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西鶴『日本永代蔵』をめぐって(まとめ3) [商品世界論ノート]

8 思わぬ落とし穴

巻5にはいった。
エピソード1はいわば商品開発の苦労話といったところ。紹介されているのは、金平糖と胡椒の話だ。どちらも製法や栽培法が知られていなかった。
金平糖は高級輸入菓子で、南京から渡ってくる輸入品を高い値段で買っていた。西鶴によると、これを何とか日本でもつくれないかと考え、その製法を見つけたのは長崎の人だという。ケシ粒に少しずつ糖蜜をかけて粒をつくり、それをかきまぜながら、さらに糖蜜をかけて大きくしていく。できあがるには2、3週間もかかるという。
原料は安いのに、製法がむずかしいため珍重された金平糖は、高い値がついて、おおいに儲かった。まもなく男は金平糖づくりを女性たちにまかせ、自分は小間物店を開き、一代で千貫目(18億円)の財産を築いたという。
胡椒もまた中国から伝来した珍品だった。原産はインドである。だが、湯を通してあるため、それをまいても、木にならなかった。しかし、あるとき高野山で3石もの胡椒をまいたところ、そこから2本だけ芽が出て木に成長し、それから日本でも栽培されるようになった、と西鶴は書いている(にわかには信じがたいのだが)。
ちなみに、ここで歴史のエピソードを披露しておくと、中国から日本に胡椒がはいったのは8世紀半ばのこと。平安時代には山椒とともに調味料として利用されていたという。
唐辛子より胡椒のほうが先に伝わっていたというのは意外に思うかもしれない。だが、これはあたりまえのこと。唐辛子は中南米が原産で、それが日本に伝来するのは、ようやく16世紀半ばになってからだ。朝鮮には17世紀初めに日本から伝わったという説がある。
西鶴は長崎の隆盛をたたえる。季節ごとに中国から貿易船がはいってきて、糸や巻物、薬品、鮫皮、香木、諸道具、その他思わぬ珍品を運んでくるが、どれも落札し、売れ残ることがない。それを買う京、大坂、江戸、堺の商人たちは、商品への目利きがたしかで、しくじることがない。
長崎の商売では、ひとつだけ注意しなければならないことがある。それは海上の心配のほかに、いつ吹きだすとも知れない恋風がおこることだ、と西鶴は冗談めかして書いている。すなわち問題は、長崎に丸山という廓があることだ。これはたしかに商売の妨げになったかもしれない。疑似恋愛の場所である遊郭とカネはたがいにひきつけあう要素をもっていたのである。
つづいて場面はエピソード2へと移る。
いきなり大晦日の話だ。
月齢を基本とする江戸時代の暦では、大晦日が闇であることは最初から決まっている。すなわち、みそかはつごもり(月籠り)で、月が見えなくなる日である。だが、世間にとって重要なのは、この日が支払いの締め日になっていたことだ。とりわけ、おおつごもり、つまり大晦日は年の支払いの締め日。借金を返せない人にとっては、この日が心の闇となる。大晦日当日になって、驚き慌てる人が多いのは、困ったものだ、と西鶴は書いている。
昔は掛売り、掛買いがふつうだった。そのため大晦日には例年、世間では掛取りをめぐる攻防がくり広げられることになる。
掛取りに行くときは泣きや脅しに屈してはならない。まして、借金を取りにいった家で、だされた酒を飲んだり、お茶漬けを食べたりしてはならない、と西鶴は釘をさしている。
 ここに出てくるのは、もともと淀の鯉を売っていたのに、いつしか京の大きな両替商となった鯉屋の話。いや、それはまくらで、この鯉屋の手代が独立し、わずかな元手でちいさな米屋を開いたというところからはじまる。
 年末ともなれば、ちいさな米屋も掛売りのカネを回収するため、あちこちを回らなければならない。しかし、この主人、貧乏な所帯をみると、やりきれなくなって、つい弱気の虫にさいなまれる。
