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西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(2) [商品世界論ノート]

 前回、述べたようにカネがカネを生む世の中がはじまっている。
 つづいて『日本永代蔵』巻1のエピソード2を読んでみよう。
 場所は京都だ。商売一筋、2000貫(いまの5400万円)をためこんで亡くなった父親の跡を21歳で継いだ2代目の話。この息子も倹約家で、商売熱心なことで知られていた。
 ところが、父親の墓参りから戻る途中、禁裏の薬草園のそばで、封じ文を拾ったところから、男の歯車がくるいはじめる。この封じ文はどうやら客が花川という島原の遊女に宛てたもので、なかには一歩金(約2万7000円)と、ことわりの文がはいっていた。
 息子は、このままネコババするのもまずいと思い、それまではいったことのない島原に行き、花川という女郎を訪ねるが、会うことができなかった。このところ気分が悪く引きこもっているという。
 しかし、せっかく島原に来たのだから、一生の記念に遊んで行こうと、出口の茶屋にあがり、安上がりの囲い女郎を呼んでもらい、飲みつけぬ酒に酔った。
 これが転落のはじまり。若旦那はだんだん悪い遊びを覚え、値の張る太夫買いまでする始末。太鼓持ちに囲まれ、「扇屋の恋風さま」とおだてられ、散財するうちに、あっというまに財産をなくしてしまったという次第。
 当時の島原が大きなカネを吸い寄せる歓楽スポットだったことがわかる。
 扇屋の若旦那は、商売そっちのけで、その魅力に取り憑かれてしまったのだろう。
 つづいてエピソード3。
 泉州の唐金屋(この家は、いまの泉佐野市に実在していた)は大船をつくり、北国の海を乗り回して、難波に米を運び、大儲けした。北前船の航路が開かれていた。
 大坂は日本一の港で、米の相場は北浜の米市(のち堂島)で決まる。西鶴は華麗な筆で、大坂の繁盛ぶりをえがく。とりわけ中之島には鴻池、淀屋をはじめ、昔からの分限者(金持ち)が集まり、表向きの米仲買はそっちのけで、金融業を営んでいたという。
 米は当時、最大の商品だった。各藩の財政は、年貢によって支えられており、物納された米は売却され、貨幣に代えられて藩に収められていた。だから、各藩の米を扱う鴻池や淀屋が実質上の金融業となり、大名にカネを貸すようになったのは必然だったといえる。
 米はもちろん町で消費された。なかでも、江戸、大坂、京都が3大消費地だった。そして、米の相場は、大坂で決められている。
 もっとも、人の生活は米だけあれば足りるというものではない。そのほか、衣食住それぞれの支えがなくてはならない。町では、それに応じて、さまざまな商品が生みだされ、それをつくりだす職人や、それを売る商人が増えて、さらに町を繁盛させていくことになる。
 そして、かつてはほぼ自給自足していた村が、こんどは町のために商品をつくるようになり、逆に町の商品を買うようにもなって、貨幣経済が全国に行き渡り、商品世界が誕生することになる。
 西鶴は、大坂の商売人といっても、昔から商売をしているわけではないと書いている。大和、河内、摂津、和泉あたりの農家の子どもが丁稚にでて、見よう見まねで商いをしているうちに、暖簾分けをしてもらうケースが多いというのだ。もっとも、その途中でしくじる者も数知れない。ともかく、奉公はよい主人をもつかどうかで、そのあとの運が決まってくる、と西鶴はいう。これはいまのサラリーマンも同じ。
 しかし、大坂がすごいのは、商売のネタがどこにでも転がっていることだ、と西鶴は書いている。たとえば、蔵がいっぱいになって、置ききれない米俵を外に置いておくことがある。
 その俵を運搬しなおすたびに、米がこぼれ落ちる。こぼれ米を集めていたある老女は、その米をためて、こっそり売り払っていた。そのうちに、へそくりがたまりにたまって、20年あまりのうちに12貫500目(いまの金額にして2000万円以上)になった。
