士団をつくりあげていった。直属従士団は新貴族となり大土地を所有するいっぽう、王国には昔ながらの氏族による農民村落も残っていた。新貴族は王権のもと、領主として、租税・警察・裁判権を掌握し、私兵を育成した。王は貴族の上に立ち、徴兵権や裁判権を含む最高の権力を有していたが、その権力は部族共同体的な規範により大きな制約を受けたものだった。
 だが、王の権力は次第に強まっていく。王は王国全域にわたる祭祀権(具体的には教会の保護)、外部にたいする戦争と講和の権利、政治秩序維持のための裁判権・警察権、経済面における関税徴税権、貨幣鋳造権、地代徴収権、採塩権などを有するようになる。そして上級貴族にたいしては、君臣関係にもとづき土地を給付して領地の支配をまかせるのと引き換えに、王が貴族にたいする軍役徴収権と官職任命権を握った。
 こうして8世紀にはいると、王権と封建領主的支配権が確立し、農奴制にもとづく自給自足的な農村共同体が誕生する。これが中世国家のはじまりである。

[翻訳の仕事がはいったため、しばらくブログを休みます。つづきは後日。]
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