 その様子はというと。
 年末が迫っているというのに、ある家は女房が汗水たらして、一生懸命機織りをしている。できあがった一反の木綿を売って、どうにか正月の支度を調えようというのだ。これをみると、気の毒で、借金はとれない。
 ある家は、鼠取りから、灰掻き、五徳にいたるまで、家じゅうのありとあらゆる金物を集めて、それを古鉄(ふるがね)買いに売ろうとしていた。その値は銭130文(3500円)にしかならない。「これじゃ、米代も払えない」と亭主が嘆く。娘が「もういくつ寝たらお正月なの」と父親に聞く。すると「米があるうちが正月だよ」と答える。こうなると哀れで、借金の催促ができなくなる。
 ある家には悪達者そうな女房がいて、「借りるのも世の習いなのに、わずか4匁5分(8000円)ほどの借金で、首を引き抜いてもとってみせるとは、あまりにむごい」と泣きつかれる。今回も「まあまあ、そう嘆かずに。春になったら、またうかがいます」と、引き下がってしまう。
 次の家に行って、「勘定をお願いします」と18匁2分(約3万3000円)の勘定書をみせると、継ぎの当たった木綿着物を着た男が、1匁少々と記した銀(かね)包みをいくつか出し、これ以上は払えないとうそぶき、猫のノミをとりはじめる。もらわないよりましと、仕方なくこれを受け取って帰る。
また次の家に行くと、亭主はおらず、妙に色っぽい格好をした女房が、大勢の掛取りを相手に、芝居の話などをして盛りあがっている。亭主は家を出ていったという。男どもは「わしがあんたをもらってやる」などとふざけているので、米屋は掛取りをあきらめて、すごすごと引きあげていった。
「借金取りに行く家にも、さまざまの詐欺師がいる。油断をしてはならない」と西鶴はいう。掛売りで品物がよく売れたと喜んでいても、気が弱くては商売にならないのだった。

9 富豪も代々つづかない

 江戸時代、カネと縁があるのは町だけではなかった。村にもカネの世界が浸透しようとしていた。
 巻5のエピソード3には大和の朝日村(現在の天理市佐保庄町)が登場する。ここに川端の九助という小百姓が住んでいた。九助は50歳すぎまで、田を耕し、毎年決まって1石2斗の年貢米を収める地道なくらしをつづけてきた。
 節分には、窓に鰯(いわし)の頭や柊(ひいらぎ)を差し、豆まきをして、鬼を払い福を招くのが恒例だった。ある年、豆まきで庭に散らばった豆をひろい、それを野にうずめてみた。すると、不思議なことに芽が出て、葉が茂り、両手にあまるほどの豆がとれた。毎年、その豆をまいていると、10年後には88石もの収穫が得られるようになった。それを売ると、大きな収入になった。
 九助はこの収入で、田畑を買い集め、ほどなく大百姓になった。農作物に肥料をほどこし、田の草をとり、水を掻いて手入れをするので、稲もたわわに実り、木綿もたっぷりと取れるようになった。
 九助はさらに工夫を怠らなかった。田を耕す細攫(こまざらえ)をこしらえ、唐箕(からみ)や千石通しを発明し、さらには穂を扱(こ)く後家倒しといわれる道具も発明した。唐弓を導入し、繰綿(くりわた)を買いこみ、大勢でそれを打って、江戸に打綿の荷を積みだすようにもなった。
 こうして九助は大金持ちとなった。88歳で亡くなったときには家屋敷のほか1700貫目(約30億円)もの財産を残していたという。
 その財産はそっくり息子の九之助が受け継いだ。金持ちの息子というのは、どうして同じようなパターンをたどるのだろう。九之助にとって興味があるのは、カネを稼ぐことではなく、もっぱらカネを使うことだった。多武峰(とうのみね)の麓の村に京大坂の飛子(とびこ[男娼])の隠れ家があると聞いて、さっそく通いつめて、男色にはげむ。それから奈良の廓、京の島原にも足を伸ばし、女色にもふけった。