 老女のせがれは今橋のたもとに、この資金を元手として銭店を開いた。銀貨などを小銭に両替する商売だ。それが繁盛して、男はいっぱしの両替商になった、と西鶴は書いている。これこそ、ほんとのこぼれ話。商売のチャンスはどこにでもある。
 エピソード4は服装の話。
 昔とちがって、服装はしだいにぜいたくになり、人は万事不相応に華麗を好むようになった、と西鶴は書いている。太平の到来が、服飾に大きな変化をもたらしていたのだろう。
 小紋の模様、百色(ももいろ)染、洗い鹿の子など、西鶴はいろいろ紹介してくれているのだが、洋服屋の息子のくせに、ぼくにとって服装はあまり縁がない。しかし、徳川時代の人はおしゃれに目がなかった。いい柄の着物は当時からだれもがほしがる商品だった。それに時と場所によって、必要な着物もちがってくる。
 西鶴によれば、京都室町のある仕立物屋は、腕のいい多くの職人をそろえていたので、人びとはここに絹や木綿の反物を持ちこんで、着物をつくってもらっていたという。
 江戸では本町(日本橋本町)に呉服屋が並んでいた。いずれも京都の出店だったと。そこの番頭や手代はお得意の大名屋敷に出入りして、抜け目なく商売をおこなっていた、と西鶴は書いている。
 ところが、最近(17世紀半ば)は世の中がせちがらくなり、大名屋敷も入札(いれふだ)で、業者に品物を請け負わせるようになった。そのため呉服屋も、もうけの幅が少なくなり、しかも、当時は掛け売りが一般的だったので、それがこげついてしまう場合も恐れがあった。このままでは、算盤が引き合わなくなり、店の経営がますます苦しくなる、とみんなが心配するようになった。
 そこにさっそうと登場したのが、三井九郎右衛門(正しくは八郎右衛門高平)という男だ。伊勢松坂から進出し、三井の豊富な資金力を背景に、駿河町に越後屋という大きな新店(しんだな)を出した。
 すべて現金掛け値なしと決め、それぞれ品ごとに専門の手代40人を担当させて、商売をはじめたのだが、これが大評判になった。現金売りだが、ほかと比べて安いし、品揃えが豊富、少量の切れでも売ってくれるし、急ぎの羽織なども即座に仕立ててくれる。毎日平均150両(いまでいえば1700万円近く)の商いをした、と西鶴は書いている。
 この主人こそ大商人の手本だ、と西鶴はべたほめしている。この三井の越後屋が、現在の三越へつながることは、いまさらつけ加えるまでもないだろう。
 巻1の最後、エピソード5は松屋の後家の話だ。
 松屋は、京から奈良にでる奈良坂を超えた春日の里で、晒布(さらしぬの)の買問屋(かいといや)を営んでいた。ちなみに、晒布は麻や木綿でつくる反物で(木綿のものが更紗)、奈良の特産品だった。松屋はその晒布を買って、諸国の商人に売る商売をしていた。
 ところが、あいにく、その主人が平生の贅沢と不摂生がたたって、50歳で早死にしてしまう。あとに残されたのは38歳の後家と幼い子どもだった。だが、悪いことに、だいぶ借金も積もっていた。
 器量よしの後家は再婚もせず、髪を短くして、白粉もつけず、懸命に亡き夫の後始末に奔走した。
 借金は銀5貫目(およそ900万円)ほどだった。最初はそれを返済するため、債権者に住んでいる家を引き渡すつもりだった。しかし、だれも受け取ろうとしない。その処理がめんどうだったのと、母子をいきなり追いだすような不人情をしたくなかったからだろう。
 そこで、後家はこの家を頼母子(たのもし)の入札(いれふだ)にして売ることにした。1人から銀4匁(約7200円)ずつ受け取って、札にあたった人にこの家を渡すことにしたのだ。いまでいう宝くじのようなものだ。
 すると3000枚の札がはいって、後家は銀12貫目を受け取ることになった。札にあたったのは、人につかわれていた下女だった。後家は、これで5貫目の借金を払って、残った7貫目(約1260万円)を元手に商売をはじめ、ふたたび金持ちになった、と西鶴は書いている。
 これは才覚によって、降りかかる苦難を乗り越える話だ。

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