 こうして九之助は酒色の道におぼれるようになるが、8、9年のうちにすっかりからだを壊し、34歳で頓死してしまう。あとには男子が3人残された。その遺言状を開いてみて、みんながあきれかえった。親譲りの1700貫目は使い果たし、残ったのは借金だけだった。
 こつこつ親が稼いで残した財産も、放蕩息子の手にかかれば、あっというまに消えてしまうのだった。

 次のエピソード4も村の話。常陸(ひたち)の国の小金が原(現在の千葉県松戸市小金)が舞台である。
 ここには日暮(ひぐらし)なにがし(名前は玄蕃)という長者(富農)が住んでいた。この人ももともと長者だったわけではない。夫婦で粗末な小屋に住み、ただひたすら働き、つらい暮らしをつづけてきたのだ。だが、朝から晩まではたらいていたおかげで、すこしずつくらし向きがよくなり、50歳をすぎるころには銭が37貫(約1000万円)たまっていた。そして、それを元手として次第に村の長者になった。
 江戸にほど近いこともあって、小金が原の長者のもとには、多くの浪人が集まってきた。このころは浪人の取り締まりが厳重で、仕官できない者は江戸を追放されて、関東周辺にちらばっていた。浪人たちに生業があるわけではない。学問のある者、小刀細工の上手な者、もっぱらの女好き、小唄や小舞にふける者、武勇に秀でた者、ただ強面で図体の大きい者とそれぞれ個性的だった。
 しかし、公儀の浪人改めはなかなか厳しく、けっきょく浪人たちは小金が原からも追われる身となる。浪人たちのうちで武士に返り咲くことができたのは一人だけで、仕官できなかった者は武士を捨てて、市井で生きる手立てを見つけなければならなかった。小金が原の浪人たちは、講談師や太鼓持ち、小間物売り、歌舞伎の端役、乞食などへと転身していく。「かつては皆知行まで取った者でありながら、死ぬに死なれぬ命なので、これほどまでに成り下がった」と、西鶴は書いている。
 武士も武芸だけでは成り立たない時代がはじまっていた。御家が断絶すれば、就職難となり、容赦なく無収入に追いこまれていた。
 いっぽう、小金が原の長者はどうなったかというと、西鶴は知らないが、この地を治めていた水戸家から小金御殿の預かりをまかされ、士分格に取り立てられることになった。こうして日暮家は小金が原の豪家として明治初期まで存続したという。
 エピソード5は美作(みまさか、現在の岡山県)の津山に舞台が移る。
津山には蔵合(ぞうごう)家という富豪のほかに万屋(よろずや)という金持ちがいた。
 その万屋のひとり息子は、鼻紙にぜいたくな杉原紙をつかっていたというので、13歳のときに勘当され、播州網干(あぼし)の叔母のところにやられてしまう。万屋を継いだのは、倹約(しまつ)で知られる甥っ子だった。
 養子になったこの甥っ子は変わっていて、嫁に焼き餅やきの女を望んだ。そして、そのとおり焼き餅やきの娘をもらい、先代は隠居した。跡取りがすこし浮かれて遊びはじめると、嫁は焼き餅をやいて騒ぎ立てるので、世間体が悪く、その行状もおさまる。これで家が万事おさまると、先代も喜んでいた。
 ところが、万屋の老夫婦が亡くなると、いっぺんに様子が変わってくる。伊勢参りに出かけた嫁は、帰りに京大坂を見物し、それ以来すっかり派手好みになった。亭主もからだの調子が悪いので養生したいといっては上方にのぼり、男色女色のふた道にふけって、金銀をまきちらすようになった。こうして、万屋の身代は一気に傾いていく。
 その後、万屋は両替屋をはじめるが、うまくいかない。信用もなくなり、次第に没落していく。
 時勢の移り変わりもあったかもしれない。しかし、どうやら大金持ちの二代目、三代目というのは、カネ儲けに意義を見いださなくなってしまうようなのだ。カネは儲けるより使うほうがおもしろいに決まっている。それはどう用心しても、商家にしのびこんでくる誘惑だった。
 カネの世は移ろいやすく、富豪の家もいつまでもつづかない。
 カネがカネを生む世の中になってくると、日々の努力だけで富豪になる道は次第に閉ざされようとしていた。そのことに西鶴も気づきはじめている。

10 カネがカネを生む世界

 巻6は最終巻。おそらく『日本永代蔵』は最初から全6巻の予定で書かれたものではなく、出すごとに評判になり、よく売れたので、次々と続編が刊行されたというのが真相だろう。それが積もり積もって6巻の大冊になった。日本各地の富豪の由来と、ときにその没落を語るという手法は、当時の人にとっても興味津々の話題だったにちがいない。しかし、そろそろネタが尽きはじめている。
 各巻を5本のエピソードでつづるという構成は、学術的でも分析的でもなく、いわば週刊誌的といえるのかもしれない。つまり興味本位。おもしろいのだけれど、断片的で体系性を欠いているのはたしかである。さっと流して読んでもらえばじゅうぶんという姿勢がみてとれる。それでも、西鶴は元禄の繁栄に向かって高揚していく江戸時代の様相をリズミカルな筆致でとらえようとしている。
 まずエピソード1を読む。越前敦賀の商人が没落する話がでてくる。
 この商人は年越屋といい、敦賀で長らく味噌、醤油をあきなっていた。山里の庶民が相手だ。毎日、売り上げが絶えなかったうえに、容器を工夫するなどして、できるだけムダをなくしていったので、次第に金持ちになったという。
 もともとは板葺きの粗末な平屋に住んでいた。カネがたまって、屋敷を買い入れたが、それでも、その庭木には実を結ぶものや、薬用になるものだけを植えるという徹底ぶりだった。
 その年越屋が息子に嫁をもらうことになった。結納には世間で笑いものにならない程度に角樽と塩鯛、銀1枚を送ったが、実はその陰で女房が相手先に京都であつらえた豪華な衣装や巻物を届けていた。
 その息子は嫁をもらうと、以前とはみちがえるような、豪華でひときわ大きな店をつくり、それをぴかぴかに磨き立てた。すると不思議なもので、山里の柴売りや百姓などが醤油や味噌を買いにこなくなった。外売りもしたが、はかばかしくない。すっかり商売がすたれてしまった。
 やむなく商売を替えたが、損をして資金は減るばかり、あげくのはてに鉱山に投資して失敗。家屋敷を銀35貫目(約6300万円)で売るはめになった。
 そして、このカネで、敦賀の浜に小さな店をだしたという。
「久しく商売をつづけ、客の出入りしつけた商人(あきんど)の家を改築してはならない」という識者のことばを、西鶴は教訓としてひいている。
 しかし、ここでの教訓は別のところにあるのかもしれない。それは商売は客がついてこそ商売だということ。客が離れていってしまえば、商品はたちまち売れなくなり、資本もたちまち消えていくということである。
 次のエピソード2では、その教訓がプラスの方向で語られることになる。
 ある銭両替屋が、江戸の通り町中橋(現在の京橋1丁目)に店を出していた。大勢の若者を使っていたが、夷講(えびすこう)のときにみんなでお祝いに膳を囲んだ。主人は特別に奮発して、1匹1両2分(約12万円)の鯛を買い、奉公人にふるまった(それにしても、江戸時代の生魚はめちゃくちゃ高い)。
 奉公人が大喜びしたのはいうまでもない。しかし、そのなかの伊勢からきた14歳の丁稚が、自分の前の膳を二、三度おしいただき、飯を食う前に算盤をはじいて、こう言った。
「いまの相場が1両銀58匁5分とすると、このお膳に乗った鯛ひと切れの値段は銀7匁9分8厘(約1万4000円)にあたります。これを考えますと、まるで銀を噛むようなもので、とてももったいのうござります。祝う心は同じです。塩鯛や干鯛でじゅうぶんでございます。」
 主人はこの丁稚の利発さと謙虚さに感心し、ゆくゆくは養子に取り立てて、家を継がせたいと思うようになる。
 あるとき、主人は店の勘定帳をこの丁稚に見せ、店には資金が2800両あり、ほかにも別に女房の寺参り金として金子(きんす)100両(約1000万円)を取り分けてあると話した。
 その金子をみせると、丁稚はこういう。
「なんと商い下手でございましょう。包んでおいたカネは一両も多くなりますまい。カネは動かしてこそ値打ちがでるのです」
 これを聞いた主人はますますこの丁稚が気に入り、さっそく養子にすることにした。
 丁稚は寺参りする主人夫婦についていっては、参拝者の笠や草履を1文で預かり、説教のはじまる前に山椒菓子を売り、ありったけの賽銭を両替して儲けた。ほかにも、船頭たちのために行水船をつくったり、刻み昆布を売りだしたり、新規の油皿や煙草入れを工夫したりして、新商品の開発に怠りなく、こうして15年もたたないうちに、両替屋は3万両(30億以上)の財を築いたという。
 西鶴はいっぽうで京都室町の金持ちの息子を、これと対比するように取りあげている。息子は器用で、謡(うたい)も碁も、蹴鞠も、茶道も、小咄も、俳諧も、香道も得意。趣味に関しては天下一品。ただ、肝心の世渡りができなかった。何となく親の財産を使い果たして、江戸にくだったが、算盤もはじけないので、どこも雇ってくれない。けっきょく、謡や鼓の指南をして、余生を細々とくらしたという。
 カネはもっているだけでは使いはたして、おしまい。商品を動かす元手としていかしてこそ、はじめて値打ちがでる。カネがカネを生みだす世の中を西鶴はそんなふうにとらえている。

11 大団円

 商品というのは、けっきょくのところ対象化された欲望なのであって、単純に労働の産物というわけではない。商品の生産が、技術と労働によって支えられていることはまちがいない。とはいえ、それは最初から人に求められることを前提としており、その価値は貨幣によってはかられる以外にない。
 近代社会は分業によって成り立ち、商品のあふれる商品世界として形成されている。そのなかで人は何らかの商品を生みだす役割をはたしており、貨幣を媒介として商品を相互交換することを通じて、生活をいとなんでいる。商品と貨幣は切っても切れない関係にある。貨幣があってこそ商品は商品となり、商品があってこそ貨幣は貨幣となる。
 江戸時代はそうした商品世界が本格的にはじまった時代にあたる。しかし、それはまだ完全に開放されているわけではなかった。租税の基本は貨幣ではなく米であったし、自由な労働市場はまだ生まれていない。資本と経営もまだ未分化の状態にある。とはいえ、たしかに新しい時代がはじまっていたのだ。
 人の欲望はかぎりない。だが、目の前にそれしかなければ、どこかで満足してしまうものである。実際、欲望の対象が現前していなければ、欲望がかきたてられるわけもない。まだ高度な産業が発達せず、手工業が中心の時代には、生みだされる商品の種類や量もかぎられていただろう。
 それでも貨幣の誘惑は大きい。所有する貨幣の大きさこそが、金持ちかそうでないかを決定するのだ。しかし、貨幣はそれをもっているだけでは、減りこそすれ、けっして増えていくことはない。商品と結びついてこそ、貨幣は生きてくるのだ。商品世界においては、貨幣増殖の欲求があるからこそ、対象化された欲望にほかならない商品は自己増殖をうながされる。こうして何もかもが商品化されていく。ものだけではない。人の気遣いも性も商品となりうる。西鶴が直面したのはそういう時代だった。
 といっても、江戸時代にカネになる商品はまだかぎられている。最大の商品は米である。租税として集めた米を売ってカネに換え、武士はそこから俸禄をもらってくらしている。カネが必要なのは庶民も同じである。必要に加えて、欲と色が、カネを稼ぎ使うための最大の動機だということを西鶴は知っている。
 そのころの商品を思い浮かべてみよう。江戸時代は250年以上つづくから、そのかんに商品の種類も量も大きく変化したにちがいないが、「永代蔵」に出てくるだけでも、次のようなものがある。
 たとえば食の関係では、米を筆頭に野菜や豆、魚(とりわけ高級なのは鯛や伊勢エビ)、鯨(食用だけではないが)、ほかに茶や菓子(舶来の金平糖も)、胡椒、それに忘れてはならないのが塩、醤油、そして酒(焼酎、清酒など)、その他もろもろ。煙草もいれていいだろうか。衣の関係では絹や木綿、糸、晒布、染めもの(材料としての紅花その他)、着物や帯など。住の関係では木材をはじめとする建築資材、その他、紙や家具、焼き物、台所用品、油や蝋、薪、うるし、それに鼠取りや灰掻き、五徳などの金物も挙げられるだろう。さらに貨幣の原料ともなる金、銀、銅の産出も重要である。長崎では糸や唐織、鮫皮、薬、諸道具などの高級品が輸入されていた。
 西鶴はずいぶん多くの商品をとりあげている。そして、これらの商品は、単なるものではなく、すべて人(家)や場所、運搬手段などと結びついていた。生産面で(あるいは消費面でも)、町や村、鉱山などの役割が重要だったのはいうまでもない。遊郭や芝居小屋、茶屋、宿場、店、寺社などはにぎやかな消費の場を提供した。馬や船、駕籠は運搬手段として欠かせなかった。そして、それはすべてカネ次第の世界に包摂されていたのである。
 江戸時代は西鶴のいた時代においても、すでに商品世界になっていた。けっして農業社会一色というわけではない。とはいえ、その商品のラインアップをみれば、時代の生活ぶりが浮かびあがってくる。その商品世界を西鶴は興味津々の目でみつめている。その視線は世俗的で快楽主義的だったといえるかもしれない。しかし、そこにはどこか悲哀のようなものもまとわりついている。
『日本永代蔵』はいよいよフィナーレを迎える。
 巻6のエピソード3は、泉州堺で長崎貿易にかかわる小刀屋という商人の話だ。小刀屋は幕府から糸割府(いとわっぷ[許可証])をもらって、中国の生糸や綿を輸入する仕事をしていた。
 あるとき、生糸と綿が安値になり、最上等の緋綸子(ひりんず)が一巻18匁5分(約4000円ほど)になったので、10人の友人から銀50貫目(9000万円)借りて、これを大量に買いこんだ。それがあたって、その翌年に綸子が値上がりして、35貫目(6300万円)の利益がでた。
 それでほくそえんでいたら、何の因果か、一人息子が重い病気にかかってしまった。八方手をつくしたものの、少しも回復の見込みがない。ところが、ある人が「まだ新米だが」といって、まだ駕籠にも乗れないような医者を紹介してくれた。その若い医者が、命さえあやぶまれた病人を直してくれたのだ。死んだものとあきらめていた息子が、半年あまりですっかり丈夫になったので、小刀屋が大喜びしたことはいうまでもない。
 医者にお礼をするのはとうぜんだろう。普通の相場なら銀5枚(38万5000円)というところだが、小刀屋が医者のところに運んできたのは、銀100枚と真綿20把、1斗入りの酒樽一荷に箱肴という豪華なもの。
これには若い医者もびっくりした。再三辞退したものの、けっきょくこれを受け取ることにした。この医者はその収入で家屋敷を求め、人から少し借金をして医院を開いた。堺の町では小刀屋の気前よさが評判になっただけではなく、医者の評判もあがったというのが、この話の落ちである。
 カネはめぐりめぐって、人を幸せにする。
次のエピソード4は、棚からぼた餅のような話である。
淀の村に与三右衛門という人が住んでいた。あるとき、五月雨がつづき、橋のあたりが渦巻いていたとき、小山のように大きな黒いものが流れていくのを見かけた。追いかけていくと、岸の松に引っかかってとまったので、それを引きあげてみると、なんと漆のかたまりだった。それを売ると信じられないくらいの収入が得られた。こうして与三右衛門はいきなり里の長者になる。
 好運にめぐりあっただけといえば、そのとおりだが、世間にはまともに働かず、悪事をはたらいて、カネをためようとするやからがじつに多い。それにくらべれば、運をつかむのも富のきっかけとして悪くないと西鶴は考えている。
 いっぽうで、西鶴はこう指摘する。いまは以前と変わって世間に金銀が多くなり、儲けも多いかわりに、ひどい損もする。こんな時代だから、商いがおもしろいのはわかるけれど、けっして世渡りをおろそかにしてはならない。商いの心がけは、資本を強固にして、気を大きく持つことが肝要である、と。
 好運をつかんで里の長者となった与三右衛門の栄華も長くはつづかなかった。一時は水車で淀川の水を引いて、庭に泉水をつくり、多くの客を接待していたが、それもいつのまにか尽き、家は絶えてしまった。このあたり、たまたま転がりこんできた大金も、うまく使わなければ、たちまち消えてしまうという教訓だろうか。
 そして、最後のエピソード5。
 西鶴はいまの世は、人のくらし向きが、昔よりは一般に物事がゆたかになってきていることを認めている。働き手さえいれば、一家4、5人が食っていけ、だれも寒い目にあわないでいられるとも書いている。
たしかに収入にはちがいがある。夫婦共稼ぎでも生活が苦しい家もあれば、一人の働きで大勢を養っている者もある。そんななかで町人たる者は大福を願い、長者をめざすことがだいじである。家柄や血筋ではなく、ただ金銀だけが町人の氏系図になるのだから、と西鶴は記す。
 長者たらんとする町人が住むべき場所は、京・大坂・江戸の三都以外にない、と西鶴は主張する。ここには富が集まってくるからだ。栄枯盛衰は世の常。しかし、長者になるには、その流れをどううまくつかむかが求められる。
 そういいながら、西鶴が最後に取りあげるのは、京都の北山で静かにくらす一家なのだ。ここでは同じ家に夫婦三組が同居している。三代とも幼なじみ夫婦で、みんな一生病気をせず、いずれも仲むつまじく、年貢をきちんと納めて百姓として豊かにくらしている。神を祀り、深く仏を信心しているのが、この一家の特徴だ。
フィナーレにこの話をもってきたのは、西鶴が毎日カネをあくせく稼いで終わるより、一家むつまじく心豊かにくらすのが幸せだと感じていたからだろう。
「おりしも治まる時を迎え、御国(みくに)も静かでめでたいことだ」という讃詞で「永代蔵」は幕を閉じる。
 国が平和で、日々おごることなく地道に努力すれば、カネの心配なく、家族ともども静かに心豊かな生活を送れることが、人にとっての幸せであることは、いつの世も変わらない。浮き沈みの激しいカネの世界をえがきながら、西鶴が最後にたどりついたのは、そういう境地だった。
 西鶴がえがいた「永代蔵」は、その後、ますます成長し、いまでは商品世界が世界の隅々にまで浸透し、人びとは日々おカネの魔術に翻弄されているようにみえる。
江戸時代はある意味で、市場経済社会に枠をはめようとした時代でもあった。西鶴の時代、日本の人口は約3000万人、全人口のうち約87%が村でくらしていた。1700年時点で、1人あたりGDPは1990年国際ドル換算で677ドル。これはイギリスの1513ドル、中国の1103ドルに比べればかなり低い数字である。しかし、日本の1人あたりGDPが幕末にかけ徐々に上昇するのにたいし、イギリスが急速に上昇し、中国が急速に低下するのが印象的である。
 いま日本の人口は2015年時点で約1億2710万人、1人あたり実質GDPは1990年国際ドル換算で2万2791ドルとなっている。
 商品世界が発達しはじめたといっても、江戸時代の日本はいまとくらべれば、数字上でみるかぎり、はるかに貧しかった。しかし、西鶴を読むかぎり、人はいまよりずっと生き生きしていたように感じる。
 商品世界ははたしてこれから人類をどこにつれていこうとしているのだろうか。商品と、カネならぬマネーのあふれる世界で、人が喜び、笑い、泣き、苦しんでいることは、昔もいまも変わらない。西鶴がとらえたのは、そのごく端緒だった。
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